温め合う

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暮れになると、必ず演じられる落語に、「芝浜」があります。とても有名で、古今亭志ん生が演じ、その子の馬生も志ん朝も演じています。もう一つ寒くなってきましたので、「厩火事(うまやかじ)」は、どうでしょうか。こんなあらすじです。

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髪結いで、亭主を食べさせているお崎が仲人の家に来る。今度こそ愛想が尽きたので、別れたいという。仲人も、女房だけ働かせ遊んでいる亭主などとはもう別れてしまった方がいいと言い出す。すると、お崎の方は不満で、亭主の肩を持ち始め、のろけまで言い出す始末。

 呆れた仲人が、亭主のほんとうの料簡を知るための二つの話をお崎にする。

一つは唐(もろこし=中国)の孔子の話。

孔子の留守中に厩(うまや)が火事になって一番可愛がっていた白馬が焼死した時のこと。帰ってきた孔子は門弟や、家人の体のことを気づかい心配し、白馬のことには一言も触れなっかたという故事。

二つめは、瀬戸物に凝っている麹町のさる屋敷の旦那の話。

集めた品を客に見せた後、女房が瀬戸物をしまおうとして運ぶ途中に階段で転んだ時のこと。旦那は「瀬戸物は大丈夫か」しか言わず、女房に「怪我はなかったか」などとは一言も聞かなかった。以後、女房は里へ帰り、里の方からこんな薄情な家には嫁がせておくわけにはいかないので、離縁してくれと言われ、結局、離縁状を書くはめになったと言う話。

 お崎の亭主も瀬戸物に夢中だというので、仲人は亭主が一番大事にしている瀬戸物を落として割ってみろという。もし、亭主がお前の身体を少しでも心配すればよし、瀬戸物のことばかり言っているようなら見込みがないから別れてしまえと言う。

 お崎が家に帰ると亭主が夕飯を一緒に食べようと待っている。お崎は頃を見計らって、押入れから瀬戸物を出し、台所でよろけて割ってしまう。すると亭主は、お崎の体のことばかり心配し、瀬戸物のことは一言も言わない。うれし泣きして、

お崎 「あらまあ、嬉しいじゃないか。お前さん、麹町の猿になるかと思ってどれくらい心配したか知れやしないよ。お前さんは唐の学者だよ。ほんとによかった、嬉しいよ」

亭主 「何も泣くことあねえやな」

お崎 「お前さん、そんなにあたしのからだが大事かい」

亭主 「あたりめえだ、お前に怪我されてみねえな、あしたから遊んでいて酒が飲めねえや」

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この演目の枕で、『なんだって、あんなやつと一緒になってンだい?』、そう聞かれたお崎が、『だってさぶいン(寒い)だもん!』と答えています。江戸落語の面白さです。呑兵衛で役立たずだけど、おかみさんが、一緒にいる理由をそう言うのがいいですね。体も心も、温め合うのが夫婦、難しい理由を言わない落語の方が、真実味がこもっていて、実感がありますし、長持ちしそうです。

(NHKの「北風小僧の寒太郎」です)

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壁を壊そう

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<> at Harvard University on May 30, 2019 in Cambridge, Massachusetts.

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ドイツ連邦の首相であるアンゲラ・メルケル氏が、今年5月30日、アメリカ・マサチューセッツ州ボストンのハーバード大学の卒業式で祝辞を述べました。メルケル首相は、スピーチ冒頭にドイツの作家ヘルマン・ヘッセの言葉を引用。「すべての物事のはじまりには不思議な力が宿っている」とし、平和への思いと次世代への期待を熱弁しました。

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学長、フェローのみなさま、理事会、校友会、教職員のみなさま、卒業生を誇らしく思うご両親方、そして卒業生のみなさま。今日は歓喜の日です。みなさんが主役の日です。心よりお祝いを申し上げます。今日この場にいることをとても光栄に思うとともに、私自身の体験についても、少しお話ししたいと思います。

この卒業式で、みなさんの充実した、もしくは辛かった人生の一章が終わることになるでしょう。今まさに、新たな人生への扉が開いています。胸が高鳴る、感動的なことです。

ドイツの作家ヘルマン・ヘッセは、人生のこのような場面について、素晴らしい言葉を残しています。彼の言葉を引用してから、私の母国語でスピーチを続けたいと思います。

「すべての物事のはじまりには不思議な力が宿っている。その力は私たちを守り、生きていく助けとなる」。

私が24歳で物理学の学士号を取った時、この言葉に鼓舞されました。1978年のことでした。世界は東と西に分断されていました。冷戦の時代です。

私は旧ドイツ、つまりドイツ民主共和国で育ちました。母国は一党独裁政権の下にあり、自由はありませんでした。人々は抑圧され、国家の監視下に置かれていました。政権に反対する者は迫害されました。東ドイツ政府は、人々が自由を求め、脱走することを恐れました。ベルリンの壁が構築されたのは、このような理由でした。

それは、コンクリートと鉄の壁でした。壁を乗り越えようとしたところで発見された者はみんな、逮捕されるか、射殺されました。ベルリンを真っ二つにした壁は、人々をも分断しました。私の家族も引き裂かれました。

私は新卒で、東ドイツ科学アカデミーの物理学者となりました。私の住居は、ベルリンの壁のすぐ近くでした。毎日、研究所での仕事が終わって徒歩で帰宅する道の先に、ベルリンの壁がありました。壁の向こうにあるのは西ドイツ、つまり自由でした。

毎日、私は壁のすぐそばに行きますが、最後に折り返して、アパートに帰宅しなくてはなりません。日常の終わりに、自由から歩み去らなければならなかったのです。「もう限界だ」と何度感じたかはわかりません。すさまじい閉塞感でした。

私は反体制派ではありませんでした。壁に体当たりすることもありませんでした。一方で、自分に嘘をつきたくなかったので、壁を否定もしませんでした。ベルリンの壁は、私の可能性を狭めました。文字通り、私の行く手を阻んでいました。

しかし年月が経ても、壁が成し遂げられなかったことが一つだけあります。壁は、私の内なる思考を阻むことはできませんでした。私の人格、想像力、夢、願望は、どんな禁止や弾圧でも抑え込むことはできませんでした。

「ベルリンの壁」崩壊が意味するもの

そしてついに1989年が到来したのです。人々の自由への思いが、ヨーロッパ中で想像を絶する力を解き放ちました。ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、そして東ドイツでも、数十万人という人々が勇気を持って街路に集結しました。人々はデモを行い、壁を崩壊させたのです。

私自身を含め、多くの人々が不可能だと思っていたことが、現実となりました。かつては暗い壁だけがそびえていた所に、突如扉が開かれました。そして私にも、いよいよその扉をくぐる瞬間がやって来ました。一歩手前で自由に背を向ける必要はなくなりました。私には、境界を超え、広大な地へ足を踏み入れることが可能になったのです。

