『(隣国の若い友人からの)メール読みました。ご質問の改革派の教えと、結婚と離婚問題ですが、改革派の教えなどについては、ボクが回答します。結婚問題は、家内が後で回答します。まず、私のブログの記事をお伝えしますね。』。「一羽の雀(2023年6月にブログに書いたものです)」です。
『これまで、体調が思わしくなく、寝込んでしまうことが何度かありました。一番は、季節の変わり目ごと、秋から冬の時季、梅雨時などに、決まって起こるのが、〈腰痛〉だったのです。まだ伝え歩きができるのは良かったのですが、這うような時もありました。一週間も、そういう時が続いて、『もう歩けなくなるのかなあ!』と思ってしまう時だってあったのです。
ある時から、〈休息必要〉と思いを変えて、怠け者のように寝ることにしたのです。そうすると徐々に痛みが引いていき、回復がくる、そんな繰り返しの年月でした。高校の頃、走り過ぎたのか、兎跳びをさせられ過ぎたのかも知れませんし、教会があった街の自治会の側溝掃除で、コンクリートの蓋を、手で上げた時に、ギックリ腰をしたことがありました。そんなことがあったのですが、まだ若い頃は、、そんなにひどくなかったのですが、歳を重ねるに従ってキツくなりました。
ところが、帰国以来、この5年ほどは、持病の腰痛は、湿布と温泉で、すぐに痛みが引いてしまっているのです。寝てなんていられないので、神さまは、そんな風にしてくださっているのかな、なんて思わされています。
以前、寝込んだ時に、枕元で家内が歌ってくれた賛美がありました。「一羽の雀(心くじけて) 」と言う歌だったのです。
1.
心くじけて 思い悩み
などて寂しく 空を仰ぐ
主イエスこそ わが真(まこと)の友
(折り返し) 一羽のすずめに 目を注ぎ給う
主はわれさえも 支え給うなり
声高らかに われは歌わん
一羽のすずめさえ 主は守り給う
2.
心静めて 御声聞けば
恐れは去りて 委(ゆだ)ぬるを得(え)ん
ただ知らまほし 行く手の道
(折り返し)一羽のすずめに 目を注ぎ給う
主はわれさえも 支え給うなり
声高らかに われは歌わん
一羽のすずめさえ 主は守り給う
そういえば、聖書の中に、次のような聖句があります。
『五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(ルカ12章6~7節)』
何もできずに、〈小ささ〉や〈つまらなさ〉や〈弱さ〉でおびえてしまう時、それほどの者でしかない自分を、父なる神さまは、覚えていて、知っていてくださるのだと、イエスさまがおっしゃったのです。
『万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。 雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。セラ(詩篇84篇1~4節)』
五年前に帰国して、差しあたっての必要は、住む家でした。自分の人生設計の中に、家を持つことがなかった私は、友人のご好意で、ご両親が住んでいらっしゃった家をお借りして、住ませていただいたのです。次男が生まれる直前の40数年前も、ガス爆発で住んでいた借家を退去しなければならないことがありましたが、雀にさえ、住処を与える神さまは、必ず住む家を与えてくださると思ったのです。それで教会の床の板の上に、みんなで寝たわけです。あそこは最高の住処でした。
この詩篇の節末に、「セラ」があります。楽譜の中に休止符がありますが、それと同じ意味を持つ言葉で、騒然としていたり、忙殺されたり、波乱の時を過ごしている時に、「小休止」があるのだと言う、信仰者の告白だと、ある伝道者が聖書を教えてくださいました。旅人で寄留者の私たちにとって、《永遠の住処》を、主がお造りくださり、迎えに来てくださると言う約束もあります(ヨハネ14章2〜3節)ので、今の家に感謝を持って住んでいられるのです。
時々、家内がゆっくりできる家を備えなかった不備、不徳を詫びるのですが、〈甲斐性のない夫〉なんて言わないで、『約束のお屋敷があるのだからいらないわ!』と言ってくれます。小林一茶の「七番日記」をもじって、『これがまあ終の住処かカラス鳴く(雪五尺)』との思いで、今朝もカラスの鳴く声の聞こえる中で、《永遠の小休止》、永遠だったら《大休止》を願いつつ、そこに憧れながらのこの家に感謝でいっぱいです。』
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今回のメールを読んで、次のみことばが、思い出されています。改革派教会に対するお考えです。私は、聖書を最高規範として、救いや再臨やクリスチャン生活にあり方などを学んできました。改革派には、hyper (厳格)な立場と、穏健な立場があるようです。私は、極端過ぎないことを旨としています。
聖書は、「神の子の祝福」が5つあると思っています。
① 神の愛の確信
『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4章10節)』
☞生まれた時から、私たちが愛されていることを、救われた時に確信するのです。神の愛は不変です。
②良心の自由
『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから・・しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」ガラテヤ5章1節)』
☞教理や神学や掟によって不自由にされないで、のびのびとして、救いを感謝し喜ぶべきです。人は十字架で救われるのであって、神学や教理にはよりません。私はカルヴァン神学を信じているのではなく、聖書を、聖書の記すキリストを「救い主」として信じています。
