世界の名花

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 これは、「世界の名花」と言われている、上からジャカランダ、ホウオウボク、サンダンカ、オオゴチョウ、カエンボクです。華南の街にいました時に、草花も多種多様に咲き誇っていましたが、木花が多いのに驚きました。亜熱帯気候ですから、当然なのですが、私たちの国では、沖縄にも、木花が目立ちます。

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湾処

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 子どもの頃の遊び場に、川の支流につながる水場がありました。ドジョウやカエルやフナやザリガニなどが棲息していて、その小川にズボンや袖をまくり魚獲りをしたことがあって、実に面白い遊び場でした。

 毎日のように送信していただいている「里山を歩こう(野生を撮る)」のブログがあるのですが、昨日の受信分に、冒頭の写真がありました。中国地方の山地にある、小さな流れ、渓流にある、「湾処(わんど)」と呼ばれる、小さな入り江のような地形が写されていました。そこには、さまざまな生物が棲息していて、昔は、そのような場所は、どこにでもあったのですが、今や、都市開発の中で、失われてしまっている自然の宝庫なのです。

 「地理」の教科を教えていたことがありましたが、「湾処」には触れたことがありませんでした。以前、我孫子の知人の家にお邪魔した時に、近くの川に面した箇所に、池のような箇所、「手賀沼」がありました。そのまま公園として自然保護がなされていて素晴らしい行政なのだと得心しました。あれも、大きく広い「湾処」と呼べるのでしょうか。

 子どもの頃に流行った歌に、「よしきり」という小鳥や「すすき」や「枯落葉」などが出てくる「大利根無情」という歌を思い出したのです。

利根の利根の川風 よしきりの
声が冷たく 身をせめる
これが浮世か
見てはいけない 西空見れば
江戸へ江戸へひと刷毛(はけ) あかね雲

(セリフ)「佐原囃子が聴えてくらアー
想い出すなァ……御玉ヶ池の千葉道場か。
うふ……平手造酒も、今じゃやくざの用心棒
人生裏街道の枯落葉か。」

義理の義理の夜風に さらされて
月よお前も 泣きたかろ
こゝろみだれて
抜いたすすきを 奥歯で噛んだ
男男泪の 落し差し

(セリフ)「止めて下さるな 妙心殿。
落ちぶれ果てゝも 平手は武士じゃ。
男の散りぎわは 知って居りもうす。
行かねばならぬ 行かねばならぬのだ。」

瞼 瞼ぬらして 大利根の
水に流した 夢いくつ
息をころして
◯◯まいりの 冷酒のめば
鐘が鐘が鳴る鳴る 妙円寺

この歌の歌詞の他に、次のような一節もあるようです。

利根の川風袂に入れて
月に棹さす高瀬舟
人目関の戸叩くは川の
水にせかるる水鶏鳥(くいなどり)
恋の八月大利根月夜
潮来あやめの懐かしさ
佐原囃子の音冴え渡り
葦(よし)の葉末に露置く頃は
飛ぶや蛍のそこかしこ

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 ここには、群馬県の水上を水源とする利根川の下流域に見られる「クイナ」、「あやめ」、「よし」、「ほたる」などが出てきています。それらは水辺に棲息する動植物なのです。わが家の前を流れる巴波川は、この利根川の支流の一つで、舟運が行われていた関係で、護岸で流れが守られていて、この付近には、この「湾処」は見られないのです。

 自然は、実に理にかなって造り上げられているのです。それは、まさに「創造者の知恵」です。そんな生命を育む世界に、《命の循環》、《命の均衡》が行われ続けられ、驚くべき知恵が込められています。湾処などによって、自然的に水位の調整も行われるのだそうです。そんな地系を、人の便利さや儲けのために、破壊してきた人の歴史は、この時代に生活する私たちに、今やツケを払わせているのでしょう。もう、どうにもならないほどに、自然界の均衡が破られて、取り返しがつかなくなってしまっているのかも知れません。