30年前のその数ヶ月間で私は、何も変わらないことは決してありえないと、初めて体感しました。卒業生のみなさん。私のこの実体験が、みなさまの未来のためにお伝えしたいことの、最初の一つです。もはや変えることができない、不変だと思われることでも、変わってしまいます。

大なり小なりに言えることですが、事実、全ての変革は思考から始まります。私の両親の世代は、これを大変な苦痛をもって学ばなければなりませんでした。私の父母は、それぞれ1926年と1928年の生まれです。2人はみなさんと同じくらいの年頃で、文明への裏切りを経験しました。そして、価値観の崩壊であるホロコーストと、第二次世界大戦が終結しました。

私の母国ドイツは、ヨーロッパと世界に想像を絶する災厄をもたらしました。戦勝国と敗戦国が、長い何月を和解せずに過ごす可能性は、十分にありました。その代わり、ヨーロッパは数百年にも渡る、旧来の争いを克服しました。結果として生まれたのは、虚勢に満ちた強国ではなく、連帯に基づく平和的秩序でした。

言い争ったり、一時的な後退が起きたとしても、私たちヨーロッパ人はより良きもののために団結してきたと、私は固く信じています。

(会場拍手)

また、ドイツとアメリカの関係は、かつての敵国が盟友になれることを示しています。1947年、まさにこの会場で卒業スピーチとして表明された「マーシャル・プラン」が大きな貢献をしました。

民主主義と人権という私たちの価値観に基づいた、海を越えたパートナーシップは、両国に70年以上に渡る平和と繁栄の時代をもたらしたのです。

では現在ではどうでしょうか?、私の世代の政治家は、もはや「リーダーシップの発揮」の政綱に従うことはなく、むしろ「歴史に残るリーダーシップ」と見なされることでしょう。

孤立するではなく、協働するべき

2019年ハーバード大学卒業生のみなさん。みなさんの世代は、ここ数十年のうちに21世紀における大きな課題に立ち向かうことになります。みなさんは、私たちを未来へと導くリーダーの一員です。

保護主義や貿易戦争は、自由貿易を危険に晒し、繁栄の基盤を揺るがします。デジタル化は生活の全般に及んでいます。戦争やテロリズムが起こると、難民や避難する人が生まれます。

気候変動は地球の天然資源を脅かします。気候変動と災害は人の手によるものです。この人類の危機を制御するには、人類の叡智を結集して対処できるはずであり、するべきです。そして、まだそれは可能です。

そのためには、自戒を込めて言いますが、私たち一人ひとりができる限りのことをして、物事を良くしていかねばなりません。私は、我が国ドイツが2050年までのクライメイト・ニュートラル(Climate Neural)の目標を達成することに、全力を尽くすつもりです。

私たちが力を合わせれば、より良い変革は可能です。単独行動しても大きな成果は出ません。そしてこれが、みなさんにお伝えしたいことの2つ目です。

私たちはこれまで以上に、一元的にではなく多元的に考え、行動するべきです。国粋主義的にではなくグローバルに、孤立主義ではなく世界主義に基づいて考え、行動するべきです。つまり、私たちは孤立するではなく、協働するべきです。

(会場拍手)

卒業生のみなさん。みなさんはこの件に関して、私たちの世代とは全く異なるチャンスを未来に有しています。みなさんのスマートフォンは、私が1986年に東ドイツで博士論文を作成する際に使用許可が下りた、ソ連製のIBM汎用コンピュータのレプリカよりも、おそらくははるかに優れた性能を誇ります。

(会場笑)

現在の私たちはAIを駆使し、何百万もの病理症例の画像をスキャンすることができます。例えば、癌をより正確に診断することが可能です。将来的には、情動発達ロボットが医師や介護士をサポートして、患者個人個人のニーズに対応できるかもしれません。どのような運用が可能かはまだわかりませんが、AIのポテンシャルは息を呑むほど大きなものです。

卒業生のみなさん。このチャンスを活用できるかどうかは、卒業生のみなさんにかかっています。働き方やコミュニケーション、人の生き方をどのように発展させるか、決定権を握るのは、まさにみなさんとなることでしょう。

首相として、これまで私は何度も自問自答しなくてはなりませんでした。私は正しいことをしているのだろうか? 私は正しいから何かをしているのか? それとも単にそれが可能だからなのか? みなさんも、この問いを繰り返し自分自身に問い直すべきです。

私たちを阻む「壁」を打ち壊そう

そしてこれが、今日私がみなさんにお伝えしたいことの3つ目です。人がテクノロジーのルールを設けているのでしょうか。それともテクノロジーが人間同士のあり方を下知しているのでしょうか。

私たちは人を、その多面性すべてにおいて尊重できているのでしょうか。それとも単に顧客、情報源、監視対象としてしか見ていないのでしょうか。これは難しい問いです。この難問の答えを得るには、常に他者の視点で世界を観察すべきことを、私は学びました。

他者の歴史、伝統、宗教、アイデンティティに敬意を払うのです。自分が大切に思う信念を決して譲ることなく、それに従って行動するのです。

内なる衝動に従うことができなくなったら、どんなに英断を求められる重圧下にあっても、いったん足を止め、沈黙し、考察し、一息つくべきです。もちろん、これには大きな勇気が必要です。

何よりも、他者へ真摯に向き合う態度が要求されます。そして、もっとも重要なことかもしれませんが、自分自身に偽らずに向き合うことが必要です。

そしてそのスタート地点として、世界中から若い人が集い、真実というモットーの下で学び、研究し、この時代の問題について議論が行われている、まさにこの場以外にあり得ません。それには、嘘を真実とせず、真実を嘘としないことが必要です。また不当な苦しみを当たり前のこととして受け入れないことです。

卒業生のみなさん。みなさんや私たちを阻むものは何でしょうか。それはやはり、壁なのです。心の中の壁、無知の壁、狭量な思考の壁です。この壁は、家庭内や社会の集団、肌の色の違い、民族、宗教の間にも存在します。みんなでこの壁を打ち壊しましょう。

(会場拍手)

世界共存の実現を、何度も阻んできた壁です。成功するかどうかは、私たちにかかっています。そして卒業生のみなさん、これがみなさんに伝えたいことの4つ目です。

当たり前のことなど、何一つとしてありません。個人の自由、民主主義、平和と豊かさも、当たり前ではないのです。

しかし、もし私たちが壁を打ち倒し、扉を開いて広大な場所に一歩を踏み出し、新たなスタートを切ることを受け入れれば、どんなことでも実現可能です。壁は崩壊し、独裁制は消滅します。地球温暖化を食い止め、飢餓を乗り超えることができます。病気を根絶できます。教育の機会を人々に、とりわけ女の子に与えることができます。難民や避難民が生じる根源と戦うことができます。すべては実現可能です。

(会場拍手)

「終わり」のない「始まり」はない

「何を始める時に、できないことを上げつらったり、今まではどうだったかを問うのはやめましょう。何ができるのか、これまで一度もなされなかったことは何かを問いましょう」。

