里帰り

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13年前に、天津の語学学校で、中国語を学ぶために出かける決心をして、35年分の所帯道具を整理しました。ほとんどの物を、『エイッ!』と廃棄した中で、 家内の妹に、使って欲しくて上げた物がいくつかありました。それが、先日、送り返されてきたのです。

次女の婿殿の母君が、芸術家で、ご自分で作られた物を何点かいただいたのを、差し上げたのですが、栃木に住み始めた家内に、戻してきたわけです。壁などにかける飾り物なのです。〈出戻り〉でしょうか、〈里帰り〉でしょうか、久しぶりに手にして、懐かしくなってきました。

母君は、お病気で、数年前に召されたのですが、料理上手で、何度かご馳走になったこともありました。太平洋の港町に、白亜の別荘を持っていて、泊めていただいたこともありました。創作の場でもあった様です。この方のご主人が、面白い趣味をお持ちなのです。太平洋の波に運ばれた浮遊物が、砂浜に打ち上げられるのですが、それを朝早く、拾い集めて歩くのだそうです。

魚網につけるガラス製のブイや、波に削られた木材や、まあ思いもよらない物もある様で、もし自分も海岸に住む様なことがあったら、真似をしてみたくなる趣味です。実際に泊めていただいた時、海岸を物色したのですが、何も手にできませんでした。
遅かりし内蔵助でした。東日本大震災の津波で、三陸海岸などから、漁船やオートバイなど、様々な物がさらわれて、海流に乗って、アメリカの海岸に打ち上げられているそうです。

知多半島の美浜町に、「三吉漂流記念碑」と言う碑があります。街の広報に、次の様にあります。

『(小野浦の漁民の岩吉・久吉・乙吉が)1832年、宝順丸という千石船に乗り江戸へ向かう途中嵐に遭い、太平洋を1年2か月も漂流した後、アメリカ西海岸へ漂着。その後イギリス経由でマカオに送られ、そこでドイツ人宣教師ギュツラフの聖書の和訳に協力、翌年モリソン号に乗り日本へ。しかし浦賀、鹿児島で砲撃を受け帰国を断念。中国にて、多くの日本人漂流民の援助を行い、送還の手助けをする。また、イギリス海軍の通訳として日英交渉に力をつくした。美浜町が生んだ日本最初の国際人。』

海外渡航を禁じた徳川幕府は、石数(こくすう)の小さな船底の浅い船だけに制限したため、当時の漁船や運搬船は、大嵐に耐えられなかったので、宝順丸も難船してしまったわけです。三浦綾子が、「海嶺」と言う本を書き、映画化されました。土佐のマンジロウも、難船した船員でしたが、賢い人だったそうで、幕末明治に語学に通じていたことで、大変有為な仕事をされています。

「雪中花」と呼ばれる水仙は、中国の河を下り、海に出て、波に運ばれて、日本の海岸に漂着して根付いたので、日本の海岸線に多く棲息し続けてるのだそうです。椰子の実だけではなく、様々なものが渡来してるのは、ロマンがあって興味深いのです。日本人の一部は、その海流に乗って渡来した民なのでしょう。

渥美半島の突端で、何かないかと砂浜を見て歩きましたが、収穫がなかったことがありました。波ではなく、郵便によって〈里帰り〉した額が、今、食卓を見下ろしています。

(知多半島の美浜町の海岸です)
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ボランティア

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「被災」と「罹災」とを、市役所は別に捉えているのが、今回の災害経験者として知ることができました。証明書の発行のために、それぞれ違った定義をしているのです。「被災証明書」は、「地震、火災、風水害などで被害を受けた家財、自動車など動産の被害を証明するもの」なのです。一方、「罹災証明書」は、「被害を受けた家屋・事業所など建物の被害状況を証明するもの」なのだそうです。

10月の台風19号の水害を被った私たちは、みなさんの勧めで、市役所に出かけ当該担当課で、被害状況を撮ったiPadの映像を見せながら、窓口の若い事務方の女性から、「罹災者」の認定を受け、被害程度が、「半壊」との証明書を受けました。

被災者の医療費の免除と言うことで、来年の1月いっぱい、家内の継続治療費や眼科治療費、そして私の内科診察の地浪費も、市が負担してくださっています。やはり大きな助けを受けることができて、ありがたいことだと感謝しているのです。

私たちが住んでいた家の県道に面した家具店の休館が、同じ様に床上浸水をしていて、展示家具が汚水を被ってしまいました。東日本大震災でボランティア奉仕をされた方が、“ SNS ” でボランティア募集をして応答してくださった多くのみなさんの奉仕で、店と私たちの住んでいた家の汚泥を取り除いたり、床材を剥がしたり、廃材を置き場に運んだりしてくださって、綺麗になったのです。

店の再建に取り掛かる前、この年末に、災害復興コンサートが、12月14日に、旧店舗のコンクリートの三和土(たたき)を会場に行われました。お二人の女性歌手、音楽奉仕をされて来た夫妻、マレーシアから来られてボラティアをしてくださったみなさん、参加者全員で歌ったりの演奏や奏楽や歌、社長さんの友人のお話など、とても素敵な手作りコンサートが行われたのです。

永野川の氾濫で被災された薗部町の方たちが〈豚汁〉、ボランティアを指導してくださった方の奥様たちが握った〈おにぎり〉、みかんやなどで昼食をとって、午後の部もありました。大分の尾畠さんは有名ですが、年の瀬も迫った今日も、無名のボランティアのみなさんがお出でになって、被災地の復旧に取り掛かろうとされておいです。

(洪水以前の巴波川です)
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