市役所では、『まだまだ!』と思っている私を、とうとう「後期高齢者」の枠に入れてしまいました。孫たちだけではなく、正真正銘の〈senior/シニア/おじいちゃん〉になってしまって、もう納得しております。
そういえば、時代の主役は、とっくに息子や娘になって、今や、孫の時代を迎えようとしているのかも知れません。号令一下、妻や子どもたちを従えて、車に乗せ、海水浴やキャンプや親戚の家に連れ出し、一切の責任を自分の肩に負い、気負いながら、家族を守りながら東奔西走した日々があったのを思い返しています。
格好をつけたのはいいのですが、山道を降った車の前方で、旗を降ってるいる男の人が見えました。『何だろう、こんなところで?』と思ったら、静岡県警の交通違反取り締まりだったのです。道理で帽子を被っていました。格好いいお父さんが、速度違反の切符を切られて、しょげて、俯いているのを、車の中から〈八つと二つの目〉で見ていました。頑固親爺も肩なしでした。
そんなことを思い返しながら、本格的な「終活」に入ったのを実感しています。“ ウイキペディア ” に、『終活(しゅうかつ)とは「人生の終わりのための活動」の略。人間が自らの死を意識して、人生の最後を迎えるための様々な準備や、そこに向けた人生の総括をする言葉である。』とあります。
「葬儀不要」、「墓不要」を家内に言ってあります。だれかに懐かしく思い返され、悪いことには触れないで、いいことだけが語られる様な式は、して欲しくないのです。造物主の元に帰ることができるので、亡骸を埋葬する場所はいりません。中部山岳の街の上流の流れのほとりで生まれましたので、その流れに灰の一部を、そして13年過ごした華南の街の旧新の両市街を分けて流れる河に、残りを流して欲しいのです。それも大変ですから、巴波川に、そっと流してください。
財産はありませんので、遺言状を書く必要はありません。遺産は無形の思想や精神であって、どんな夫、父親、祖父、友、弟、兄であったかを思い出して戴くだけで十分でしょう。
そういえば、39才の時、家内と4人の子どもに向けて「遺書」を認めたことがあります。すぐ上の兄に、腎臓を提供するために、左腎を摘出手術をすることになって、〈もしか〉のことを考えて書いたのです。家内が、その決意を支持してくれたのは感謝でした。次男は、3歳になったばかりの時でした。
百まで生きさせて戴くつもりですが、どう考えても、もう十年、十五年、そんなところでしょうか。最近、順天堂大学病院の哲学外来の樋野興夫医師の書かれた本を読んで、「死にゆくとは仕事」という考えを知って、うなずいたのです。
鶏小屋の金網のケージを作る作業が、私の社会的仕事の最初のものでした。それから、今している「家内を支える仕事」、現地を離れていますが、華南の街で「継続したい仕事」もあります。もしかしたら、私の方が、家内よりも早いかも知れませんが。一緒に戻れることを願いつつあります。
そして最期に、「死にゆく仕事」が残されているんだと思えるのです。いつも思うのは、〈双六(すごろく)〉の様に、〈上がり〉になる様に、家内や子どもたちの迷惑にならないことだけを願っています。でも、これからは迷惑なしには、後期高齢期を生きられないのですから、万端よろしくお願いしておきます。
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