これは、ドイツ連邦共和国の新首相として、当内閣初の女性として、2005年、私がドイツ連邦議会で初めての所信表明演説として表明した言葉の再現です。そしてまさにこの言葉を、お伝えしたいことの5つ目として、みなさまにお伝えしたいと思います。

これほどのことが実現可能なのか、これほどの力が自分たちにあるのかと、自分でもおどろくようなことを実現させましょう。

私の人生では、約30年前のベルリンの壁の崩壊が、開かれた地へ足を踏み出すきっかけを与えてくれました。私は研究者としてのキャリアを捨て、政治の世界へ足を踏み入れました。それは、みなさんのこれからの人生同様、胸がワクワクするような、魔法のようにすばらしい時でした。当然のことながら、疑念や不安もありました。

私たちはみんな、過去は知っていても、未来にあるものは知るよしもありません。みなさんも今日、卒業式の大きな喜びのただ中にあっても、そんなわずかな不安を感じていらっしゃるかもしれません。

お伝えしたいことの6つ目です。広大な地に一歩を踏み出す瞬間は、同時にリスクを背負う時でもあります。古いものを手放すことは、新たな始まりの一部です。終わりのない始まりはありません。夜が訪れない昼、死のない生もまた存在しません。

私たちの人生はすべてこの変化、つまり始まりと終わりの間からできています。この間(はざま)に存在するものを、私たちは人生や経験と呼ぶのです。

始動の魔法を感じ、チャンスを活かし切るため、私たちは時に、何かを終らせることを意識していなければなりません。これは、私が学生として、科学者として得た経験であり、政界で得た経験でもあります。私の政治家としての人生をまっとうした後に続くものは何でしょうか。知るよしはありません。広大な地が広がっています。しかし、これだけは確かです。これもまた、今までとはまったく異なる、新たなものになるでしょう。

メルケル首相、希望の6か条を託す

だからこそ、みなさんにこれらの希望を託します。6つあります。

1.無知の壁、狭量な思考の壁を打ち壊しましょう。不変のものなど何もありません。

2.グローバルで多国間の利益となる共同行動を起こしましょう。

3.常に自問自答し続けてください。自分は正しいからこれを行うのでしょうか。それとも、単にできそうだから行うのでしょうか。

4.自由とは当然あるものだと、決して思ってはいけません。

5.これほどのことが実現できるのかと、自らを驚愕させてください。

6.広い場は、常にリスクを伴います。古いものを手放すことは、新たな始まりの一部です。

そして何にもまして、当然あるものなどは何もありません。あらゆるものが、実現可能なのです。ありがとうございました。

(会場拍手)
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芥川賞作家に火野葦平がいます。福岡県北九州市(若松)の出身で、早稲田に学んでいます。1937年(昭和12年)に、「糞尿譚(ふんにょうたん)」で文壇の登竜門である芥川賞を受賞しました。また「麦と兵隊」、「土と兵隊」、「花と兵隊」で、《兵隊作家》と呼ばれ、流行作家の売れっ子でした。ところが戦争が終わってから、〈戦犯作家〉の汚名を着せられ、公職追放となってしまうのです。

火野自身、二度、兵士として軍隊生活をしています。1937年に、日中戦争に駆り出されますが、翌年、芥川賞を受賞式が、大陸の出征先で行なわれています。あの〈南京攻略〉の時には、報道部へ転属となっています。その時、中国軍の捕虜が全員殺害された様子を、手紙で知らせているのです。

軍歌に、『徐州徐州と人馬は進む・・・』とある、徐州進撃の日本軍の隊内や兵士にあり様を著したのが、「麦と兵隊」でした。私の父と火野葦平は同世代でした。この火野葦平のお父さんは、石炭の荷役で、若松港で「玉井組」の親方をしていた方でした。このお父さんの一代記が、1952〜53年に、読売新聞に連載された、「花と龍」でした。好評を博した小説で、何度も映画化されています。

私は、高倉健が演じた映画を観たことがあります。港湾で、石炭などの荷役をする労務者を、「ゴンゾウ(沖仲仕/おきなかし)」と呼びました。火野葦平自身が、「青春の岐路」で、次の様に、沖仲仕を解説しています。『請負師小頭も、仲仕も、ほとんどが、酒と博打と女と喧嘩とによって、仁義や仁侠を売り物にする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている。』とです。

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私は学校に行っている時に、特段にバイト料が高かったので、この「沖仲仕」をしたことがありました。まだ朝が来る前から〈立ちん坊〉をし、手配師が、『お前、お前・・・・お前!』と指差しで選んで、その日の仕事に雇われるのです。横浜や芝浦では石炭の積み下ろしはありませんでしたが、ポンポン船に乗って船に行き、その船倉からの荷揚げなどの仕事でした。その日の仕事にあぶれると、〈売血〉でお金を手にするのです。私は、元気でしたから、彼らから仕事の機会を奪ってしまっていたかも知れないと思うと、申し訳ない様な思いに駆られます

アフガニスタンで銃撃されて亡くなられた中村哲氏は、この「花と龍」の主人公・玉井金次郎が、母方の祖父に当たるのだそうです。ですからお母様は、火野葦平の妹に当たるわけです。おじいさんは、龍の彫り物をしていて、義侠心に富んだ名物男だったそうです。しかし、中村哲氏は、「義」に溢れておいでで、社会的な弱者のハンセン氏病を病んだ方たちへの医療に当たった方でした。後に、砂漠の民の農業や飲料水のための灌漑用井戸や水路の敷設に力を注がれておいででした。

そのお働きの途上で、襲われて亡くなられたのです。アフガニスタンの大統領や国民から、「英雄」の様に慕われ、その死を惜しまれる様子は、尊敬に値します。名のためでも、財のためでも亡く、困窮する人にために尽くそうとした志は、素晴らしいものであります。

(大統領が担ぐ中村哲氏の棺、向井潤吉の筆による「花と龍」の挿絵です)

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光と陰

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子どもの頃に、「偉大な日本人」として、幻灯や紙芝居に描かれた人物がいました。小説家や映画俳優や野球選手ではなく、科学者でした。教育界では、『君たちは、こんな科学者になって欲しい!』と、《日本人の誇り》と謳われていたのが、「野口英世」でした。

福島県の猪苗代湖の貧しい農家で生まれ、1歳の時に、どこの農家にもあった〈囲炉裏(いろり)〉に落ちて、左手の指に、大きな火傷を負うのです。それで、「てんぼう」という渾名がつけられていじめられます。でも学校の成績は優秀で、高等小学校の時に、みんなに募金を働きかけて、会津若松の医師によって、整形手術が施されます。

その手術の成功で、清作(野口英世の幼名)は、将来医者になる思いを強くするのです。こう言った物語で始まる紙芝居を、感動しながら観たものです。後に、日本医科大学の前身の学校などで医学を学び、アメリカの大学や研究所に留学をして、ペンシルバニア大学の助手、ロックフェラー医学研究所の研究員などを歴任します。

