遊びと労働

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オランダの歴史学者に、ホイジンガという方がおいででした。ある本の中で、この方の述べられたことが引用されていました。「遊びと労働」についてでした。「仕事(労働)」だけではなく、「遊び(余暇を楽しむ)」ことに触れています。

日曜日と週日、昼間と夜間、青年期と老年期、冬至と夏至、正月(西洋ではXmas )とその他、夏と冬と言う対になったものの様に、「労働(仕事と言っても好いでしょう)と「遊び」があるのでしょう。

奉公に出た丁稚さんの楽しみは、主人からお小遣いをいただいて、弟や妹にお土産を持って帰省できる、盆と正月だったそうです。それを「藪入り(やぶいり)」と言って、旧暦の一月一六日、七月十六日なのです。「故郷(中国語では  老家 laojia ”と言いますが漢字としては実感が強いですね)」、つまり親元に帰って、過ごす日々の楽しみが、日常の奉公を支えていたと言ってもいいのでしょう。

労働だけでは、人間は耐えられない様にできているのでしょう。日常の義務や任務から解放されて、ホッとできるひと時が、激務の時を支えているとも言えるでしょうか。今年の後半は、ラグビー熱がものすごい一年でしたが、前後半の間の “ half time ” が、それと同じ様な役割を持っていそうです。

ただし、正しく日曜日、昼間、青年期、正月、遊びをしないと、意欲を削いだり、怠心が生じたりしてしまいます。私は、本業の他に、スーパーマーケットの床掃除を、月に二、三度でしたが、20年ほどやっていました。自分たちの事務所を建て上げる時、工務店に頼まないで、自分たちの手で建てたのです。その掃除からの収入が、建設期間の十数カ月間の働き手の生活の一部を支え、後には、子どもたちの教育費に当てることができたのです。

その労働が明けると、私はタオルを手に、朝湯の銭湯や日帰り入浴施設や山間の温泉場に出掛けて、息抜きをしたのです。パチンコとか麻雀とか競馬などをしませんでしたから、500円ほどで湯に浸かって、ボーッと山の稜線や飛ぶ鳥を眺めて、昼時には、蕎麦をすすって、小さな安らぎの時を過ごしたのです。

床を洗浄し、モップをかけ、乾いた床面にワックスをかける作業でした。学校に行っていた時に、大手のホテルのアルバイト中に、ポリシャーを使ったことがあって、その経験を買われて、その仕事を得ることができたのです。「労働と遊び」、これが一対をなすのを身を以て経験したことになるでしょうか。

あの忙しさと緊張を解かれて、今の時があります。けっこう懸命に生きて、義務を果たして来れたんだと自負しているのです。多くの人の助け、協力、理解があってでした。今住んでいる、この街の北の方に、入浴施設があって、一度行ったことがありました。同じお湯、似た様な環境でありながら、労働の日々の合間ではなかったので、あの頃の様な感動がないのに気づかされるのです。

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渓谷の谷間に浴場があって、川の対岸の壁に、ぎっしりと氷柱が下がっていた温泉がありました。あの感動は忘れることがありません。ちょうど今頃の季節、厳冬の凍てつく日が続いていた日だったと思います。あの「遊び」の時々があって、「労働」の日々が支えられていたことになります。

(懐かしい山間の公共の日帰り温泉です)

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