③聖霊による喜び
『なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。 (ロマ14章17節)』
☞聖霊は、不自由な窮屈な信仰から解放し、活き活きとして活力のある生き方、信仰に導いて下さいます。平安や喜びをくださるのです。
④恵みの増加
『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。 (2コリント9章8節)』
☞神さまは恵み深いお方です。気難しいお方ではないのです。もちろん、罪に対しては厳しいのですが、規則や律法の中で、私たちを縛るのではなく、恩恵の中に安らかにいられるように、信仰も実際生活性も導いて下さいます。
⑤終わりまで保たれる
『主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。(1コリント1章8節)』
☞この救いに入れられたら、一生の間、保持してくださると言うのです。どこかで無くしてしまったり、誰かに盗み取られたりはしません。だから恐れずにいられるのです。
『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ41章10節)』
☞神さまは良いお方で、いつでも義の右手で握っていて、守っていてくださいます。もう迷ったり、怯えたり、恐れたりしないでいいのです。
◯ 救い主が祈っていて下さいます
ローマ8:34
『罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。』
◯ 父なる神さまはよいお方です
エペソ2:8
『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』
◯ 主イエスさまは私たちの保持者です
1コリント1:8
『主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。 』
☞ 私は、いただいた救いや永遠の命が、盗まれたり、取り上げられたりすることはないと信じて、今日まで生きてきました。ある人は、いつか奪われる恐れでいっぱいです。でも、一度救われたら、それを保証してくださるのは、父なる神さまです。
◯ 神さまに栄光を帰しましょう
ユダ1:25
『すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。』
☞ 人は自分の栄光、繁栄、成功を認めています。クリスチャンは、死ぬ時に、この世に置いて残していかなければならないものを求めることをしません。成功も栄誉もいりません。
◯ キリストなるイエスさまをもっと知ろう
エペソ3:15~19
『天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。』
☞ 様々な問題は、主をよく理解していないから起こります。主が、どんなに素晴らしいかを知るなら、人生の答えがやってきます。疑問は一つ一つ解かれてくるのです。
◯ 私たちには求めるものがあります
1テモテ6:11~12
『しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。』
☞ 高い品性、高貴な生き方は、私たちが受け継ぐべきものです。野卑な生き方をしません。クリスチャンは、何も持たなくても、高貴さを持ち続けるべきです。 賛美しましょう。
「虫にも等しき」
1 虫にもひとしき 者のために
主はかくもむごき 目にあいしか
2 この身のとがゆえ 十字架につく
ああそはいかなる 愛ぞ愛ぞ
3 み神のひとりご 死ぬるをみて
照る日もかくれぬ 雲のなかに
4 恥いるこの身を いかに隠さん
涙にこころも 目もとけゆく
5 恵に報ゆる すべ(術)をしらず
すべてをな投げ出し ただひれ伏す
『そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。(ヘブル人への手紙 2章17~18節)』
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もう一つ、ブログを取り上げてみます。改革派教会は、カルヴァン主義を信奉する群れですが、そのカルヴァンについても、触れたからです。「主の赦しと祝福と栄光と」と言うタイトルです。
『ルターが、「信仰義認」を掲げて、宗教改革を始めた時に、旧勢力は、異端だとして排斥し、新しく誕生する教会のリーダーたちを、神への反逆、教会への不従順として弾圧し、死罪に定め、断頭台に送ったのです。そうして誕生した福音主義、聖書主義を掲げた教会も、内紛、とくに神学や教理の違いで、反目し合ってしまいます。例えば、ジュネーブで牧会をしたカルヴァンも、「三位一体論の誤り」を理由に、ミシェル・セルヴェを、親しい友であったのに、「火刑」にしています。
寛容、恩寵、忍耐、和解など、そう言った教会の主の教えとは真反対に、神学上の違いで死罪にしたことは、「時代の誤り」だという追随者の言い訳ではなく、どんな言い訳もできない非寛容な、自分だけを正統とする、憎悪に燃えた罪であったことを忘れてはいけないのです。そう言ったことは、カルヴァンにだけあったのではなく、すべての人の思いの内にあることを覚えなければなりません。「異端」の判別や裁きは、教会の主であるイエスさまだけができること、「キリストの座の裁き」と「最後の審判」に任すべきだからです。