そして、野口を有名にしたのは、細菌学者としての功績でした。アメリカで「梅毒の研究」、エクアドルで「黄熱病の研究」をして、ノーベル賞候補にもなりましたが、アフリカのガーナで、黄熱病に感染して、51歳で亡くなっています。国際社会で活躍した人で、「千円札」の肖像になっています。

しかし、この野口には「陰」の部分があることを、大人になってから、私は知ります。これは個人のことですが、若い頃は放蕩な生活を送ってるのです。子どもの私が知らなかった点です。また、研究の被験で、〈人体実験〉も行っていたのが判明しています。孤児らに、梅毒菌を接種していて、その野口の研究姿勢を社会は糾弾していました。

ある物質が、梅毒の血清に使えないか 、400人もの被験者に人体実験を行っています。しかも、その被験者の多くは、精神病院の入院患者、施設の孤児、公立病院の患者でした。実験について事前に説明したり承諾を取る様なことはしていなかったのです。パスツールが、自分の子どもに、種痘を植えて、実験としたことが有名ですが、野口の被験者の人選には、人権問題が潜んでいるのです。

何度もノーベル賞候補になりながらも、受賞にいたらなかった理由が、この辺のことにありそうです。〈科学優先〉で、人間の尊厳を無視したことは受け入れることはできません。『多くの人の益のために、少数者、しかも障碍や弱さを持つ人の犠牲はやむを得ない!』と言った論理がまかり通るとしたら、大問題です。

伝記を読んで、英雄視していた子どもの私には、人となりの全体像を見て評価することなどできませんでした。自然の猛威を鎮めるために、人身御供が行われていた時代や部落があった話も、子どもの頃に聞いた覚えがあります。『仕方がなかった!』と言う言い訳は通用しないのです。

(友人が四月に撮影した写真です)

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カレー

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「統計」が面白いのです。学問にも「統計学」があり、社会学の一分野なのです。新聞社が、無作為に選んだ一定数の人に質問をし、得られた回答で、内閣や政党や政策の「支持率」を調べて、新聞紙上で、公表しています。どこの新聞社も、同じように調査すると、だいたい同じ数値が出てくるところに、この「統計」が持っている妙味がありそうです。

『日本人は、一年に何度ど<カレーライス>を食べるか?』を食品会社が調べました。どのような調査方法をされたか分かりませんが、その結果は、<78回>でした。そうしますと月に6回以上、週に1回以上も食べていることになります。「国民食」とまで言われるほどの人気料理であることがうなずけます。

3年ほど前でしたが、帰国時に、すぐ上の兄と弟と、父の故郷の横須賀を訪ねました。叔母と従兄弟が住んでいて、お元気な内にと、表敬訪問をしたわけです。ずいぶんしばらくぶりの訪問でした。兄はJRで、弟と私は京浜急行で行ったのですが、JRと京急の駅は別々にあって、結局兄はタクシーで、京急の駅に回って来てくれたのです。横浜駅で落ち合う予定でしたが、会えないままだったのです。

叔母の家で談笑して、昼食にお寿司をご馳走になってから、東郷平八郎の「三笠艦」を見学しようということで、従兄弟も一緒に四人でワイワイし、港遊覧船にも乗ったのです。

それから、『ここに来たのだから!』と、「海軍カレー」を食堂で食べたのです。流石プロ、自分が作るのよりも、はるかに美味しかったのです。期待感もあり、外で伝統食を食べたので、より、そう感じたのでしょうか。「国民食」になった所以は、ここで食べた海軍の兵隊さんが、自分の田舎に帰って、見よう見まねで作って、家族や親戚や友人に振舞って、それで日本中に広まって行ったのだそうです。その後、四人で焼き鳥まで食べてしまいました。

在華の折、訪ねてやって来る学生や友人家族のために、何度、カレーライスを作ったか分かりません。そのカレーは、牛肉、ジャガイモ、ニンジン、ニンニク、ナス、トマト、りんごを煮込み、塩、醤油、ケチャップ、コンソメ、ココナッツパウダーとカレールーで調味して作っています。トマトを結構多く使うので、酸味を感じますが、それとココナッツパウダーが合うのでょうか、我が家にやって来る学生さんたちは、『とても美味しい!』と喜んでくれました。

中国の街にスーパーでは、擬似カレールーが売られていて、専門店においてある日本の物とは、味が違っていました。でも、みなさんは、カレーを食べる様になってきているのです。わが家の冷凍庫には、作り置きが凍らせてあって、不意の来客時に溶かして出すのです。けっこう便利です。

帰国後、あまり作っていないのです。家内の食が変わったのか、ちょっと刺激が強いのか、食べないからです。また作って見ることにします。

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祈念

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作詞が菊田一夫、作曲が古関裕而の「鐘の鳴る丘」が、戦後間もなく、ラジオから聞かれました。

1 緑の丘の赤い屋根
とんがり帽子の時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メーメー小山羊(こやぎ)も啼(な)いてます
風がそよそよ丘の上
黄色いお窓はおいらの家よ

2 緑の丘の麦畑
おいらが一人でいる時に
鐘が鳴ります キンコンカン
鳴る鳴る鐘は父母(ちちはは)の
元気でいろよという声よ
口笛吹いておいらは元気

3 とんがり帽子の時計台
夜になったら星が出る
鐘が鳴ります キンコンカン
おいらはかえる屋根の下
父さん母さんいないけど
丘のあの窓おいらの家よ

4 おやすみなさい 空の星
おやすみなさい 仲間たち
鐘が鳴ります キンコンカン
昨日にまさる今日よりも
あしたはもっとしあわせに
みんな仲よくおやすみなさい

この歌の解説が、「二木紘二の歌物語」に次の様にあります。

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《蛇足》 太平洋戦争末期、日本の主要都市の多くが米軍の空襲を受けましたが、とりわけ首都東京は被害が著しく、区部の大半が焼け野原となってしまいました。

 昭和20年(1945)8月15日、戦争が終わると、空襲で家も親も失った「戦災孤児」たちが街にあふれました。保護施設に収容されなかった孤児たちの多くは、地下道やガード下、防空壕跡などで寝泊まりし、昼間はくず拾いや靴磨き、残飯あさりをして暮らしていました。彼らは「浮浪児」と呼ばれました。

 浮浪児のなかには、かっぱらいや盗みを働く者もいましたが、だれが彼らを責められましょうか。昨今横行している青少年のかっぱらいや万引きと違って、彼らのそれは、ぎりぎり命をつなぐためのやむを得ない行動だったのです。
 責められるべきは、その気になれば避けられた戦争に突っ走り、国内外の民衆を塗炭の苦しみに陥れた指導者たちの愚かな行動でしょう。

 施設に収容された孤児たちも、必ずしも平穏だったわけではありません。一般社会でも餓死者が続出していた時代でしたから、食べ物は十分ではなかったし、虐待やいじめもありました。社会全体が混乱していましたから、そういったことへの監視の目が行き渡らなかったのです。

