今を誇る

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 東京の日本橋に、室町という一角があって、そこにあったビルに、父の会社の事務所がありました。父に連れて行かれて、弁理士やその他の仕事をしている父の友人たちが何人かで、その一部屋に、それぞれ自分の机や書類庫や電話を置いていて、情報を交換しながら、助言し合いながら、それぞれの仕事をしていたのです。

 もう一つは、京橋にあった大手の企業にも、父は籍を置いていて、戦前の海軍の江田島の兵学校の校長をしていた方の子どもさんも、薩摩藩の名のある藩士(栃木県令となった三島通庸と共に幕末に働き、西郷隆盛と共に行動し西南戦争で戦死した人)の子どもさんだかお孫さんにあたる方もいて、連れて行ってくれて、中学生の自分を、そんなみなさんにも紹介されて、ドギマギしたことがありました。

 自分の子に、自分の仕事の様子や同僚を紹介して、実社会で生きている父の姿を見せてくれたのです。みなさんは、どうでしょうか、母親の役割は家で見たり、手伝ったりしてよく分かってはいますが、父は、どこで何をしているか、実際に連れて行ってもらわなくては、知ることができないでいますから、そんな機会を設けてくれた父に、ただ感謝してるのです。

 そんな出会いがあって、幕末から戦後に移っていく、日本の歴史に興味深くされて、ただの日本も歴史の門外漢でもなく、何か関わりがあって、西郷隆盛とか日本海軍とかに、なおのこと関心は大きくされたのかも知れません。

 父の家系が、日本海軍に関わっていて、実家がその海軍基地のあった父の故郷の横須賀を、78年前に、すぐ上の兄と弟と一緒に訪ねたのです。父の自慢話の「軍艦三笠(今は記念鑑として横須賀港に係留されています)」に乗ってみたのです。日本海軍がイギリスのヴィッカース社に発注し、1902年に竣工していた旗艦で、その艦船を引き取る時に、出かけて行った時に、父の祖父が、技官として同行していたのだそうです。
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 この艦船は、対露戦(日露戦争)時の日本海海戦で、露軍のバルチック艦隊を撃破した折の戦艦でした。そんな海戦にも関係があった船であり、父の親族であったことも、何か近いものを感じて、記念鑑三笠の甲板に立った時は、感じるものがありました。

 これは自慢話ではなく、子どもや孫たちに、歴史の中に生きた親族家系がいたことも知っておいてもらいたくて、こにアップしています。どんな戦績があっても、戦争は、多くの命を失う悍ましいことなので、誇りにはなりません。

 〈何処の馬の骨〉の子や孫やひ孫なのかを知っておくことも、自分理解につながるのではないでしょうか。もちろん〈負の部分〉だってありますので、家族の名誉のためには、〈何でも言ってしまう男〉であっても、秘する必要もありそうです。

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 兄にご馳走になって、初めて食べた、「海軍横須賀カレー」が美味しかったのです。横須賀の父の実家に住む、たった1人の従兄弟が一緒でした。いつか孫たちを連れて、このカレーをご馳走してあげたいなと思っています。日本海軍に関わった一族で、もう一件は、「海軍工廠」に出入りしていた、戦艦に機材や燃料を納入する港湾業務の「沖仲仕(おきなかし)」の頭目が、小泉又次郎(のちに市長、国会議員、逓信大臣を歴任)で、あの小泉純一郎元首相の祖父にあたり、この方の若い頃に、お世話したのだそうです。

 どこにでもある話なのですが、何代も何代も前の父方に、そんな人もいたのです。そしてそれを遥かに1000年も昔には、鎌倉幕府の頼朝の家来の中にも、祖がいたのです。それよりも遥かに古い、人類の祖、聖書の創世記に出てくれアダムです。そう罪の原点に行き当たる人になるのです。誇るものなどないことになります。今あることだけを感謝していることなのでしょうか。

(鎌倉時代からの「流鏑馬(やぶさめ)」、「戦艦三笠」です) 

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