 「湾処」だけではなく、子どもの頃に分け入った「里山」も、都市近辺の住宅化、行政や地域開発会社の収益のために、利便性のために破壊さててきてしまいました。都会の近郊には、もうほとんど、「無駄」、「無用な産物」のように、顧みられなくなってしまった、先人たちから譲り受けた自然財産なのです。「干潟(ひがた)」なども、すでに消えてしまった自然の原風景なのです。

 神の御心によって成る自然が、飽くことのない人の欲望で破壊されるにつれて、人の心が荒れ始めたのではないでしょうか。自然に間近な街に住み始めて、散歩途中で、懐かしい風景に出会うのは、神に会うのに似たものなのではないのかと思えるほど、言いえないほどの懐かしくも快感を覚えるのです。

(「湾処」、「よし(葦)」です)

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クリームパンと草餅と

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 子どもの頃から、買い食いをする時に、いつも買っていたのが、砂糖をまぶしたピーナッツと菓子パンの「クリームパン」でした。コッペパンに、コロッケを挟んでソースのかかったパンも、あんこの入ったアンパンも美味しかったのですが、柔らかいパンの中に、なめらかで、黄色くて甘いクリームが入っていて、こぼれないほどほどの硬さもあって、これほど美味しいと思ったものはありませんでした。

 父の家から駅にゆく道に、街のパン屋があって、そこでも売っていました。このクリームパンの発案者は、新宿の「中村屋」の創業者なのだと言うことを、後になって知ったのです。長野県人で、早稲田に学んだ相馬愛蔵と国光夫人の発案なのです。愛蔵は早稲田時代に、内村鑑三の教えを受け、クリスチャンだった人です。

 故郷で養蚕の事業をしていたのですが、東京に出て、「万朝報」の広告を見て、本郷にあるパン店を買い取って、奥さまと共に、製パン業を始めたのです。国光夫人は、仙台藩士の娘で、宮城女学院やフェリス女学院に学び、この方も14歳でバプテスマを受けたクリスチャンでした。

 そこで作られたのが、このクリームパンだったのです。滋養に富んだパンだとの謳い文句で売り出され、一躍、東京で市場を折檻するほどに繁盛した主要商品でした。喫茶部を設け、中国では銘菓の月餅を作って売り出したりしたのです。中学と高校の一級か二級上に、新宿中村屋の創業者の孫がいました。

 相馬愛蔵は、「一商人として」という書を残しています(「青空文庫」で読むことができます)。日曜日の営業について、内村鑑三に、『日曜日だけは商売を休んで、教会で一日を清く過ごすことは出来ませんか。』と、聖日礼拝遵守を勧められますが、葛藤の末、営業することを選び取っていきます。

 私は、副業で、清掃業を月に二度ほど、スーパーマーケットから請け負って、子どもたちの就学時にしていました。日曜日の夜11時から始めて、よく月曜日の早朝、営業開始に間に合うように仕上げる事業をしていました。

 自分は、厳格な聖日遵守主義者ではなく、その収益で、一緒に奉仕していた方たちの経済援助もでき、主に許された確信で、guilty を覚えることなく、長年続けたのです。その事業を、主から受けた確信があったからです。もちろん、人には勧めませんが、破ろうとする不信の行為だとも感じませんでした。

 牧師会があって、店の定休日だった時には、同労の友人たちにも一緒に手伝ってもらったことも、帰省中の子どもたちの協力もありました。頼まれてコンビニショップの床掃除もしたこともありました。真夜中に、いったん店のシャッターを下ろして掃除をし、ワックス仕上げをしたのですが、体調の悪い時に、中学生に娘が、『私、一緒に行って手伝うね!』と言ってついて来てくれました。あんな嬉しかったことは、後にも先にもありません。

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 長くさせていただいたスーパーマーケットの床掃除は、子どもたちの教育が終わって間もなく、店の改装があって終わりました。その事業をやめてから、ずいぶん長い間、ワックスが床にのらないで起こる、powdering  (粉化現象)でやり直しをしたり、ワックスが足りなくなったり、人員不足になった時の夢を見ることがあったのです。なんと、今でもたまに魘(うな)されます。