 菊田一夫作のNHKラジオドラマ『鐘の鳴る丘』は、こうした社会情勢を背景として、昭和22年(1947)7月に始まりました。
 以後3年7か月、790回にわたって放送され、古関裕而作曲の主題歌『とんがり帽子』とともに大流行しました。昭和23年(1948)には、松竹によって映画化され、全部で3本作られています。

 ドラマは、戦争が終り、復員してきた若者・加賀見修平がガード下で浮浪児にカバンを奪われそうになるところから始まります。その浮浪児は隆太といいました。ここから、修平は、隆太やその仲間、修吉、ガンちゃん、クロ、みどりなどと交流するようになります。
 彼らの惨めな境遇を知った修平は、何とかしなければと考え、浮浪児たちも彼を慕いました。そして、修平の故郷が信州だったところから、孤児たちと力を合わせて信州の山あいに「少年の家」を作り、共同生活を始めるのです……

 当時は、日本中の子どもたちが、このドラマを欠かさず聞いていました。子どもたちだけでありません。敗戦とそれに続く苦しい生活にうちひしがれていた大人たちも、このドラマによって、明日への希望を育てたといわれます。

 菊田一夫は、戦争中、岩手県の江刺郡岩谷堂町(現在は奥州市)に家族を疎開させていました。ここの町役場には鐘のついた高楼があり、菊田一夫はそれを見て『鐘の鳴る丘』を発想したといわれます。
 この建物は、明治記念館として保存されており、現在も、毎日午前7時と午後5時に『とんがり帽子』のメロディーが流れています。

 また、映画では、長野県南安曇郡穂高(ほたか)町(現在は安曇野市穂高)にあった青少年の更生施設「有明(ありあけ)高原寮」がモデルになりました。
 現在同じ場所に建っている鉄筋の「有明高原寮」は、やはり青少年の更生施設ですが、『鐘の鳴る丘』のモデルになった建物とは違います。モデルになった時計台つきの旧建物は、昭和55年(1980)に約600メートル離れた場所に移築・復元され、「鐘の鳴る丘集会場」という青少年の合宿訓練施設となっています。

 穂高町は、私の亡母の生地です。昭和27年(1952)4月末の休日、小学校4年のとき、私は、母方の祖父に連れられて、1日の周遊サイクリングに出かけました。その途中、有明高原寮の前を通ったとき、祖父から、ここが『鐘の鳴る丘』の舞台になった場所だと説明されて、非常に感銘を受けたことを覚えています。
 有明高原寮のすぐ先の川には、アルプスからの真っ青な雪解け水が泡立ち流れていました。
 その川を渡った崖下に泉があり、近所の女性たちが洗濯をしていました。崖の上には青い空をバックに早咲きの桜が咲き、泉の水面に花びらを散らしていました。

 それから何十年かして、同じ場所を再訪したら、上流にダムができたためか、川の水は干上がり、泉も桜も消えていました。

(二木紘三)

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まだ幼かった私は、このラジオドラマの放送を聞いた記憶がないのですが、分からないなりに、ラジオから流れていたのだろうと思います。歌は、よく覚えていて、歌ったのですが、平べったい家に住んでいた私には、「とんがり帽子の時計台」がある家が羨ましかったのです。父母がいた私と違った境遇の子がいたのを知ったのは、もっと大きくなってからでした。

ところで、今もなお、戦争孤児、経済孤児と呼ばれる子どもたちが、世界中にいます。平和を願う高貴な心を持つ人が、戦争という最悪な事態を避けられないでいることの矛盾が、人のもう半面なのだと言うことです。たとえ地に平和が実現されなくとも、心には平和が宿る様に祈念する十二月です。

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外地に死す

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 124日、アフガニスタンで医療や人道支援に尽力していた「ペシャワール会」代表で医師の中村哲さんが、現地で何者かに銃撃されて亡くなった。享年73歳、志半ばでの悲報だった。

 追悼のため、中村さんの歩みを記した「週刊文春」201691日号の記事を再編集の上、公開する。なお、記事中の年齢や日付、肩書き等は掲載時のものです。

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 私が子供の頃に暮らしていた福岡県若松市(現・北九州市)は、父と母の双方が生まれ育った土地でした。若松は遠賀川(おんががわ)の河口にあって、石炭の積み出しで栄えた町です。母方の祖父である玉井金五郎は、港湾労働者を取り仕切る玉井組の組長。父親は戦前、その下請けとして中村組を立ち上げ、戦後は沈没船のサルベージなどを生業(なりわい)にしていました。

 ちなみに、玉井組の二代目は作家の火野葦平です。彼は私の伯父にあたる人でしてね。彼が一族の歴史を描いた小説『花と龍』は、小学生の頃に映画化もされました。私は玉井家の実家にいることが多かったので、文筆業で一家を支えていた和服姿の伯父の姿をよく覚えています。

 アフガニスタン東部のジャララバードを拠点に、国際貢献活動を行う医師の中村哲さんは1946年生まれ。港湾労働者を組織した一族の中で、多くの人たちが出入りする家に育った。

自宅には借金取りがしょっちゅう来た

 生活の中心だった玉井の家は大きな邸宅でした。普段から労働者や流れ者風の男たちが行き交い、子供がうじゃうじゃといました。例えば私が兄だと思っていた兄弟が、よくよく聞いてみると従兄弟(いとこ)だった、なんてことも珍しくない。三世代、四世代が入り乱れて住んでいましたね。

 若松の家にいたのは、ほんの数年のことでした。私が6歳のとき、福岡市の近くの古賀町(現・古賀市)に引っ越したからです。後に聞いた話では、中村組の従業員が沈没船引き上げの際に亡くなる事故があったそうです。父は保証人倒れも重なり事業に失敗し、空き家になっていた昔の家に戻った。私はそこで大学を卒業するまで過ごしました。

 古賀町の家は瓦屋根の平屋で、中庭に鯉の泳ぐ池がありました。津屋崎(つやざき)の海岸から運ばせたという庭石が置かれ、事業に失敗して極貧に落ちた、という感じが全くないのは不思議でしたね。とはいえ、借金取りはしょっちゅう来て、強面(こわもて)の男たちが、家具に白墨で差し押さえの金額を書いていく。勉強机にも金額が書かれ、子供心に不安になったのを覚えています。

 ところが、酒豪の両親は心配するより酒でも飲もうと言うばかり。結局、親がクヨクヨしていなければ、子供もクヨクヨしないもので、どこにも悲壮感はありませんでした。

 しばらくして、父は家を二階建てに増築し、借金を返すために旅館業を始めました。「ひかり荘」という旅館の名前は、伯父が付けてくれたものです。部屋は15ほどあり、建設業関係の客が多かったです。土木工事が近くであると、何か月も部屋を借りて出勤するわけです。考えてみれば、私はアフガンで用水路づくりの土木工事をしているので、いまもそうした人たちに囲まれて働いている。何とも不思議な気がします。

