流行病

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 仙台の病院で、鼓膜の再生手術をしたことがあり、市内の将監(しうげん)で、四日ほど入院しました。退院した足で、青葉城に登ってみたのです。そこは伊達政宗の居城で、彼を「独眼竜」と呼びます。戦場で負った傷だったとばかり思っていましたが、実は、幼少期に罹った「天然痘」で、右目を失明していたのです。

 古代エジプトに起源のある「天然痘」は、長く人類の敵として、数多くの命を奪ってきました。日本には、大陸からの渡来人によって持ち込まれたと言われています。1796年に、「近代免疫学の父」とよばれたジェンナーの人体実験によって「種痘(牛痘接種)」という、ワクチンが誕生したことによって、制圧されるまで、続いたのです。

 日本人は、古来、突如として襲ってくる「流行病(はやりやまい)」に見舞われて、どういったふうに、対処してきたのでしょうか。近代的な疫学の研究や保健衛生などのない時代、先人が残した知恵や、多分《閃き》、天来の知恵と言ったらいいでしょうか、それらで対処してきたのでしょう。

 少なくとも、global な21世紀の日本列島で生きている私たちは、そのたびたび襲ってきた流行病をくぐり抜けて、命を受け継いできていることは確かです。例えば、私を産んでくれた母は、生まれて間も無く、流行った、〈伝染病〉に感染することなく、95歳まで生き抜きました。

 幕末から明治には、1850年に、アメリカのミシシッピー号という船の乗組員によって、長崎に持ち込まれた、「コレラ」が流行っています。

 日向国(現宮崎県)高鍋藩では、この流行病を、「ころり病」と呼び、次のようなおふれが発行されています。

 『「臍の両脇一寸五分のところに折々灸治をして身を冷やさぬ」養生や、「少しでも吐瀉・腹痛など、いつもと違う症状のあるときには、はやく寝所に入り、飲食を慎んで体を温め、「芳香散」(漢方薬)を服用し医師へみてもらうこと」・・・』

 この「コレラ」は、1880〜90年代にわたって、大流行したのです。大正時代に入ると、「赤痢」、「発疹チフス」が流行しています。大正期7年に、インフルエンザが流行り、それを「スペイン風邪」と呼びました。

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 この「スペイン風邪」による全世界の患者 6 億人で、死者 が2300万人でした。日本では、国民の 5 人に 2 人に当たる 2100万人が感染、発症しています。なんと死者は38万人 にものぼっているのです。母は、島根県出雲市で生活をし、前年の1917年の三月生まれですから、感染の可能性はあったわけです。

 新コロナ感染症(Covid19)では、〈三密回避〉とか 〈 social distance 〉とか言われて、〈マスクの着用〉が求められています。当時、どんな対策があったかが報告されています。

1 多数人の寄る所,ほこり立つ所へは行 かぬがよろしい

2 悪性感冒の病人には接近せぬように注 意せられよ

3 せきをするとき,ハンカチで口を覆い, また,たんを吐き散らさぬようになさい

4 鼻毛をそらぬよう,また胃腸をこわさぬように用心せられよ

5 日々丁寧にうがいをし,口内,のどを清潔にせられよ

6 うがい液御入用の方は本会事務所ヘビ ール瓶お持ちあれば差し上げます

7 食振るわず少しでも身体だるく,また 熱あると思えば,早く医者に治療を受けられよ(大阪府衛生会)

 100年後の今と、あまり変わらない生活上に注意事項だったわけです。人類の歴史は、飢餓や戦争と共に、この流行病と闘ってきた歴史と言えるでしょうか。きっと、新型コロナ感染症も制圧され、流行の終息を迎えることと信じています。

 私たちに必要なのは、正しい科学的な知識であって、基本的な予防なのでしょう。親に言われて、家に帰ると、手洗いやうがいをするように言われて、身につけた生活習慣を守ることなのでしょう。結局は、《注意深さ》なのでしょうか。もう一つは、「自粛警察」的な社会的な責任追求や責め、さらに「ケガレ」とされる〈差別〉があるようです。だれにでも起こることであって、地域社会全体、国全体、地球的な規模での協力と理解でしょうか。

(独眼竜の政宗、マスク姿の古写真です)
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明日

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Green Tree with red Apples. Vector Illustration.