 いろいろなことがあっての今は、平穏ですが、老いて行く自分を感じながらも、それなりの感謝を覚えて過ごせるのは、本当にありがたいことです。寒くなるので、生前、母が買って未使用の「綿入り半纏」を、兄嫁が、クリーニングに出して、家内にと送ってくれました。夏のような陽射しが、東の窓から入ってきた秋の朝です。

 そんなことを思っていましたら、懐かしいクリームパンが食べたくなってきました。新宿に行かなくても、ヤマザキ製のパンは、スーパーマーケットの棚にありますが、やはり、新宿中村屋の件(くだん)のクリームパンを、また食べてみたいものです。その新宿までの直通の特急がありますが、片道3050円で、往復6100円で、一個200円ほどでしょうか、そんな高いクリームパンは食べられそうにありません。

 その特急で、下の息子が、時々やって来てくれます。浅草向島の志満草餅(よもぎ餅)を、必ず家内の回復のために買ってきてくれます。きっと新宿の高島屋のデパ地下で、あちこち歩き回って、美味しくて健康的なものを物色しながら、あれやこれやと、京都や名古屋や、その他の土地の名物を、袋いっぱいに買ってきてくれるのです。

 思春期に、泣いて育て上げた息子の来訪は、家内の《最良の薬》なのです。『☆☆!俺の時間を返してくれ!』と言っていた、彼の担任が、そんな今の息子を見たら、何と思うことでしょうか。聖書に、

 『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 (ロマ828節)』

とあり、辛かったこと、楽しかったこと、全てを織り交ぜての今は、ただ感謝だけだと、彼の母は、微笑みながら、今朝も言っています。

( 新宿木村屋のクリームパン、株式会社テラモトの写真です)

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一人の独裁者とか反逆者の出現

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 『申し訳ないが……。私は皇帝になどなりたくない。私には関わりのないことだ。支配も征服もしたくない。できることなら、皆を助けたい。ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も。私たちは皆、助け合いたいのだ。人間とはそういうものなんだ。お互いの幸福と寄り添いたいのだ……。お互いの不幸ではなく。憎み合ったり、見下し合ったりしたくないのだ。世界で全人類が暮らせ、大地は豊かで、皆に恵みを与えてくれる。人生は自由で美しい。

しかし、私たちは生き方を見失ってしまった。欲が人の魂を毒し……。憎しみと共に世界を閉鎖し……。不幸、惨劇へと私たちを行進させた。私たちはスピードを開発し、自分たち自身を孤立させた。ゆとりを与えてくれる機械により、貧困を作り上げてしまった。知識は私たちを皮肉にし、知恵は私たちを冷たく、無情にした。私たちは考え過ぎ……。感じなさ過ぎる。

機械よりも、人類愛が必要なのだ。賢さよりも、優しさ、思いやりが必要なのだ。そういう感性なしでは、世の中は暴力で満ち、全てが失われてしまう。飛行機やラジオが、私たちの距離を縮めてくれた。そんな発明の本質は、人間の良心に呼びかけ、世界がひとつになることを呼びかける。

今も、私の声は世界中の何百万の人々のもとに届いている。何百万もの絶望した男性たち、小さな子供たち。人々を苦しめる組織の犠牲者たち。罪のない人たちを投獄させる者たち。私の声が聞こえている人たちに言う……。絶望してはいけない。私たちに覆いかぶさる不幸は、単に過ぎ去る貪欲であり、人間の進歩を恐れる者たちの憎悪なのだ。

憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶えるであろう。人々から奪いとられた権力は、人々のもとに返されるだろう。決して人間が永遠に生きないように、決して自由が滅びることもない。

兵士たちよ。獣たちに身を託してはいけない。君たちを見下し、奴隷にし、人生を操る者たちは、君たちが何をし、考え、感じるかを指図する。君たちを鍛え、食事を制限する者たちは、君たちを家畜として、ただのコマとして扱うのだ。身を託してはいけない。そんな自然に反する者たちなどに。機械人間たち……。機械のマインドを持ち、機械の心を持つ者たちなどに。