宴会客のドンチャン騒ぎから避難して近所の姉の家で受験勉強をしていた

 ただ、子供の頃はそれでも良かったのですが、高校時代は辟易(へきえき)とすることもありました。私の狭い部屋は壁ひとつ向こうが宴会場で、試験の前日でも夜遅くまでドンチャン騒ぎが続くんですよ。

 当時の労働者には命からがら戦地から復員してきた世代が多く、彼らは酔うと盛大に軍歌をうたい始める。手や茶碗を叩き、踊り、大いに羽目を外すものですから、大学受験の時は近所に嫁いだ姉の家に机を置かせてもらい、勉強をしていました。

 一浪の後、九州大学の医学部に入学。1973年に卒業してからは、佐賀県にある国立肥前療養所(現・肥前精神医療センター)の精神神経科にまず勤務した。

 子供の頃、私は虫や蝶の観察が好きだったので、本当は農学部の昆虫学科に行ってファーブル先生のような生活をするのが夢でした。しかし、固い父親からすれば、昆虫学といってもただの遊びにしか聞こえなかったでしょう。

 医学部に進んだのは、医師になりたいと言えばその父の許しが得られると思ったからでした。その頃、ちょうど地方の無医地区の問題がクローズアップされていましてね。自分は医師になって日本国のために尽くしたい。そう言えば表向きは立派です。それでも昆虫学者の夢が諦めきれなければ、後から農学部に転部すればいいと考えたわけです。

 しかし実際に医学部に入ると、国立大学とはいえ高価な医学書を何冊も買わなければなりません。それを父が借金をして買ってくれるのを見ているうち、転部の気持ちはなくなっていきました。親から受けた義理、恩を立てないと親不孝になる。そう思い、医学部を出ようとはっきり心に決めたんです。

 最初、神経科に入ったのは、人間の精神現象に興味があったからです。実は高校の頃の私は極度のあがり症で、教師に当てられただけで汗がわっと吹き出し顔が赤くなる。女性が前に座っていると自然に振る舞えなくなり、固まって動けなくなるくらいでした。そのことでずいぶん悩み、それで哲学の世界を齧(かじ)り始め、読書に没頭していった過去のいきさつもありました。

 一人暮らしを始めたのは、そうして国立肥前療養所に勤務するようになってからです。病院は佐賀の山中にあり、周辺には空き家の百姓家が多かった。そのうちの一軒を借りていました。家は人が住まないと傷むということで、家賃はなし。食事は病院で食べていたので、帰ってきて寝るだけの場所でしたけれど。

 あの頃はうつ病や統合失調症の患者の話を、とにかく聞き続ける日々。カウンセリングでは相手の世界をそのまま受け入れ、会話するのが鉄則です。相手に寄り添うようにして、ただただその人の気持ちを理解しようと努める。

 その経験から私は多くを学んだと感じています。後にアフガニスタンで文化も風習も異なる人たちと接する際、大切なのは彼らの生きる世界を受け入れ、自分の価値観を押し付けないことです。単に違いであるものに対して、勝手に白黒をつけてしまうことが様々な問題を生む。そう考える癖がつきました。

ペシャワル赴任の打診を受けて

 中村さんが初めてパキスタンを訪れたのは1978年。以前から趣味の登山で付き合いのあった福岡登高会から、ヒンズークシュ山脈への登山に医師としての同行を依頼された。それがきっかけで同地に縁ができ、福岡県大牟田(おおむた)市の労災病院などに勤務した後、日本キリスト教海外医療協力会からペシャワル赴任の打診を受ける。

 福岡登高会からの依頼は、二つ返事で応じました。登山の期間中、医師はベースキャンプに何か月も滞在します。そのあいだに自然の観察ができるのが魅力だったからです。

 ヒンズークシュ山脈周辺はモンシロチョウの原産地と言われ、はるか氷河期の遺物とされるパルナシウスという蝶も生息しています。あの高山に本当にモンシロチョウが居るのかを、自分の目で確かめてみたかった。実際にベースキャンプでは充分に蝶の観察ができました。だから、現地赴任を打診された時も、もともと好きな地域だったので心惹かれるものがあったんです。

 結婚したのも同じ頃です。家内は当時勤務していた病院の看護師でした。

 1984年、前年にロンドンのリバプールで医療活動の準備をした後、ペシャワルのミッション病院へ妻と幼い子供を連れて赴任した。同時に彼の活動を日本から支援する「ペシャワール会」も設立された。

 同地での仕事はハンセン病の治療を行い、その根絶のプロジェクトを進めることです。ですが、私が赴任を決めた背景には、医療の他にもう一つの理由がありました。

 実はその2年前に父が亡くなったんです。父が生きていたら、私は老いた両親を残したままペシャワルに行こうとは考えなかったはずです。昔の親父というのは恐ろしい存在で、生きているうちは自分に自由がないような気持ちがするんですね。だから、あの厳しかった父が死んだとき、寂しいという気持ちは当然ありつつも、それにも増して「これで俺は自由になった」という思いを抱いたのです。人生における重しが消え、これからは自分の思い通りの人生を歩んでいくことになる。そんな思いが私をペシャワルへと押しやったのでしょう。

 さて、私たちが暮らしたのは、ミッション病院の敷地内にある邸宅でした。場所はダブガリという旧市街。以前は英国軍の宿舎や兵舎があった英国支配の本拠地で、病棟は兵舎を改築した建物でした。敷地内にムガール王朝時代の廟もある歴史ある街です。

家族と住んだ大きなイギリス軍将校の元宿舎

 私たちの家も以前は将校のためのもので、600坪ほどの敷地が壁に囲まれた英国風のレンガ造りの建物でした。建坪は200坪くらい。浴室も複数。部屋にはカーペットを敷き詰め、畳に見立てていました。ちなみに英国の影響を受けているパキスタン人は平気で土足で上がってくる。一方でアフガン人は日本人に似ていて、玄関でしっかり靴を脱ぐという文化の違いがある。なので、パキスタン人の来客の際、靴を脱いでもらうのに苦労した思い出があります。

 家族5人、私たちは広さだけはあるその家で、小さく生活していたということになります。大変なのはイギリス風の庭園で、雨がほとんど降らない土地柄ですから、水やりをしなければ芝生も花壇の花もすぐに枯れてしまう。これは自分たちでは維持ができず、病院が雇ってくれた庭師に手入れを頼みました。あと、洋式トイレにはいまもなじめませんですね。

 80年代はアフガン難民の支援のために、欧米各国の援助団体が増えた時期です。そのため、アメリカが出資したインターナショナルスクールがあり、私たちも子供を通わせました。妙な言い方ですが、当時のペシャワルは国際的な援助で活気があったんです。

 ミッション病院でハンセン病の治療を続けながら、中村さんの活動は徐々に広がりを見せていく。86年からは新たな支援団体を設立し、難民キャンプでの活動も開始。無医地区での診療や診療所建設に尽力した。活動が大きな節目を迎えるのは2000年のことだ。