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 九歳の親鸞が、詠んだとされる和歌があります。

明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かむものかは

 この歌を、上の兄に教えられたのです。その意味は、『美しく咲いている桜が、明日も見ることができるだろうと安心していると、夜中に強い嵐が吹いてきて、花びらを散らししまうかも知れない!』と言ったのです。道を成す人の幼い日の垣間見せた賢さに驚かされます。親鸞は、自分の命を桜の花に例えたのです。「今」の大切さを心に期して、生きた人だったのでしょう。

 1958年、中学生の頃であったでしょうか、石原裕次郎が、「明日は明日の風が吹く」と言う歌を歌って、それが映画化されたのです。その前年でしょうか、「ケセラセラ」と言う、スペイン語の歌が和訳されて、『明日はなるようになるさ!』と歌って、流行っていました。

 新美南吉も、「明日」と言う詩を書きました。

花園みたいにまつてゐる。
祭みたいにまつてゐる。
明日がみんなをまつてゐる。

草の芽
あめ牛、てんと虫。
明日はみんなをまつてゐる。

明日はさなぎがてふになる。
明日はつぼみが花になる。
明日は卵がひなになる。

明日はみんなをまつてゐる。
泉のやうにわいてゐる。
らんぷのやうにともつてる。

 明日はないかもしれないと言うように、哲学的な捉え方をするか、それとも、『どうにかなるさ!』と気楽に、しかし実態のなさで捉えるか、明日って、そんなに漠然としたものなのでしょうか。

 明日、世界が終末を迎えようとしても、『私は、リンゴの木を植えよう!』としたと言われている(出典の確証は無いようです)ルターや、イスパニア(スペイン)にまで足を伸ばし、福音を宣べ伝えたいと願ったパウロのように、明日に望みを繋いで生きたほうがいいのです。

 明日は不確かに思えて、どうなるのかの不安が、地の表を覆っている今日日、29歳で結核で亡くなった新美南吉は、蛹(さなぎ)や蕾(つぼみ)や卵は、きっと蝶になり、花開き、鶏にかえると信じて、明日を捉えていた人だったのです。次の season が、必ず来ると言う《待望》って、とても快い生き方ではないでしょうか。

 中国語は、人から離れる時に、『明天見mingtianjian』と言う表現を使います。それは《願望》です。明日への《肯定》なのです。『だから元気でいてね!』の《祝福》でもあるのでしょう。

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詩人

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 JR中央線の豊田駅の発車時に、ホームで流れる〈発車melody〉は、「たきび」です。弟が住んでいまして、コロナ前はよく乗り降りをしました。岩手県で生まれ、東京都下の日野市で亡くなるまで生活をした詩人の巽聖歌(たつみせいか)が作詞をしています。作曲は、「不思議なポケット」にも曲を付けた渡辺茂です。

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
しもやけおててが もうかゆい

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
そうだんしながら あるいてる

かきねの かきねの
きたかぜぴいぷう ふいている

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
そうだんしながら あるいてる

そうだんしながら あるいてる

 この巽聖歌は、岩手県盛岡市に隣接する紫波町(旧・日波町)に生まれ、父が生まれ育ち、父の祖父がいた横須賀海軍工廠で働きつつ、作詞をしていた方です。戦後、日野市で生活をしました。私は、結婚してから、同じ日野市に住みまして、弟も同じ日野市の旭ヶ丘に、結婚後に住んでいるのです。

 若い日に、教会に導かれた人でした。北原白秋に師事し、新美南吉と親しい関係があって、新美が亡くなる頃には、よく世話をしています。私の恩師は、卒業していく私たちに、『詩人たれ!』と一言語ってくれました。多才な人だった寺山修司は、自分を「詩人」だと言って自己紹介をしていました。

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 やはり、「感性」が飛び抜けて鋭かったり、豊かだったりする人なのでしょうか、「詩人」って。最近、家内が図書館で、谷口ジローの「歩く人」を借り出してきて読んでいました。椅子の上にあったので、私も読んでみました。緻密な描写の漫画で、言葉数は少ない一編一編の日常を、散歩する主人公が、東京都下の北多摩郡の街を歩いているのだと、北多摩で育った家内が、『見慣れた光景が描かれていわ!』、そういっていました。

