ことの顚末

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『鎌倉武士は、現代日本人に比べて勇猛で、生き生きと生きていて、体格も良く、溌剌とし、凛々しく、大らかだった!』と、中学の担任で、社会科を教えてくれた教師が言っていました。武士団が誕生するのは、貴族の荘園の警護の役割を専門にする要請があって、それで誕生しています。

源氏と平氏が、双肩の武士団で、覇を競い合って、攻防が繰り広げられていたと歴史は伝えています。私たちが住んでいる栃木市から、北の方の日光周辺の山間部に、平氏の落人たちが住んだと言う部落があります。今では、東武電鉄や野岩(やがん)鉄道、会津鉄道が走る、鬼怒川沿いに、「湯西川」と言う駅があって、そこから山間部に入った辺りに、その部落あるのです。その観光案内に、次の様にあります。

『壇ノ浦の合戦に敗れ逃れてきた平家落人が、河原に湧き出る温泉を見つけ傷を癒したと伝えられる歴史の古い温泉です。温泉地名の由来ともなった湯西川(一級河川利根川水系)の渓谷沿いに旅館や民家が立ち並びます。湯量豊かな温泉を楽しむのはもちろんのこと、川魚や山の幸、野鳥・鹿・熊・山椒魚の珍味など四季を感じる地元料理を心ゆくまで堪能できます。みそべら等を囲炉裏でじっくり焼いて頂く落人料理も有名です。また、1月下旬から3月中旬のかまくら祭の時期には河川敷に約1200ものかまくらが作られ、ろうそくの明かりが灯る週末の夜は特に幻想的な風景が広がります。』

「壇ノ浦の合戦」は、西暦1185年にあったのですから、800年も前のことになります。敗者は、その様に落ち延びて、捲土重来、いつの日にか氏族の再興を願って生き続けたのでしょうか。私が生まれた山間部には、「藤原姓」の家が多く、清和源氏の流れを汲んでいるのでしょうか、源氏の落人部落だった様です。

「藤」が付く家名(佐藤、近藤、武藤、斎藤、伊藤、加藤、工藤など)は、藤原一族の末裔とか言われています。私の生まれた近くで獲れた、「黒平(くろべら)じゅうろく」と言う、高地で獲れる豆があって、母がよく煮て食べさせてくれました。岩手県の山間部にもなるそうです。田圃が少ない山間の高地では、米の代わりになる物を食べながら生き続けたのでしょう。自然に自生し、それを工夫して栽培して、備蓄しながら食べるのは、健康には適っていたのでしょう。

藤原、平氏、源氏などと言っても、令和の御代になって、『それが何なの?』と言われるのが関の山でしょうか。父は、頼朝に仕えた三浦大介が、三浦半島を拝領して、そこに住み着いて、『いざ鎌倉!』の時に駆け付ける鎌倉武士の末裔だと誇りを持っていましたが、そんなことを誇っても、『それで?』と言われてしまいそうです。

私の体に、鎌倉武士の血が流れているのでしょうか。心の中にも、その気概が受け継がれているのでしょうか。そうだとしたら、大らかで、勇気があって、冒険心に富んでいる心が、果たして宿っているのでしょうか。そんな風に考えてみても、何も誇ることない私が、ただ誇れるのは、《自分の弱さ》なのかも知れません。多くの人の助けや激励や叱責があって、今があるのですから。

華南の街の「菜市場」に、この豆が売られていたのです。隠元が持ってきた「インゲン豆」と同じ様に、その「黒豆」も、大陸から海路を運ばれて、寒冷の高地で生き延びたのかも知れません。時々、観光土産店で、似ている豆を見かけますから、名を変えて各地で育ったのでしょう。人も豆も同じ顚末(てんまつ)なわけです。

(壇ノ浦での源平の争いの図です)

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