 私の活動がハンセン病の治療に留まらなかったのは、現地ではハンセン病だけを見る診療所が成り立たないからです。ハンセン病の多い地域は、結核やマラリア、腸チフス、デング熱、あらゆる感染症の巣窟です。マラリアで死にかけている患者に、ここは科が違うから帰ってくれとは言えない。あらゆる疾患を診察するようになる中で、ミッション病院を出て独自の活動が始まったわけです。そうして診療所を建てる活動を通して、アフガンの人々との付き合いを深めていった。

 赴任から15年後、ハンセン病については国際的にコントロール達成宣言が出されました。その後、一斉に援助が引き上げられていきましたが、一方、アフガンでの感染症の患者は増え続けていました。そこで日本側からの援助が続く限り患者を診(み)続けようと、現地に活動の拠点となる新たな病院を設立したのです。

 そのタイミングで起きたのが、2000年の大旱魃(かんばつ)でした。当時、WHOが発表した被害は、国民の半分以上が被災し、飢餓線上にある者が400万人、餓死線上が100万人という凄まじいもので、そのとき現地で飢え、死んでいった犠牲者のほとんどは子供でした。水がないために作物が実らず、汚い水を飲むので赤痢や腸チフスにかかる。飢えと渇きは薬では治せません。抗生物質や立派な薬をどれだけ与えても命が救えない状況に、私は医師として虚しさを覚えました。そして医療活動の延長として開始したのが、診療所の周りの枯れた井戸の再生でした。

「家」と呼べるようなものはないに等しい

 3年後、中村さんは「百の診療所よりも一本の用水路」を掛け声に、大河川から水を引く灌漑用水路の整備事業も始める。現在、10年以上かけて完成した水路の全長は27キロメートル。3500ヘクタールを潤す。周辺地域の取水設備も手掛け、2020年までに計16500ヘクタール、65万人の農民に水を行き渡らせる計画を進めている。

 いま、私はアフガン人スタッフや時々来る日本人有志とともに、現地の宿舎で暮らしています。ガードを含めると15人ほどの共同生活です。家族はミッション病院を出る際、家内の実家である大牟田に戻りました。

 我々のようにアフガニスタンで活動する国際団体は、お金持ちの別荘のような建物を借り受けて、そこを宿舎や事務所にするのが一般的です。私たちも同様で、ジャララバードの宿舎では一室を私専用の部屋にしてもらっています。六畳くらいの部屋に机が一つ、ベッドが一つ。それだけの部屋です。夜は電気がないため、10時くらいまではソーラーパネルで明かりを付けて消灯。日中は用水路工事の現場にいることが多いですね。

 そのようなわけで、家族と離れてからの私には、「家」と呼べるようなものはないに等しいのですが、ただ唯一のこだわりが風呂です。アフガンには湯船に浸かる習慣がありません。しかし、1日が終わって「ああ、良い湯だな」という瞬間だけは欲しい。そこでイスラマバードのバザールで風呂桶を探し、宿舎のシャワー室に設置しました。これが現地での唯一の贅沢です。

 長年の紛争で疲弊したアフガニスタンでの工事には、時間と忍耐が必要です。最初はシャベルとツルハシしかありませんでしたが、土地の人々の故郷に戻りたいという気持ちに支えられながら、工事を進めてきました。

 この事業を続けていると、水の力のすごさが分かります。旱魃以後、多くの村が土漠と化し、全村が難民化した村もありました。しかし、あるとき用水路が完成すると、噂を聞いたもとの村人が数週間後には現れ、しばらくして荒れた村にテントが並び始める。いずれ村長が帰村し、畑の境界線や村の秩序が以前の状態に復元されるのです。

 そのような村々の様子を見ていると、私はときおり郷愁に誘われることがあります。

 用水路が完成した流域には、緑が文字通りに戻ってきます。水路にはドジョウやフナが泳ぎ、鳥がやってくる。そして、あの稲作の様子や四季の移ろい……。それが日本の何でもない昔の農村風景に非常によく似ている。

 彼らの社会は8割が農民ですから、田植えや稲刈りの季節になれば、それこそ村が総出で農事を手伝う。農業を中心とした共同体の中で、お年寄りが大切にされているのも、生まれ育った若松市や古賀町を思い出させます。

 そして土木作業を行うスタッフと暮らしていると、あの玉井家や実家での日々が胸に甦ってくるのです。その意味で私にとって、アフガニスタンは懐かしい場所でもあるのかもしれません。

(稲泉 連/週刊文春 201691日号)

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私の愛読書に、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、死ねば、豊かな実を結びます。」とあります。ご遺族の上に、お慰めがあります様に。

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ことの顚末

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『鎌倉武士は、現代日本人に比べて勇猛で、生き生きと生きていて、体格も良く、溌剌とし、凛々しく、大らかだった!』と、中学の担任で、社会科を教えてくれた教師が言っていました。武士団が誕生するのは、貴族の荘園の警護の役割を専門にする要請があって、それで誕生しています。

源氏と平氏が、双肩の武士団で、覇を競い合って、攻防が繰り広げられていたと歴史は伝えています。私たちが住んでいる栃木市から、北の方の日光周辺の山間部に、平氏の落人たちが住んだと言う部落があります。今では、東武電鉄や野岩(やがん)鉄道、会津鉄道が走る、鬼怒川沿いに、「湯西川」と言う駅があって、そこから山間部に入った辺りに、その部落あるのです。その観光案内に、次の様にあります。

『壇ノ浦の合戦に敗れ逃れてきた平家落人が、河原に湧き出る温泉を見つけ傷を癒したと伝えられる歴史の古い温泉です。温泉地名の由来ともなった湯西川(一級河川利根川水系)の渓谷沿いに旅館や民家が立ち並びます。湯量豊かな温泉を楽しむのはもちろんのこと、川魚や山の幸、野鳥・鹿・熊・山椒魚の珍味など四季を感じる地元料理を心ゆくまで堪能できます。みそべら等を囲炉裏でじっくり焼いて頂く落人料理も有名です。また、1月下旬から3月中旬のかまくら祭の時期には河川敷に約1200ものかまくらが作られ、ろうそくの明かりが灯る週末の夜は特に幻想的な風景が広がります。』

「壇ノ浦の合戦」は、西暦1185年にあったのですから、800年も前のことになります。敗者は、その様に落ち延びて、捲土重来、いつの日にか氏族の再興を願って生き続けたのでしょうか。私が生まれた山間部には、「藤原姓」の家が多く、清和源氏の流れを汲んでいるのでしょうか、源氏の落人部落だった様です。

「藤」が付く家名(佐藤、近藤、武藤、斎藤、伊藤、加藤、工藤など)は、藤原一族の末裔とか言われています。私の生まれた近くで獲れた、「黒平(くろべら)じゅうろく」と言う、高地で獲れる豆があって、母がよく煮て食べさせてくれました。岩手県の山間部にもなるそうです。田圃が少ない山間の高地では、米の代わりになる物を食べながら生き続けたのでしょう。自然に自生し、それを工夫して栽培して、備蓄しながら食べるのは、健康には適っていたのでしょう。

