栃木県の北部、那須塩原地方に、那須町があります。その豊原丙の千振(ちぶり)地区には、戦後の昭和21年に、政府の肝入りで、旧満州(現中国東北部)からの引き揚げのみなさんが、戦後を生き抜くために入植されたのです。大変な苦労をして開拓をされてきたそうです。
初期には75戸の入植があって、雑木林の開墾から始まったそうで、現在は65戸の酪農家が、農場経営をされておいでです。私の兄は、旧満州、旧南満州鉄道の「満」に由来して、父が命名していて、あの時代の明暗、多くの開拓民のみなさんの辛苦が偲ばれます。そのような開拓村は、全国に数多くあったのだそうです。
1937(昭和12)年に日中戦争、1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まっています。戦勝を願ってでしょうか、戦中は、「勇」、「武」、「士」、「勝」、「功」、「勲」と言う漢字が好まれて、日本男児の名に用いられたのです。同級生には、「征夫(征服からでしょうか)」とか「紘一(八紘一宇からでしょうか)」とかの名を付けてもらっていたのです。五族共和を掲げた、海外に領土を持とうとする動きの中ででした。
戦中から戦後にかけて、中部山岳の山の中で育った私たち兄弟を、父が、街でテントを張って興行するサーカスに連れ出してくれたことがありました。あのテントの中の様子が、おぼろげに時々、思い出されるのです。『ジンタッタ、ジンタッタ!』と言う、ジャスやマーチなどの曲を演奏する音楽隊の賑やかな音が、耳の中に響くのです。子どもの頃の激励歌のような音でした。
それ以外の日は、兄たちは学校に通い、弟と私は、戦時中には石英を運び、戦争が終わってからは、木材を運んだ索道(ケーブルカー)の終点の櫓の上で遊んだりしていたのです。時々山に行く兄たちの後について行き、「木通(あけび)」狩りをしたり、小川で魚を追ったりしたのです。
家の前の通りを、ずっと上ったところに、開拓団の部落があったのです。上の兄の同級生がいたのを、後になって話を聞いて知りました。きっと那須の地で開拓した人と同じように、旧満州から帰ってこられた人たちの開拓部落だったのでしょうか。子どもの足では、遠かったので、そこには行ったことはありませんでした。
父も、旧満州で若い日々を働いたと言っていました。おじさんも関東軍の主計将校だったそうです。戦争が拡大していく中で、父は、朝鮮半島や山形の鉱山で働き、終戦間際は、「軍需工場」で、軍名に従って、石英の採掘をして働いていたのです。
「開拓者たち(北川恵著 幻冬社刊))」を読んで、そのようなことを思い出したのです。この本の主人公は、旧満州開拓団の結婚適齢期を迎えた開拓者たちに、写真一葉で、海を渡って、嫁入りした女性なのです。開拓の辛苦、終戦間際のソ連軍の侵攻、想像を絶する逃亡と帰国の物語なのです。
この繁栄の時代の只中にあって、戦時下にあったことごとなど、絵空事のように思えるのですが、私たち四人兄弟は、戦争孤児たちと同世代で、そうなり得たことを考えると、他人事とは思えません。
大陸で、軍人として没したお父さんの軍帽をかぶって、九州の温泉町で、チャンバラで遊んだ級友の話を聞いていました。その戦争で父を失った彼が、わが家に泊まりに来て、お父さんと同世代の私の父と話していたのですが、どんな思いが去来していたのだろうかと、今になっても思うのです。多くの年月が過ぎていきました。
(ウイキペディアによる那須・茶臼ヶ岳、日本陸軍軍帽です)
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