君たちは機械じゃない。君たちは家畜じゃない。君たちは人間だ。心に人類愛を持った人間だ。憎んではいけない。愛されない者が憎むのだ。愛されず、自然に反するものだけだ。

兵士よ。奴隷を作るために闘うな。自由のために闘え。『ルカによる福音書』の17章に、「神の国は人間の中にある」とある。ひとりの人間ではなく、一部の人間でもなく、全ての人間なのだ。君たちの中になんだ。君たち、人々は力を持っているんだ。機械を作り上げる力、幸福を作る力を持っているんだ。君たち、人々が持つ力が、人生を自由に、美しくし、人生を素晴らしい冒険にするのだ。

民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか。皆でひとつになろう。新しい世界のために闘おう。常識ある世界のために。皆に雇用の機会を与えてくれ、君たちに未来を与えてくれ、老後に安定を与えてくれる世界のために。そんな約束をして、獣たちも権力を伸ばしてきた。しかし、奴らは嘘つきだ。奴らは約束を果たさない。これからも果たしはしない。独裁者たちは自分たちを自由にし、人々を奴隷にする。

今こそ、闘おう。約束を実現させるために。闘おう。世界を自由にするために。国境のバリアをなくすため。欲望を失くし、嫌悪と苦難を失くすために。理性のある世界のために闘おう。科学と進歩が全人類の幸福へ、導いてくれる世界のために。兵士たちよ。民主国家の名のもとに、皆でひとつになろう。』

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 映画『独裁者』(1970年上映)の作中で、独裁者ヒンケル(ヒットラーを風刺していると言われています)と瓜二つの顔をしていたために間違われた、「床屋(チャーリー・チャップリン)」が、兵士たちの前で語った、映画の最終場面で、ヒンケル演説です。チャップリン自身によって書かれたもので、史上もっとも感動的なスピーチとして世界中で賞賛されているそうです。

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 この写真は、もう何年も前に見つけた、「独裁者列伝」の顔写真です。写真編集の時には死んでいる者に、が書き込まれていました。この中には存命中の者、また、今は亡くなってしまった独裁者もいます。生き残った者も、入れ替わらなければならない者も、また付け加えないといけない最悪な者も、何人かいそうです。また、その頃は、まだ独裁の牙を剥かなかった者が、今や牙を研いだ者もいます。

 やがて、一国の独裁者などではなく、世界政府が出来上がって、その独裁の座に着く者がいます。もう既に生まれていると言われています。驚くべき知恵の持ち主で、カリスマ性があり、世界中の未解決の大問題を、一挙に解決してしまうほどの能力を持つているのです。世界の多くの人々が、この者の支配を、待ち望み、認め、崇拝してしまう時が来るようです。

 鬼のような、見るからに悪魔のような形相ではなく、柔和で穏やかな印象を与える者なのではないのかなと、私は思っています。刻印を受けず、この者の前で、ぬかずかないではいられない人は、多そうです。

 一人の悲劇的な独裁者のヒトラーは、次のように言いました。

 「全てはこの世界では本当に偉大なものは共同戦線によって闘い取られたものではなく、常にただ一人の勝利者の成果だったということを決して忘れてはならない。」

 ところが、旧約聖書の預言者ミカは、次のように記しています。

 『主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ68節)』

 このような指導者こそが、混迷の終末の時代に願われるのではないでしょうか。来年には、アメリカの大統領選挙が行われます。アメリカの国民は、どんな人物を首長に願うのでしょうか。歴史の傍観者ではいられそうにありません。

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競いあうような紅葉の美

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 上の写真は次男、下の写真は次女が撮って、送ってくれた写真です。次男はふるさとの紅葉、次女はアメリカ北西部の街の紅葉を愛でて、送ってくれました。自然界は、慰めに溢れているのですね。

 主の御名が高らかに賛美され、礼拝を受けられますように!

