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思い返しますと、父が亡くなって48年、母は7年になります。二人の兄と弟がいて、私を入れて6人家族でした。小説家で、物理学者の寺田寅彦が、こんなことを言っています。『日本人は自然の「慈母」としての愛に甘えながら、「厳父」の恐ろしさが身にしみている。予想しがたい地震台風にむち打たれ、災害を軽減し回避する策に知恵を絞ってきたところが西洋と違う。』とです。
日本の様に、こんなに自然の恵みを戴いた国は、めずらしいのではないでしょうか。でも、時としては、「雷親爺」の様に、自然界が牙をむき襲ってくることもあります。ビクビクしたと思ったら、「優しいお袋」の様に、満開の桜や山を萌えさせる紅葉を見せ、四季の彩りを色濃く見せてくれます。
育児法などの本を読んだこともない両親に、育て上げてくれたことを思い出しています。優しい母に、一度だけですが、叱られたこともあります。また、父に、褒められたり、煽(おだ)てられたり、抱きすくめられたり、ゲンコツをもらいながら、剛柔、織り交ぜて両親の子育てがあったのです。
不思議な思いがするのは、父が61才で、誕生日の直後に亡くなり、父よりも長生きしている自分が、父を思い返している今、父が年上の感じがしないのが、何となくすぐったいのです。やはり、父は記憶の中にある父だからなのでしょう。もう少し長生きして、親孝行をさせて欲しかった父に比べて、長寿を全うした母の晩年の穏やかな表情が思い出されます。
今日は、私の誕生月なのです。父の戦時下の業務手帳が、父の机の引き出しの中に残されてあって、そこに、『午前4時45分誕生!』と記されてありました。こんな厳冬の早朝に、村長さんの奥さんが、家に来られて、井戸の水を汲んで、お湯を沸かして産湯(うぶゆ)の用意をしてくれて、産婆役をしてくださり、その腕に、私を受け止めて、産衣を着せてくれたのだそうです。
山の渓谷の12月の水は冷たかったのでしょうね。終戦の8か月前の山村ですから、物資の乏しい時でもあったのです。父は水汲みや、湯沸かしを助けたのでしょうか。甲斐甲斐しく動き回って、3人目の〈また男の子〉の私を迎えようと、手慣れた手つきで準備に余念がなかったのでしょうか。そんな中、陣痛に耐えながら、母は産んでくれたのです。
毎年そうなのですが、今では、子どもたちが独立して、世帯を持っていますので、一緒に、一人一人の誕生祝いをしたいのに、そうできないのが残念です。先週、在米の孫娘の水泳大会の動画が送られて来ました。バタフライが得意なのだそうで、家族や友人たちに賑やかな応援の声が聞こえていました。〈工事中〉の孫たち4人と、年々〈いぶし銀〉の様に磨きがかかる様に願いながらも、〈粗鉄〉でしかない私との年齢差に、人生の面白さがあるのを楽しんでいます。
中国語の「老」は、「老いていく」という意味だけではなく、「経験豊か」とか「箔(はく)」が付いて、値打ちがあって、貫禄があると言った意味が含まれているのです。その様に、「完成」に向かっているのでしょう。間も無く迎える新しい月と年に、心を弾ませてくれることが起こることを願いたいものです。そして、さらに「箔」をつけるために、輝いた「2020年」を、家内と共に迎えたいものです。
もうすぐ、お嫁に行った娘たちが家族で〈里帰り〉して来ます。東京圏にいる息子たちも、正月には、やって来ることになっています。この帰省が、私への《誕生プレゼント》なのでしょう。明治五年に創業した写真館が、引越し先の家の目と鼻の先にあって、『正月には、家族全員14人で写真を撮りたいの!』との家内が、予約を入れています。『早く来い来い』の12月17日の早暁です。
(しばらく食べていない「甲州ぶどう」です)
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