 詩のような漫画で、人気作家であることに納得しました。物や風景、人の営みなどに無関心ではないような生き方が、「詩人」にはあるのでしょうか。それでいて、どこか夢を見ているような理想家でもありそうです。そんな人になるように、恩師は願ったのでしょうか。横須賀にお住まいでした。実に重い Thema をもって生きるように激励され、それが何かをまだ考えつつある今なのです。

(豊田駅の古写真、「歩く人」の一コマです)

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Never give up

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ヨーロッパが、ナチス・ドイツの世界制覇の野望のもと、危機的な状況下にあった、そんな時に、イギリスの首相に就任した、ウインストン・チャーチルは、イギリス国会の下院で、次のように演説をしました。

 『我々は最後までやるつもりだ。我々はフランスで戦う、我々は海で戦う、我々は日々大きくなっていく自信と力でもって空中で戦う。我々はどんな犠牲を払おうとこの島を守る。我々は海岸でも戦うだろう。我々は水際でも戦うだろう。我々は野で、街頭で、丘で戦うだろう。我々は決して降参しない。例えこの島やその大部分が征服され飢えに苦しもうとも、私は降参を信じない。我々の陛下が海の向こうで英国艦隊に守られ、陛下の全ての力と権力によって、神のよき時代の中へ、彼らを古きより救い新世界へ解放する歩みを進めるまで、努力を続けるだろう(1940年6月4日)。』

 やはり光輝ある大英帝国の政治的な指導者の決意は、違っていました。決して揺るぐことも、ずれることもなかったのです。しかも英国一国だけを守備するだけではなく、ヨーロッパ全体に思いを向けていたのは、驚くほどでした。その度量の大きさは、さすが英国国民の長でした。そして、チャーチルの言葉で忘れられないのが、

 “Never, never, never, never give up(決して、決して、決して、決して諦めない)!

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 私も、『最後まで諦めない!』で、与えられた一度きりの自分の人生を全うしたいと願っています。年をとり、肉体は衰え、例え病気がちになったとしても、そして息子や婿や孫に背負われても、最後の日まで、諦めないで、<双六(すごろく)>のゲームのように、《上がろう》と決心しています。私も抱えている、「魂の闇」に負けないで、この馳せ場を走り抜き、光り輝く中を昇華したいものです。

 思い返しますと、ずいぶん長く生きてきたものです。6歳で、17歳で、19歳で、35歳で、そして59歳で、何度も何度も死の危機に直面しながらも、生きることが、許されての今日なのです。ですから、老いの明日に夢を繋いで生きて行こうと、改めて決心しています。

 ヨーロッパでは、風雲急を告げそうな様相を呈していますし、北関東ではまた雪も舞いそうですが、確実に春が来ようとしています。年齢的に、もう十年生きられるでしょうか。でも残された日を、意味あるものにして生きていきたいと思うのです。人生のあちこち痛い晩年を過ごしている今、孫たちの成長ぶりが伝えられてきています。英検合格、水泳大会の活躍、高校合格、baseball の新season 開幕など、青春を謳歌しているのです。孫たちの結婚式出席や、ひ孫を抱くことなど、まだすべきことがありそうです。

 明日に夢を繋いで、今日を輝いて、家内と一緒の時を生きていきたい、そんな思いの2月です。誕生日にもらった胡蝶蘭が、窓辺で第三期目の花を、四つの鉢で5輪ほど開きました。もう春の陽は、強く差し込んできているのです。私も Never give up  なのです。

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ムズムズ

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 私の記憶では、国鉄でも私鉄でも、国鉄が民営化してJRになってからも、電車の一等車に乗ったのは、ただ一度だけでした。それは、職場の慰安旅行で、伊豆に出掛けた時でした。その年の幹事が、『たまには一等車に!』との奮発で、東京から、伊豆急行直通で下田まで乗ることができました。普通車の硬い座席とは違って、《重役》になったら、こんな気分かなとの気持ちで、ゆったり座ることができたのです。

 その職場の出張時には、出張規定で、二等車の利用でしたから、福岡県に出張した時、東京から博多まで"ブルートレインの「あさかぜ」の二等寝台でした。帰りも予約してあったのですが、福岡の協会の事務局長が、福岡発、羽田着の飛行機の搭乗券を買ってくれて、それで初めて飛行機に搭乗したのです。