また、「浸礼」で洗礼を施すことを主張し、後にバプテスト派が誕生した時、旧勢力は、バプテスマを施す教職者を、水の中に抑え込んで溺れ死にさせたことも、教会の歴史の中にありました。さらに、「異言」を語り始めた教会や神学校を、旧勢力は、異端として攻撃し排斥しました。教育を受けていない者たちの極端な信仰の表明を、コリントの教会の問題と被らせたからでしょう。そして「カリスマ派」というグループが出てきて、賛美礼拝で、同じ歌詞をしつこく繰り返したり、賜物とか油注ぎなどの主張を非難して、非正統のレッテルをつけて、嫌悪してきています。
私は、個人的な信仰体験として、1970年の秋に、母教会の夕方の特別集会で、「聖霊のバプテスマ」を受けました。異言が口から、まさに突いて出てきたのです。アフリカに、福音宣教のために遣わされた教え子を訪ねる途上、羽田空港に降り立った、ニューヨークの神学校で教壇に立つ、説教者の按手によってでした。
自分は、17で信仰告白をし、22でバプテスマを受けていたのですが、煮え切らない back slider で、曖昧だった私の信仰を確かなものにしたのが、その体験でした。その時、イエスさまの十字架の死が、自分の罪を赦すためだということが、突如として分かったのです。信じた神が、「自分の父」だと信じられたのです。それは驚くべき信仰の体験でした。
これっておかしな、異常なことだと言えるでしょうか。そのパウロが、『私は、あなたがたの誰よりもはるかに多く異言で話せることを私の神に感謝しています(「インターリニア ギリシャ語新約聖書」から)。』と言っています。これは、どのような批判をこえていて、「異言」を肯定しているのではないでしょうか。
ある著名な牧師が、パウロへの尊敬のあまりでしょうか、『パウロ先生!』と言われた説教を聞いたことがあります。私たちを導いた宣教師のみなさんや、彼らの友人の牧師さんたちは、ご自分を、〈ジャック〉、〈チャック〉、〈トム〉と、先生抜きの名前で呼ぶように願っていました。私は、〈ヒロタさん〉、〈ジュンさん〉と呼ばれてきました。ただ「赦された罪人」であって、兄弟姉妹だからです。
『もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。 (ロマ14章15節)』
福音を信じて、義とされ、聖とされ、子とされ、やがて栄光化される人たちを、パウロは、「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」と言っています。聖書解釈や教理の違い、「異言」を語ることで、その人を嫌ってはいけないのでしょう。新しい賛美を歌うクリスチャンを、正しく評価できるでしょうか。そのような体験に導いてくださった器は、驚くほどの人格的に優れた方でしたし、聖書理解も、その説教も優れておいででした。
宣教師や英語教師が幕末以降、我が国にやって来た時に、彼らの宣べ伝えた福音を聞いて、昨日まで神々に手を合わせ、仏教や儒教の教えを信奉していた人々が、すぐに十字架を信じることができたことは、神の「恵み」でした。
例えば、国際連盟の副次長を務め、「武士道」を著した新渡戸稲造は、15歳で札幌農学校に入学します。その学校の教授と殴り合うほどの荒くれ男で、「アクチーブ(行動派)」と仇名されていたのです。それが、福音を信じてから、今度は級友たちに「モンク(修道士)」と呼ばれるほど劇的な変化をしています。スリが劇的に変えられて善人になったり、極道や香具師が、瞬間的に回心して牧師になったりするように、福音には力があり、それは聖霊の働きによるのです。
『わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。(ヨハネ17章11節)』
それぞれ違った方法で、さまざまな背景から、人は基督者になっています。そして様々な教派が生まれてきています。歴史性があって、縹渺する特徴点が違うからです。宣教師の出身国や出身教会によっても違いがあります。そんな違いがあっても、それぞれに補い合い、助け合うのは良いのです。ですが、その違いで争わないで、「一つになること」こそが、教会の主の願いなのです。
ジュネーブの教会の牧師のカルヴァンは、生涯の終わりに、『わたしは非常な苦しみを経験するでしょう。わたしは十分死のつらさを受けるでしょう。それでもなお心は確かであると思います。・・・神の御旨を待ちつつ、慎ましく楽しむために。』と言い残しています。そして、1564年5月27日に、55年の生涯の全てを主の手にお任せし、罪の赦しを確信して、罪の呵責から解き放たれて、主の元に帰ったのです。』
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人は過ちを犯しますが、それでも、人は赦されて、主に栄光を帰します。そして贖われた教会も、栄光を、主にお帰しするのです。主が、「第一のお方」でいらっしゃるからです。
「聖書は何を言っているのか?』、ここに答えがあります。時間をとって聖書を読むなら、聖霊である神さまは、理解力を与えて下さいます。何が真実で、真理であるのかが分からせてもらえるのです。近道はないかも知れません、あなたのために祈っています。「救い」、「神の子」とされたことは、驚くべき祝福です。それを忘れずにいてください。主の祝福を、ご家族やご両親、教会のみなさんの上に祈ります。お元気で!
(Christian clip artsからのイラストです)
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