恩人の死


.

.
戦争が終わって、軍需産業の石英の採掘工場が閉鎖されて、父は、その工場を、平和利用し始めたのです。石英を搬出したケーブルを利用して、県有林の伐採権を得て、木材の切り出しをしていました。搬出先は、京浜地帯の木材市場だった様です。その父のもとで、十代の青年が働いていたのです。

この青年は、戦時中、国防の志を立てて、予科練に志願し、終戦とともに、その志は敗れてしまったわけです。出雲にいた当時、父が好きだった、〈泥鰌すくい〉の手伝いをさせられたことがあって、近く親しい関係があった様です。それで、父を頼って、父が始めた事業を手伝おうとしてやって来たのです。

街から作業現場は、山道を歩いて往復していたそうです。若いこの方が、歩こうとしない私を、父に言われておぶって山奥の家に連れて行ってくれたそうです。しかも若くて屈強の方でしたが、荷物を持ちながら、私を背負い、泣き泣き山道を歩いたことを、母や兄たちから聞かされたのです。

その木材の事業を終わらせた後、この方は、故郷に戻って、日本通運の自動車の運転手の仕事を始め、定年まで働いたのです。父への感謝があったのでしょう、秋には鳥取の二十世紀梨を、年末には出雲そばと「あご野焼(飛魚で作った白身のかまぼこ)」を毎年送ってくれました。

.
.

私たちが結婚すると、四人の家に、同じ様に、毎年送ってくださったのです。私が中国に行くまで、それが続いていたのです。父と母が好きだったので、それを父の子たちにも送り続けてくれたわけです。穏やかな方で、私たちは、父や母が呼んでいた様に、『茂ちゃん!』と、〈ちゃん呼び〉を許してくださったのです。

鳥取に出張した時に、出雲のお宅に寄ったことがありました。美味しい、出雲そばをご馳走してくださり、日御碕(ひのみさき)に連れて行ってくださったり、大東の母の親戚までお連れくださったりしたことがありました。その時、父や兄に聞かされた〈昔話〉を話しますと、ただにこにこと聞き流しておられるだけでした。

先ほど、兄と弟から、茂ちゃんが、今朝、九十歳で亡くなられたと、言ってきたのです。みんなで訪ね様との話が何度も、私の帰国時にあったのですが、兄たちは行くことが二度ほどあったのですが、私は実現しないまま、過ぎてしまっていました。もう一度お詫びをしようと思ったのに、叶えられなかったのが残念でなりません。

葬儀のために、兄と弟が明日一番で、出雲に出掛けると言っています。残された奥様と、息子さんの上に、ただ平安を願うのみです。私の大切な方、恩人との戦争後からの出会いと交流に、終止符が打たれたのです。ただ感謝あるのみです。平安!

.

遊びと労働

.
.

オランダの歴史学者に、ホイジンガという方がおいででした。ある本の中で、この方の述べられたことが引用されていました。「遊びと労働」についてでした。「仕事(労働)」だけではなく、「遊び(余暇を楽しむ)」ことに触れています。

日曜日と週日、昼間と夜間、青年期と老年期、冬至と夏至、正月(西洋ではXmas )とその他、夏と冬と言う対になったものの様に、「労働(仕事と言っても好いでしょう)と「遊び」があるのでしょう。

奉公に出た丁稚さんの楽しみは、主人からお小遣いをいただいて、弟や妹にお土産を持って帰省できる、盆と正月だったそうです。それを「藪入り(やぶいり)」と言って、旧暦の一月一六日、七月十六日なのです。「故郷(中国語では  老家 laojia ”と言いますが漢字としては実感が強いですね)」、つまり親元に帰って、過ごす日々の楽しみが、日常の奉公を支えていたと言ってもいいのでしょう。

労働だけでは、人間は耐えられない様にできているのでしょう。日常の義務や任務から解放されて、ホッとできるひと時が、激務の時を支えているとも言えるでしょうか。今年の後半は、ラグビー熱がものすごい一年でしたが、前後半の間の “ half time ” が、それと同じ様な役割を持っていそうです。

ただし、正しく日曜日、昼間、青年期、正月、遊びをしないと、意欲を削いだり、怠心が生じたりしてしまいます。私は、本業の他に、スーパーマーケットの床掃除を、月に二、三度でしたが、20年ほどやっていました。自分たちの事務所を建て上げる時、工務店に頼まないで、自分たちの手で建てたのです。その掃除からの収入が、建設期間の十数カ月間の働き手の生活の一部を支え、後には、子どもたちの教育費に当てることができたのです。