 戦闘機ノリを夢見ていた軍国少年の私でしたが、離陸時と着陸時は、ギュッ!"と手を握ってしまう様な緊張を、いまだに忘れていません。それでも"アッ!"と言う間の羽田でした。

 実は、滞華中に、アモイから私たちに住んでいた街に帰る時に、一等車に乗車して帰ったことがありました。アモイ駅の乗車券売り場の「軍人用窓口」に並んで、2〜5時までの<二等座>を買おうとしていたのですが、空きがありませんでした。一等車だけがあったので、それを買い求めたわけです。街の駅に、車で出迎えてくださる方がいましたので、遅くならないために奮発したのです。

 やはり、ゆったりと座れました。ただ後ろの一団の話し声が高く強くて、だいぶ迷惑でしたが、「郷に従え!」で、じっと"我慢の子"をしていました。これで中日両国の《一等車乗車経験》をすることができたわけです。このアモイ駅の軍人用窓口ですが、軍人の他に、外国人や年寄りを優先する窓口の様で、列に並ぶ時間が少なくてよかったのです。

 アモイ駅の最初の窓口係は、女性でしたが、もう少し笑顔と優しさがあったら、ご自分もハッピーになれそうでした。ところが隣の窓口に回されたのですが、そこの若い男性の係りの方は、穏やかで、外国人の中国語をしっかり聞き取って、優しく接してくれたのです。爽やかで好かった!

 帰国後の今、コロナ禍で旅行もままならないのですが、そろそろ自転車から飛行機や特急電車や新幹線や高速バスに乗り換えて、長崎や熊本に行ってみたいのです。そうでなくとも〈中遠足〉をしてみたい、ムズムズとした願いが湧き上がってくる、雪の後の陽を浴びて思う二月です。

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 今日は雪が降って、乾き切った街も野も畑も、うっすらと白く彩りを見せてくれました。何か心の渇きが、潤されるような気持ちになって、ホッとしたような思いになっています。作詞が内村直也、作曲が中田喜直の「雪の降る街を」がラジオから聞こえてきて、雪が舞ったり、山から吹っ飛んでくる( 那須地方ではこんな表現をされるようです)と、この歌が思い出されるのです。

雪の降る町を 雪の降る町を
思い出だけが 通りすぎて行く
雪の降る町を
遠いくにから落ちてくる
この想い出を この想い出を
いつの日にか包まん
あたたかき幸福(しあわせ)のほほえみ

雪の降る町を 雪の降る町を
あしあとだけが 追いかけてゆく
雪の降る町を
一人こころに満ちてくる
この哀しみを この哀しみを
いつの日かほぐさん
緑なす春の日のそよ風

雪の降る町を 雪の降る町を
息吹きとともに こみあげてくる
雪の降る町を
誰も分からぬ わが心
このむなしさを このむなしさを
いつの日か祈らん
新しき光降る鐘の音

 雪が降ると、教会の建物が角地にあり、小学生や中学生の通学路でしたので、毎年、冬になると雪除けをするために、ずいぶん苦労をした記憶があります。年に2、3回あったでしょうか。車で踏み固められる前に除雪をしないといけないのです。真夜中に起き出してやったこともありました。

 一旦凍ってしまうと、通学の子どもたちが滑ってしまうので、懸命な作業をしたのです。陽が出てくると溶けるので、待っていたいのですが、それでは登校時には間に合わないので、水道水をホースでかけたりしました。

 今年は、近年になく大雪が、北海道や東北、日本海側で降って、大変な様子がニュースで伝えられてきています。雪が溶けると、春がくるといった喜びを、豪雪地の人々は感じられるのでしょうけれど、雪の少ない地で生まれ育った私は、そんな喜びを味わったことなどありません。降る雪を楽しんだ子どもの日を思い出します。

豪雪の地方で、雪の災害にないことを願い、雪に慣れない首都圏で、交通事故や滑って怪我のないようにと願う夕べです。

(“フォト蔵”からのイラストです)

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滋賀県

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作詞が小口太郎、作曲が吉田千秋作曲(イギリス民謡「ひつじ草」を下敷)で、第三高等学校の歌として有名な「琵琶湖周航の歌」があります。