 好い日曜日であり、素敵な一週でありますように。

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地から目を離して空を

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 連休中の出掛けた先で、夜空にちりばめられた星々、遠望の富士山の写真を撮って、次男が送ってくれました。家内が三日ほど前に東に聳える筑波山を撮り、遠望の富士山、一番下は私が日の出を撮ったものです。

 地上に起こる事件や出来事ばかりに目や心を向けてると、悲しくて仕方がありません。でも、熱やいのちを育む光を送る太陽や夜空に見える数えきれない星や造山活動で作り上げられた富士山を見ていると、神の偉大さが分かります。この時代、この神さまが、何をなさるのでしょうか、これからの日、しっかり眺めることにします。

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かっぽう着を脱ぎ捨てて

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 ゾロゾロと母の跡をついて、二人の兄と弟と自分が、家を出て、電車に乗って大きな駅で降ります。母が東京に出て住む街にある教会を、以前の教会で紹介されて、日曜学校に出るために、引っ越し先の街の家から連れ出された、首相暗殺事件後、にわかに注目されている〈宗教二世〉、〈信仰二世〉たちなのです。母と私たち兄弟たち4人の一時期の動きを切り出してみますと、そんな母と子たちの二世代の姿なのです。

 自分が子どもの日に、神が父であり、その子のイエスさまが、神であられるのに人の子の姿をとって、ベツレヘムで、母マリヤから生まれ、33年半ほどの生涯を、十字架の死で終えたこと。父なる神は、御子を死と墓に捨て置くことができずに、蘇えらせてくださり、弟子たちの見守る中を、天に携え挙げられて、御父の右に座されたこと。そこで執り成しの祈りをしてくださり、助け主聖霊をお送りくださり、場所を設け、場所が設けられたら迎えにきてくださる。そのようなイエスさまを、自分の産んだ子たちに、母は知って欲しかったのでしょう。

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 まるでカルガモの親子のような母子集団を、今でも思い描くことができます。そんな母と兄弟たちだったのですが、上の兄と自分が伝道者になり、弟がミッションスクールの教師になり、次兄はホテルマンになり、それぞれの時に、母が導かれた教会で、バプテスマを受けたのですから、その教会学校行きの経験は、〈信仰二世〉の私たち4人は、躓くこともなく、躓かせることなく、証詞になっていると言っても良いのではないでしょうか。

 昭和初期の山陰の地で、宣教をしたカナダ人宣教師の教会の教会学校で、母は、父なる神と出会い、イエスさまを14歳でキリストと信じ、95歳で召されるまで、信仰生活、教会生活をして、天に帰って行きました。家族のために、近所の隣人のために、自分の教会の牧者や宣教師の家族にために祈る人でした。日曜礼拝を守り、献金も証詞も賛美もし、聖書を読んだ人でした。

 寂しかった子ども時代と打って変わった、5人の男の家族の中で、幸せな人生を送っていたのではないでしょうか。大怪我、大病を患いながらも、祈られ、主に癒されて生き抜いたのです。街の婦人たちの踊り庭の中に入って、楽しそうに踊っていた、浴衣姿の母の姿が思い浮かんで参ります。

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 時には、みんなを送り出した後、かっぽう着を脱ぎ捨て、ちょっとおめかしをして、電車に乗って、束の間の「新宿行き」をして、「ドキドキ」を味わったのだそうです。母にもあった、たまの「お出掛け」でした。雑踏の街を漫(そぞ)ろ歩き、window shopping をし、きっと、母のことですから、軽いお昼をして、デパ地下でおかずを買って、また電車に乗って帰宅したのでしょう。大都会の空気を吸って、一息抜いて英気を養い、そして家族のために、「日常」に戻ったのでしょう。大人になってから、母が語ってくれた、〈新宿行き〉の秘密な過去でした。

