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三木露風の詩に、「ふるさとの」があります。露風十八の時の作で、初恋の想いを詠んだようです。
ふるさとの 小野の木立に
笛の音(ね)の うるむ月夜や
少女子(おとめご)は あつき心に
そをば聞き 涙ながしき
十年(ととせ)経ぬ 同じ心に
君泣くや 母となりても
明治末期の少年の恋心、それを詩に表すほどの露風の文才に驚き、さらに早熟だったのにも驚かされます。そんな片思いで終わってしまった初恋の人がいて、恋こがれるような時期が、この自分にもありました。人に言えない、そんな想いを心の奥深くにしまいこんであります。
もうだいぶ前になりますが、NHKの夜の時間帯に、「にっぽんのメロディー」と言う番組がありました。聴取者からの便りが読まれて、毎晩二曲の歌が放送さたのです。そして俳句が詠まれ、放送を担当した中西龍(りょう)アナウンサーが解説し、番組の前奏曲と後奏曲に、「赤とんぼ」の曲が流れていました。
夕焼け小焼けの 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か
山の畑の 桑の実を
小かごに摘んだは まぼろしか
十五でねえやは 嫁に行き
お里の便りも 絶え果てた
夕焼け小焼けの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先
この歌も露風の作詞で、露風の故郷の兵庫県龍野町を思い描いて作詞されたのでしょうか、実に叙情あふれる歌です。私が学んだゼミの歌で、何かあるとみんなで歌ったのです。この詞の中の「姐や」は、お姉さんなのではなく、露風の家のお手伝いさんだったのでしょう。その姐やが、少年露風の初恋の相手だったのかも知れません。この姐やへの想いを詠んだのかも知れません。
私の家族が、東京に出てきて住んだ家は、旧甲州街道に面していて、小高い丘陵を切り開いて、道路が敷かれていました。そこには、絹糸を取る繭(まゆ)の餌になる、桑の木の畑が広がっていたのです。そこに「どどめ」と呼んだ桑の実がなっていました。
近所の遊び友だちに誘われて、実を摘んで口いっぱいに、それを頬張ったのです。果物の少ない頃でしたし、初めて食べてから、美味しいので大好きになってしまいました。それが実る季節には、手で摘んで食べ続けていました。 ほんとうに美味しかったのです。今年も、5~6月あたりには実ることでしょう。でも桑畑が、こちらでは見当たりません。
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幼い日の今日に至る日々の思い出は尽きません。広大な関東平野の西の端に近く、奥多摩を源とする多摩川が流れ下っていて、江戸と甲州、信州を結ぶ間にあった街でした。南に富士を仰いで、田んぼが広がる農村でした。そこに7歳から13年ほど生活したでしょうか。
「出身地」は、生まれ故郷とは別に、小学校時代を過ごした村や街を言うのだと、聞いたことがあります。貝塚があって、そこに通っては、古代人の生活を探りたい想いで、土を掘り起こしていた日々がありました。古代と自分の時代との、時間の隔たりが不思議で仕方がありませんでした。
もうふるさとも出身地も、遠い存在になってしまいました。聖書を読む人は、どうも過去にではなく、未来に思いを向けているようです。
『されど彼らの慕ふ所は天にある更に勝りたる所なり。この故に神は彼らの神と稱へらるるを恥とし給はず、そは彼等のために都を備へ給へばなり。(文語訳聖書、ヘブル書11章16節)』
「彼ら」とは、神を神として信じた者たちであり、その慕う所は、「天国」だったのです。この地上の生まれ故郷も出身地も、生活を営んだ街々も、比べればさらに勝る所なのです。信仰者たちの「憧れの地」、「永遠の故郷」なのです。そここそ、私の真正の「ふるさとの」であります。今は病むことも、悩み迷うこともあります。でも単純に信じて生きられるのは感謝なことです。
(ウイキペディアによる露風のふるさとの「龍野市の揖保〈いぼ〉川」、「多摩川」です)
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