その労働が明けると、私はタオルを手に、朝湯の銭湯や日帰り入浴施設や山間の温泉場に出掛けて、息抜きをしたのです。パチンコとか麻雀とか競馬などをしませんでしたから、500円ほどで湯に浸かって、ボーッと山の稜線や飛ぶ鳥を眺めて、昼時には、蕎麦をすすって、小さな安らぎの時を過ごしたのです。

床を洗浄し、モップをかけ、乾いた床面にワックスをかける作業でした。学校に行っていた時に、大手のホテルのアルバイト中に、ポリシャーを使ったことがあって、その経験を買われて、その仕事を得ることができたのです。「労働と遊び」、これが一対をなすのを身を以て経験したことになるでしょうか。

あの忙しさと緊張を解かれて、今の時があります。けっこう懸命に生きて、義務を果たして来れたんだと自負しているのです。多くの人の助け、協力、理解があってでした。今住んでいる、この街の北の方に、入浴施設があって、一度行ったことがありました。同じお湯、似た様な環境でありながら、労働の日々の合間ではなかったので、あの頃の様な感動がないのに気づかされるのです。

.


.

渓谷の谷間に浴場があって、川の対岸の壁に、ぎっしりと氷柱が下がっていた温泉がありました。あの感動は忘れることがありません。ちょうど今頃の季節、厳冬の凍てつく日が続いていた日だったと思います。あの「遊び」の時々があって、「労働」の日々が支えられていたことになります。

(懐かしい山間の公共の日帰り温泉です)

.

仕事

.
.

市役所では、『まだまだ!』と思っている私を、とうとう「後期高齢者」の枠に入れてしまいました。孫たちだけではなく、正真正銘の〈senior/シニア/おじいちゃん〉になってしまって、もう納得しております。

そういえば、時代の主役は、とっくに息子や娘になって、今や、孫の時代を迎えようとしているのかも知れません。号令一下、妻や子どもたちを従えて、車に乗せ、海水浴やキャンプや親戚の家に連れ出し、一切の責任を自分の肩に負い、気負いながら、家族を守りながら東奔西走した日々があったのを思い返しています。

格好をつけたのはいいのですが、山道を降った車の前方で、旗を降ってるいる男の人が見えました。『何だろう、こんなところで?』と思ったら、静岡県警の交通違反取り締まりだったのです。道理で帽子を被っていました。格好いいお父さんが、速度違反の切符を切られて、しょげて、俯いているのを、車の中から〈八つと二つの目〉で見ていました。頑固親爺も肩なしでした。

そんなことを思い返しながら、本格的な「終活」に入ったのを実感しています。ウイキペディアに、『終活(しゅうかつ)とは「人生の終わりのための活動」の略。人間が自らの死を意識して、人生の最後を迎えるための様々な準備や、そこに向けた人生の総括をする言葉である。』とあります。

「葬儀不要」、「墓不要」を家内に言ってあります。だれかに懐かしく思い返され、悪いことには触れないで、いいことだけが語られる様な式は、して欲しくないのです。造物主の元に帰ることができるので、亡骸を埋葬する場所はいりません。中部山岳の街の上流の流れのほとりで生まれましたので、その流れに灰の一部を、そして13年過ごした華南の街の旧新の両市街を分けて流れる河に、残りを流して欲しいのです。それも大変ですから、巴波川に、そっと流してください。

財産はありませんので、遺言状を書く必要はありません。遺産は無形の思想や精神であって、どんな夫、父親、祖父、友、弟、兄であったかを思い出して戴くだけで十分でしょう。

そういえば、39才の時、家内と4人の子どもに向けて「遺書」を認めたことがあります。すぐ上の兄に、腎臓を提供するために、左腎を摘出手術をすることになって、〈もしか〉のことを考えて書いたのです。家内が、その決意を支持してくれたのは感謝でした。次男は、3歳になったばかりの時でした。

百まで生きさせて戴くつもりですが、どう考えても、もう十年、十五年、そんなところでしょうか。最近、順天堂大学病院の哲学外来の樋野興夫医師の書かれた本を読んで、「死にゆくとは仕事」という考えを知って、うなずいたのです。

鶏小屋の金網のケージを作る作業が、私の社会的仕事の最初のものでした。それから、今している「家内を支える仕事」、現地を離れていますが、華南の街で「継続したい仕事」もあります。もしかしたら、私の方が、家内よりも早いかも知れませんが。一緒に戻れることを願いつつあります。

そして最期に、「死にゆく仕事」が残されているんだと思えるのです。いつも思うのは、〈双六(すごろく)〉の様に、〈上がり〉になる様に、家内や子どもたちの迷惑にならないことだけを願っています。でも、これからは迷惑なしには、後期高齢期を生きられないのですから、万端よろしくお願いしておきます。

.