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芥川賞作家に火野葦平がいます。福岡県北九州市(若松)の出身で、早稲田に学んでいます。1937年(昭和12年)に、「糞尿譚(ふんにょうたん)」で文壇の登竜門である芥川賞を受賞しました。また「麦と兵隊」、「土と兵隊」、「花と兵隊」で、《兵隊作家》と呼ばれ、流行作家の売れっ子でした。ところが戦争が終わってから、〈戦犯作家〉の汚名を着せられ、公職追放となってしまうのです。
火野自身、二度、兵士として軍隊生活をしています。1937年に、日中戦争に駆り出されますが、翌年、芥川賞を受賞式が、大陸の出征先で行なわれています。あの〈南京攻略〉の時には、報道部へ転属となっています。その時、中国軍の捕虜が全員殺害された様子を、手紙で知らせているのです。
軍歌に、『徐州徐州と人馬は進む・・・』とある、徐州進撃の日本軍の隊内や兵士にあり様を著したのが、「麦と兵隊」でした。私の父と火野葦平は同世代でした。この火野葦平のお父さんは、石炭の荷役で、若松港で「玉井組」の親方をしていた方でした。このお父さんの一代記が、1952〜53年に、読売新聞に連載された、「花と龍」でした。好評を博した小説で、何度も映画化されています。
私は、高倉健が演じた映画を観たことがあります。港湾で、石炭などの荷役をする労務者を、「ゴンゾウ(沖仲仕/おきなかし)」と呼びました。火野葦平自身が、「青春の岐路」で、次の様に、沖仲仕を解説しています。『請負師小頭も、仲仕も、ほとんどが、酒と博打と女と喧嘩とによって、仁義や仁侠を売り物にする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている。』とです。
私は学校に行っている時に、特段にバイト料が高かったので、この「沖仲仕」をしたことがありました。まだ朝が来る前から〈立ちん坊〉をし、手配師が、『お前、お前・・・・お前!』と指差しで選んで、その日の仕事に雇われるのです。横浜や芝浦では石炭の積み下ろしはありませんでしたが、ポンポン船に乗って船に行き、その船倉からの荷揚げなどの仕事でした。その日の仕事にあぶれると、〈売血〉でお金を手にするのです。私は、元気でしたから、彼らから仕事の機会を奪ってしまっていたかも知れないと思うと、申し訳ない様な思いに駆られます
アフガニスタンで銃撃されて亡くなられた中村哲氏は、この「花と龍」の主人公・玉井金次郎が、母方の祖父に当たるのだそうです。ですからお母様は、火野葦平の妹に当たるわけです。おじいさんは、龍の彫り物をしていて、義侠心に富んだ名物男だったそうです。しかし、中村哲氏は、「義」に溢れておいでで、社会的な弱者のハンセン氏病を病んだ方たちへの医療に当たった方でした。後に、砂漠の民の農業や飲料水のための灌漑用井戸や水路の敷設に力を注がれておいででした。
そのお働きの途上で、襲われて亡くなられたのです。アフガニスタンの大統領や国民から、「英雄」の様に慕われ、その死を惜しまれる様子は、尊敬に値します。名のためでも、財のためでも亡く、困窮する人にために尽くそうとした志は、素晴らしいものであります。
(大統領が担ぐ中村哲氏の棺、向井潤吉の筆による「花と龍」の挿絵です)
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