藤原、平氏、源氏などと言っても、令和の御代になって、『それが何なの?』と言われるのが関の山でしょうか。父は、頼朝に仕えた三浦大介が、三浦半島を拝領して、そこに住み着いて、『いざ鎌倉!』の時に駆け付ける鎌倉武士の末裔だと誇りを持っていましたが、そんなことを誇っても、『それで?』と言われてしまいそうです。

私の体に、鎌倉武士の血が流れているのでしょうか。心の中にも、その気概が受け継がれているのでしょうか。そうだとしたら、大らかで、勇気があって、冒険心に富んでいる心が、果たして宿っているのでしょうか。そんな風に考えてみても、何も誇ることない私が、ただ誇れるのは、《自分の弱さ》なのかも知れません。多くの人の助けや激励や叱責があって、今があるのですから。

華南の街の「菜市場」に、この豆が売られていたのです。隠元が持ってきた「インゲン豆」と同じ様に、その「黒豆」も、大陸から海路を運ばれて、寒冷の高地で生き延びたのかも知れません。時々、観光土産店で、似ている豆を見かけますから、名を変えて各地で育ったのでしょう。人も豆も同じ顚末(てんまつ)なわけです。

(壇ノ浦での源平の争いの図です)

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九層倍

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私たちが長く住んだ華南のアパートの近くのバス停から、7つ目ほど行ったバス停の近くに、大きな敷地の工場があります。薬の製造をしているのが、工場名で分かります。外観だけ見ても、近代的な設備を備えている工場の様です。大きな駐車場に車が止まっていますから、自動車通勤をされている授業員が多いのだと思われます。女子従業員も多そうで、自転車置き場にもたくさんの自転車が駐輪されています。

中国でも薬の需要が多く、西洋薬が中医薬に迫るほどに、薬局に並べれれています。メンソレータムとか正露丸の名の付いた物などもあるのには、驚かされます。この薬局が、数えきれないほどあるのです。いかに中国のみなさんが薬を服用するかが分かります。莫大な資金を投入して、薬が作られていて、従業員の待遇も良さそうなので、莫大な収益をあげているに違いありません。

今、家内が、通院して、“ キイトルーダ “という点滴を受け、その他の鎮痛剤、胃薬、骨粗鬆症予防薬などを処方されて持ち帰って、服用しています。先日、その薬の価格を、改めて見て驚きました。後期高齢者なのと、高額医療費への減額や制限がありますから、請求、領収額にびっくりしないのですが、実際の治療費を見て、驚いたのは、〈医薬品の価格の高さ〉です。

自分は商人ではありませんでしたので、価格設定がどう言った風になされているのか知りませんが、医療保険制度が逼迫しているニュースを聞くにつけ、薬代が驚くほどに高いのが、その原因ではないでしょうか。化粧品と同じで、薬も〈高価格〉でないと、効かないと、医薬業界も患者も思うからなのでしょうか。

薬の成分の原価の何十、何百、何千倍もの価格設定がなされているのではないかと思うのです。〈儲け過ぎ〉は否めません。少々口を悪くして言ってみますが、医薬品業界が、《病んでいる》様に感じるのです。街中の八百屋さんや肉屋さんは、仕入れ値に2〜3割をかけて、値段が設定されるのが健全価格ではないでしょうか。ロス計算を入れても、そんなところが古来、商人の常識ではないのでしょうか。

収益で、子育てで食べさせ、着せ、教育を受けさせ、たまには娯楽で音楽会に行ったり、旅行に出かけて、文化的な生活をする、そう言ったものではないでしょうか。アメリカなどの企業経営者は、信じられないほどの《社会還元》をされていることを聞きます。それが、企業経営者の使命だと断じているからです。

「薬九層倍(くすりくそうばい)」は、薬屋さんへの〈やっかみ(ねたみ、うらやみ〉だけではなく、事実なのでしょうか。

(新撰組副長の土方歳三が若い頃売り歩いていた家伝薬です)

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師走

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外科以外に、ほとんど病院通いをしないで、大人になってから生きてきたのですが、この何年か、血圧を測っていて、とても高い数値が出たのです。今年になってのことで、知人のかかりつけの内科医を紹介していただいて行って、診てもらいました。けっきょく降圧の薬を飲むことになってしまいました。この医師が、何と〈脅しの名手〉だったのです。

何と言ったのかといいますと、血液検査の結果から、体重のコントロールと、甘い物に気をつける様にと言われました。さらにもう一言、『一度壊したら、戻れませんから!』と付け加えたのです。つまり、『糖尿病になったら・・・』と言う、この言葉が、グサっと心に刺さったわけです。そう言われてから、ずいぶん注意深くする様になったのです。

でも、このお医者さんは、ふくよかと言うよりは、血色のよい肥満だったのです。けっこう〈医者の無養生〉で、ご自分にも、そう言い聞かせて生活されておいでなのでしょう。引越して来た家の目と鼻の先の例幣使街道沿いに、内科医がいて、避難先の内科でいただいた薬が切れたので、近所ということで、診てもらったのです。

このお医者さんが話好き、聞き上手で、看護師さんも加わって、中国にいたこと、日本語を教えていたこと、倶楽部のお手伝いをしていたことなどを話してしまったのです。さらに酒とタバコを若い頃にやめたこと、お腹の傷を見たので、腎臓手術をしたことも聞き出されてしまったのです。

「お薬手帳」に、血液検査結果の表があったのを、この医師が見てくださって、中性脂肪以外は問題なしの太鼓判を押してくれたのです。それだからでしょうか、『歳の割りには若いですね!』とほめてくれたのです。昔、若い頃に、耳鼻科の女医さんに、『変な耳!』と言われてしおれたのとは違って、『この方を主治医にしよう!』と決意させられてしまったほどです。《医者の言葉》って力がありますね。

あの女医さんに言われて、帰ってから鏡にうつして、自分の〈変〉だと言われた耳を、つくづく見たのですが、『母似の良い耳なのに!』と思って、医者の言葉を否定し、二度と診てもらいに行きませんでした。ほめられて有頂天にはなりませんが、『当分、大丈夫!』との手形をもらった様で、何か生きて行く自信が出てきた様です。けなされるよりは、ほめられた方がいいですね。

中三の時、大変に心配をかけた担任が、学年末の通信簿に、『よく立ち直りました!』と、両親への通信を書いてくれたのです。『アッ、俺って立ち直ったんだ!』と思ったのですから、自分の担任は、《最高の教育者》だったことになります。『教師になりたい!』と思わせた方でした。

そんなこんなで、今日があります。市役所から、先週末「後期高齢者医療被保険者証」が送ってきました。まだ時々、ときめいてしまうのに、「後期高齢者」の範疇の中に、今月の誕生日から入るんだと思わされて、『まあ仕方がないか!』の師走であります。

(私たちの学校は武蔵野の「クヌギ林」の中にありました)

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