 主の名は、「慰め主」、「激励の主」で、母を支え続けた主がいて。九十五年の生涯を生きたのです。出雲弁で、母に言いたいのは、『だんだん(ありがとう)!』で、父と四人の息子たちを信仰の道に導き、裏表のほとんどない生を生き、今、主の安息の中にいて、やがて、いえ間も無く、相見(あいまみ)えることができると信じているのです。主の慰めと激励が、母には溢れていたのでしょう。母への〈信仰二世〉の私の《だんだん》であります。

 この《信仰二世》たちは、もはや兄二人は八十代、弟と私は間もなくで、母親の信仰を継承して、今を生きています。運動部で、走り、投げ、打ち、投げ、追い、叩き、滑り、蹴上がりで活躍して、今は、あちらこちらが痛かったりの世代になりました。でも、いのちの付与者が、二親に委ねられた命、継承した信仰は、脈々とし、子や孫たちに受け継がれているのです。ただに、主の憐憫なのであります。そそくさと新宿をゆく母の靴音が聞こえて来そうです。

(出雲の空と陸と海、新宿の伊勢丹の外観です)

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今を誇る

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 東京の日本橋に、室町という一角があって、そこにあったビルに、父の会社の事務所がありました。父に連れて行かれて、弁理士やその他の仕事をしている父の友人たちが何人かで、その一部屋に、それぞれ自分の机や書類庫や電話を置いていて、情報を交換しながら、助言し合いながら、それぞれの仕事をしていたのです。

 もう一つは、京橋にあった大手の企業にも、父は籍を置いていて、戦前の海軍の江田島の兵学校の校長をしていた方の子どもさんも、薩摩藩の名のある藩士(栃木県令となった三島通庸と共に幕末に働き、西郷隆盛と共に行動し西南戦争で戦死した人)の子どもさんだかお孫さんにあたる方もいて、連れて行ってくれて、中学生の自分を、そんなみなさんにも紹介されて、ドギマギしたことがありました。

 自分の子に、自分の仕事の様子や同僚を紹介して、実社会で生きている父の姿を見せてくれたのです。みなさんは、どうでしょうか、母親の役割は家で見たり、手伝ったりしてよく分かってはいますが、父は、どこで何をしているか、実際に連れて行ってもらわなくては、知ることができないでいますから、そんな機会を設けてくれた父に、ただ感謝してるのです。

 そんな出会いがあって、幕末から戦後に移っていく、日本の歴史に興味深くされて、ただの日本も歴史の門外漢でもなく、何か関わりがあって、西郷隆盛とか日本海軍とかに、なおのこと関心は大きくされたのかも知れません。

 父の家系が、日本海軍に関わっていて、実家がその海軍基地のあった父の故郷の横須賀を、78年前に、すぐ上の兄と弟と一緒に訪ねたのです。父の自慢話の「軍艦三笠(今は記念鑑として横須賀港に係留されています)」に乗ってみたのです。日本海軍がイギリスのヴィッカース社に発注し、1902年に竣工していた旗艦で、その艦船を引き取る時に、出かけて行った時に、父の祖父が、技官として同行していたのだそうです。
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 この艦船は、対露戦(日露戦争)時の日本海海戦で、露軍のバルチック艦隊を撃破した折の戦艦でした。そんな海戦にも関係があった船であり、父の親族であったことも、何か近いものを感じて、記念鑑三笠の甲板に立った時は、感じるものがありました。

 これは自慢話ではなく、子どもや孫たちに、歴史の中に生きた親族家系がいたことも知っておいてもらいたくて、こにアップしています。どんな戦績があっても、戦争は、多くの命を失う悍ましいことなので、誇りにはなりません。

 〈何処の馬の骨〉の子や孫やひ孫なのかを知っておくことも、自分理解につながるのではないでしょうか。もちろん〈負の部分〉だってありますので、家族の名誉のためには、〈何でも言ってしまう男〉であっても、秘する必要もありそうです。