われは湖(うみ)の子 さすらいの
旅にしあれば しみじみと
昇る狭霧(さぎり)や さざなみの
滋賀の都よ いざさらば

松は緑に 砂白き
雄松が里の 乙女子は
赤い椿の 森蔭に
はかない恋に 泣くとかや

波の間に間に 漂えば
赤い泊灯(とまりび) (なつか)しみ
行方定めぬ 浪枕
今日は今津か 長浜か

瑠璃の花園 珊瑚の宮
古い伝えの 竹生島
仏の御手に 抱かれて
眠れ乙女子 安らけく

矢の根は深く 埋もれて
夏草しげき 堀のあと
古城にひとり (たたず)めば
比良(ひら) 伊吹(いぶき)も夢のごと

西国十番 長命寺
汚れの現世(うつしよ) 遠く去りて
黄金(こがね)の波に いざこがん
語れ我が友 熱き心(むね)

 近江八幡市は、日本最大の湖の琵琶湖の岸にあって、風光明媚な街なのです。第三高等学校とは、今の京都大学の前身で、学府としては西の雄であって、多くの有名無名の器を送り出した学校です。その学校の漕艇部(ボート)は、この琵琶湖を練習の場としていたのです。今津の浜の宿で、小口太郎が詩を書き上げ、三高の寮歌になったのです。小口も作曲家も、二十代前半で亡くなっています。

 この滋賀県は、律令制下では、「近江国」と呼ばれ、京の都の近く栄えた地でした。そこは、「近江商人」と言って、正直さを売りにする訪問販売などに従事した商いをした人たちの出身地なのです。この人たちが掲げたのが、「三方よし」でした。「売り手よし」、「買い手よし」、「世間よし」で、正直な商いをしてきて有名です。私の家から北の方に、「かましん」と言うスーパーマーケットがあって、その近江商人の釜屋新兵衛が、明治期に創業しているそうで、その「正直」を売っています。

 メンソレータム(今は、商品名がメンタームと変わりました)で名の知れていた「近江兄弟社」が、滋賀県近江八幡市にあります。そこに、近江兄弟中学・高校があって、「滋賀県私学教育研修会」が開催され、事務局の責任をおおせつかっていたので、出張したことがありました。そこでお会いしたのが、実に温厚な校長先生でした。ご一緒に食事をした時に、若いだけの私に、丁寧で誠実なお相手ををしてくださったのが印象的だったのです。

 その高潔な人格に触れたことで、すっかり滋賀県の印象が良くなってしまって、今日に至っております。この近江兄弟社は、アメリカ人のヴォーリスと言われる方が始められたキリスト教の背景の建築会社やメンソレータムなどの販売会社でした。基督者で建築家のヴォーリスは、来日した際、英語教師として商業学校の教壇に立ち、後に、その信仰基盤でキリスト主義の近江兄弟社(現ヴォーリス学園)の中学高校を設立しました。

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明治期、文明開化以降、欧米の技術は、怒涛のように日本社会に入り込んできましたが、教育や思想やキリスト教などの精神的な面でも影響を受けるのです。近江兄弟社の創始者のヴォーリスもその一人でした。そう言った多くの宣教師の働きで、人々が救われ、札幌、弘前、横浜、近江、島根、熊本などに、キリスト教会が建て上げられていきました。

 また、父が働いていた会社の工場が、滋賀県下にあったでしょうか。東海道線に「米原(まいばら)」と言う駅があります。その近くだったと覚えています。父は東京本社勤務でした。その米原は、北陸本線への乗り換え駅( terminal )で、人や物が行き交うだけではなく、言葉や文化が行き交う場所なのだそうです。太平洋側の街に出掛けた方が、北陸の街に帰って行くために乗り換える駅です。人生の<交差点>とも言えるでしょうか。

 ある方が、金沢に帰ろうとして、北陸本線に乗り込む前に、駅弁を買ったのです。その様子を見ていた、ある人が、『北陸の人だね。』と声をかけたのだそうです。雪国の人は、雪が少ない米原の駅でも、背筋を丸め、狭い歩幅で歩くといった特徴を見破られたからでした。住む環境によって、人の習慣や癖までも作り上げて行くことがあるです。自分の所作の中にも、特徴的な何かがあるのかも知れません。(とんだ勘違いで、この項を、岐阜県の記事に載せました。米原は滋賀県でした。ごめんなさい。)