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 兄にご馳走になって、初めて食べた、「海軍横須賀カレー」が美味しかったのです。横須賀の父の実家に住む、たった1人の従兄弟が一緒でした。いつか孫たちを連れて、このカレーをご馳走してあげたいなと思っています。日本海軍に関わった一族で、もう一件は、「海軍工廠」に出入りしていた、戦艦に機材や燃料を納入する港湾業務の「沖仲仕(おきなかし)」の頭目が、小泉又次郎(のちに市長、国会議員、逓信大臣を歴任)で、あの小泉純一郎元首相の祖父にあたり、この方の若い頃に、お世話したのだそうです。

 どこにでもある話なのですが、何代も何代も前の父方に、そんな人もいたのです。そしてそれを遥かに1000年も昔には、鎌倉幕府の頼朝の家来の中にも、祖がいたのです。それよりも遥かに古い、人類の祖、聖書の創世記に出てくれアダムです。そう罪の原点に行き当たる人になるのです。誇るものなどないことになります。今あることだけを感謝していることなのでしょうか。

(鎌倉時代からの「流鏑馬(やぶさめ)」、「戦艦三笠」です) 

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East of Eden

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 思春期真っ只中、中学の時に観た、「エデンの東」というタイトルの映画は、実に印象的でした。親子と兄弟の確執が描かれ、旧約聖書の創世記の初めに記される「アダムの家庭で育ったカインとアベルの物語」、そして新約聖書のルカの福音書に記される「父と二人の息子の物語」を思い起こさせる、長男のキャルの目から見たアメリカの農園経営者の一家の物語は、家庭や家族について、ずっと考えさせられてきたのです。

 時代背景は、第一次世界大戦下の1917年、アメリカも参戦、舞台は、カリフォルニア州中部のサリナス、お父さんは大農場の経営者のアダム、お母さんのケートは死んでおり、弟のアロンは謹厳実直な青年、本人のキャルは、活動的で賢いが、すねた不良少年、そんな時代と家庭設定でした。

 父に愛されていないのを覚えつつ、自分探しをしていたキャルは、お母さんのことを父親に聞くのですが、死んでいるとアダムは言い続けます。実は、死んだと聞かされているお母さんが生きていて、モントレーで水商売をしていると、両親の古くからの友人の保安官に、両親の写った古い写真を見せられて知るのです。

 一方、お父さんは、収穫したレタスを、冷蔵列車で東海岸の大都市に送って、大儲けを目論むのですが、雪崩で列車は不通になり、氷は溶けて、レタスは腐り、大損をしてしまうのです。そんな父に愛されていないキャルは、父の愛を獲得したくて、父を助けるために、豆栽培で一儲けしようと、その資金を母親に借りようと列車の屋根に乗り込んで無賃乗車で、お母さんのもとを訪ねるのです。

 渋っていたお母さんからお金を借りて、豆栽培をして、大儲けするのです。得たお金で、お父さんに気に入れられたかったのですが、お父さんは、戦争のどさくさで金儲けをしたキャルをゆるさず、受け取りを拒むのです。キャルが、お父さんにお金を渡そうとする場面は圧巻でした。

 そんな父の拒絶もあって、キャルは弟に、お母さんが生きていることを告げ、二人で、モントレーに会いに行くのです。弟は、そんなお母さんを受け入れなくて、混乱してしまう場面も、キャルの意地悪も強烈でした。結局アロンは、第一次大戦に従軍して、列車に乗り込むのです。窓に頭を打ちつけて血を流す場面も、アメリカの混乱、世界の混乱を写すようで強烈な一場面でした。

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1955: Raymond Massey (1896 – 1983) and James Dean (1931 – 1955) play a feuding father and son in ‘East of Eden’, directed by Elia Kazan and based on the novel by John Steinbeck. (Photo via John Kobal Foundation/Getty Images)

 

 お父さんのアダムが、病に倒れるのです。家で、アダムの身の回りを世話する看護人が気に入らないのです。キチンとしないからです。アダムが、ついにこの看護人を追い出し、キャルに、その介護をお願いするくだりが良かったのです。関係回復の場面に、何かホッとしたのを覚えています。

 それは、自分が父と母との子であり、兄弟四人がいて、結婚してから自分が四人の親であったことから、「親子」や「兄弟」の在り方について学ぶことが、もう十代前半でできたのです。

 今年、ある歌舞伎役者の家庭で起こった親子自殺事件以降、親子って、こんなものでいいのかと、疑問に思い続けてきているのです。もちろん両親との関わりも、子どもたちとの関わりも、自分たちの家庭も決して理想的な家庭ではなかったのですが、父も母も、しっかり育ててくれたのを思い起こします。ほめられたり、叱られたり、ほめたり、叱ったりで育ち、育ててきたからです。聖書に、

 『わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。 (箴言18節)』

 ここに、「訓戒する父」が語られています。生き方を指導する父親がいて、人は健全に成長していけるからです。自分のスキャンダルを、マスコミの報じられる時に、「死ぬこと」が、問題可決なのだと、そんな提案をする親がいることを知って驚くのです。『歯を食いしばって生きろ!』と言って、どんな状況に置かれても、生きることを奨励してくれた自分の父親とは違うのです。母は、聖書を読んで生きるように、身を持って教えてくれました。母について、聖書はこう言います。

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 『彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。 彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。 その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。 「しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている」と。 麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。 彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。(箴言312531節)』

 ここに、「微笑みながら」生き、母業をする女性の理想の姿が述べられています。正しく助言を、夫や子たちにする妻や母なのです。子どもが、危険な状況に置かれ、危機の中にいる時に、『一緒に死のう!』と提言したのを聞いて、驚いてしまったのです。『でもね・・・』と、生きるように勧めなかったからです。箴言のこのご婦人は、賢いのです。

 きっと歌舞伎役者の家庭って、経済的に豊かで、何苦労なく生きられたのでしょう。舞台の上で、観客の喝采を受けられるような世界って、普段の生活も、その延長に中に生きていられるのでしょう。それが止んでしまったり、真反対なことが起こるような事態は耐えられないのでしょうか。一度チヤホヤされると、それがなくなった時の落差に、そのような人は耐えられないのです。

 虚構の世界で、自分でないものを演じて生きている人の〈落とし穴〉なのかも知れません。現実と演技との違いが無くなってしまうからでしょうか。思ってもみなかったような事態への対応ができていないからです。そのような時、必要なのが父の叱責であり、母の微笑みなのです。私が家庭建設にあたって、立ってきた聖書のことばがあります。

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 『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言171節)』

 食べるものは乏しく、あっても粗食、そうであっても、正しい関係作りができることを願ったのです。「平和」は、争いが収められ、協調できて実現するものです。棚の上には載ってはいないからです。それなりの努力や、我慢も必要なのです。

 『わたしに聞け。ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。 (イザヤ463節)』

 みんな初めて親をし、子となります。それぞれに必要なのは、一生を通しての学びです。より良く、より充実して生きる術を学ぶことが大切なのでしょうか。人は偶然賢くなりません。学ぶのです。何に学ぶのでしょうか。真理にです。真理は、聖書の中に、聖書が記す《神の御子》の内に、あふれるほどに満ちています。耳をそばだてて聞こうと決心の秋です。

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十一月

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 もう十一月、今朝の日の出です。下は一昨日の夕暮れの富士の遠望です。冬が近づています。暖かな冬だとの予報がありましたが、今月の初めの数日は、ここでも25℃の気温の予報が出ています。一昨日は、夜中に蚊に刺されました。

 ガザへのイスラエルの攻撃、さまざまな見解がありますが、「神の日時計」のイスラエルが、主を恐れて立つように祈ります。

 神の都のエルサレムの平和、終わりの日のイスラエルの民族としての役割のために祈っています。世界に敵対されて、孤立する時に、神さまは直接、この民を助けられるのです。ユダヤ人は、好かれない民ですが、好き嫌いの問題ではなく、神との契約の民なのだと言うことなのです。

 ウクライナも、朝鮮半島も、東アジアも一触即発、何が起こっても不思議ではない時代のようです。日本も例外ではなさそうです。創造の昔から、よいことのみを成し続けられてきた、今日の日の神の御旨がなりますように!

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