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県人口は141万人、県都は大津市、県花はシャクナゲ、県木はモミジ、県鳥はカイツブリです。歴史的にみますと、第38代の天智天皇の時には、近江大津宮には、都が置かれたこともありました。京都,大阪をひかえている地理的な関係で、大都市への供給の農産物とくに、米やお茶の生産にあたってきた歴史がありますから、農業県とも言えそうです。琵琶湖からは鮎やシジミがとれています。近来は、工業生産圏として、大きな地歩をしめている県でもあります。

近江国といえば、彦根、彦根といえば、井伊直弼(なおすけ)の出身藩で、徳川末期の大老として、43歳で幕政にあったのです。江戸城の桜田門外で、暗殺されています。部屋住の経験などがありましたが、そんな苦労をしていた上、聡明だったので、有能な指導者でした。私たちに住む街の隣町は、佐野市で、そこは彦根藩の飛び地であったために、市内の寺に直弼が祀られています。安政の大獄で刑死した吉田松陰は、この井伊直弼を高く評価しています。

県都の大津には、天智天皇の御代に、都が置かれましたから、近江国人にとっては、「滋賀の都」であり、信州岡谷出身の作詞者の小口太郎にとっても、漕艇の琵琶湖は、かつての栄光を湖面に写して見え、誇らしく思えたことでしょう。

華南の街で出会った日本で牧会をしておいでの方と、今もお交わりがあります。彼は滋賀県下で奉仕されておいでなのです。家内と私は、貧しいみなさんに古着を、大連に運んだことがありました。この牧師の若い時期に、大連の学校に留学されていて、日本人基督者の集会のおいでになっていたのだそうで、私たちが訪ねたことを覚えていてくださったのです。そんな私の滋賀です。

(ヴォーリスの設計した川口教会(大阪市西区)、石楠花です)

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恐怖か勝利か

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 衝撃的な、戦後の若者像を、石原慎太郎が描いたのが「太陽の季節」でした。この本は best seller で、sensational  を巻き起こしたのです。でも描かれた若者は、主流ではなく、湘南に生きる、豊かな家庭で生きる青年たでした、その実態を、興味深く書き上げていたのです。芥川賞受賞作品で、作者は現役の大学生でした。一躍、時代の寵児となり、小説が映画化すると、弟で、当時の湘南で生活をしていた裕次郎が、その生態を演じて、大スターとなっていきます。あの時代に作られたhero だったわけです。

 髪型も〈慎太郎刈り〉が流行し、私も、中学では坊主頭でしたが、高校に入ると、慎太郎刈りに近い、〈スポーツ刈り〉にし、裕次郎の足を引きずるような歩き方を真似て歩いていました。足りなかったのは、小遣い銭だったでしょうか。かえって、それが深刻な不良になるのを抑止したかも知れません。

 兄は知的に、弟は自由奔放に生きていて、この石原兄弟は、私たちより上の世代で、1950年代後半から青年期を過ごした者たちにとっては憧れでした。その石原慎太郎が亡くなられました。息子の良純さんが、次のように語っていました。

 お父さんは、こう言っていたそうです。『俺はいい人生だった!』とです。良純さんは、『本当に楽しくいろんな人に支えられて生きてきた人だったと思うけど、89年間、それをやり続けて亡くなる最後の2週間はつらかったと思っているんです!』、一方で、『普通、余命宣告したら、そこでいろいろ思うじゃない?ウチのオヤジ、すぐ立ち直って医者に俺の何がわかるって思うワケ。そこで変わらない・・・最後ずっと怒ってたもんね、なんで俺が調子悪くて寝ていなくちゃいけないのかって!』と続けます。

 『生命力の強さみたいな、自分が前へ前へ進んでいくことだけに執着して生き抜いてきた人だから、肉体が滅びたときに自分の精神はなくなってしまったら、その先は、ないっていう・・・最後の2週間でその恐怖心みたいなものが芽生えて本当に動けなくなった・・・その最後の2週間以外はずっと前を向いていた!』、そう父を語っています。

 だれにも、死の恐怖があるのでしょう。死に対して、人は勝てないのでしょうか。聖書に、次のように記されています。

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 『しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。  「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」  しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。 1コリント15545557節)』

 ローマ帝国の支配下の基督者は、ネロ帝の元で迫害を受けました。闘技場で放たれた飢えたライオンに噛み砕かれ、また火に焼かれました。しかし天国に凱旋する希望と復活の約束を信じて、死を恐れなかったと伝えられています。なぜなら、『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(2テモテ110節)』、そう信じたからです。

(“アニーお笑い体験マガジン” 、 ”キリスト教クリップ“から)

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貯蓄

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– cartoon illustration of an ant with sack full of berries

 

 『われ太平洋の橋とならむ!』と、入学面接で語って、その夢を、国際連盟の事務次長の職を務め上げて果たしたのが、盛岡藩士の子で、札幌農学校や一高で学び、アメリカやドイツで学んだ、新渡戸稲造でした。フレンド派の Quaker 教徒として、科学と信仰を両立させた人物です。

 私は、個人的に若い時に、この方の書物を読んで大きく啓発されたのです。15歳で入学した札幌農学校では、active (活動家)とあだ名される、教師と殴り合いをするほどの荒くれの問題学生だったのですが、キリストを信じて以降、同じく信仰を持った同級の内村鑑三たちから、Monk (修道士)と呼ばれるほどに柔和な人になったと言う話が好きで、いっぺんに新渡戸の自称《弟子》になってしまいました。

 この新渡戸稲造の友人の森本厚吉が、東京で始めた女子経済専門学校の校長を、晩年の1929年から数年務めたのです。その学校で、私はしばらく勤めさせていただきました。そんな縁があって、なおさら、その影響力は大きいのかも知れません。

 この方が、「修養(1910年刊)」と言う題の本を書いています。『いかに誹謗を受けても、自ら楽しみ、いかに逆境に陥っても、そのうちに幸福を感じ、感謝の念をもって世を渡ろうとする。それが僕のここに説かんとする修養法の目的である。』と、その総説にあります。

 この本の中に、「貯蓄」と言う項があります。聖書の「箴言」にも、次の様にあります

『なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言6611節)』

 新渡戸稲造は、貯蓄には四つのものがあると言っています。

金銭の貯蓄

 日本人には「余力」が不足していると言います。『今日あって明日なき命!』という生き方は、格好はいいのですが、通常は、明日は必ず来るのですが、積極的で合理的であるべきなので、計画的に金銭の貯蓄はすべきです。『貯蓄心のある人は、善良な国民である!』と言っています。ジョンズ・ポプキンズ大学を創設したポプキンズは、貯蓄と節約をして生きた人で、大学だけではなく、病院まで建てています。5セントの電車にも乗らずに歩いて、蓄えたほどだったそうです。公共的なことに、その貯えを使った人でした。

体力の貯蓄

 日本人は〈戦国的道徳〉を受け継いでいて、遠い将来のことを考えるのは、卑しいことだとして、飲めや歌えの不健康な生き方をする傾向があるそうです。青年が血気旺盛な時に、体力を浪費して、老いては病気に悩むのです。虚栄心や享楽を避け、衛生上にも身体的な健康を保つことが必要です。悪習慣から離れて生きることが良いのです。

知識の貯蓄

 結婚して、ご主人が肺病に罹ります。一年の余命宣告を受けたのですが、ご主人は知識欲旺盛で、取り寄せた英字新聞を、ご夫人が読み聞かせて、病床の夫を慰め励ましたのです。その広告欄に載っている新薬を取り寄せては、それを服用させた結果、寿命が5年も伸びたのです。それは不要無用と言われた英語を、ご夫人が若い頃に学んでいた結果でした。蓄えた知識は、そんなことをさせてくれる一例です。知力を涵養することの大切さが分かります。

徳の貯蓄

 これは、『職業の貴賎、金力の有無、社会階級の高下、身体の強弱に関係なくできる。』、大切なのは、しようとする「意志」の問題だと言っています。徳を積むことによって、闇夜も恐れることなく朝を迎えられ、朝日の輝くのをみると、心がそれが反射してくるのです。資本や書物がなくとも、徳を蓄えることはできます。自分の境遇を、ありにままで感謝して受けとめ、嬉々として生きられるのです。

 私の最初の説教は、「蟻の貯蓄」について、阿蘇山の麓のキャンプ場で、その多くは学生さんたちでした。その集いで話をさせていただきました。あの夏の光り輝く光景を、昨日のように覚えています。結婚したばかりの夏のことでした。

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