East of Eden

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 思春期真っ只中、中学の時に観た、「エデンの東」というタイトルの映画は、実に印象的でした。親子と兄弟の確執が描かれ、旧約聖書の創世記の初めに記される「アダムの家庭で育ったカインとアベルの物語」、そして新約聖書のルカの福音書に記される「父と二人の息子の物語」を思い起こさせる、長男のキャルの目から見たアメリカの農園経営者の一家の物語は、家庭や家族について、ずっと考えさせられてきたのです。

 時代背景は、第一次世界大戦下の1917年、アメリカも参戦、舞台は、カリフォルニア州中部のサリナス、お父さんは大農場の経営者のアダム、お母さんのケートは死んでおり、弟のアロンは謹厳実直な青年、本人のキャルは、活動的で賢いが、すねた不良少年、そんな時代と家庭設定でした。

 父に愛されていないのを覚えつつ、自分探しをしていたキャルは、お母さんのことを父親に聞くのですが、死んでいるとアダムは言い続けます。実は、死んだと聞かされているお母さんが生きていて、モントレーで水商売をしていると、両親の古くからの友人の保安官に、両親の写った古い写真を見せられて知るのです。

 一方、お父さんは、収穫したレタスを、冷蔵列車で東海岸の大都市に送って、大儲けを目論むのですが、雪崩で列車は不通になり、氷は溶けて、レタスは腐り、大損をしてしまうのです。そんな父に愛されていないキャルは、父の愛を獲得したくて、父を助けるために、豆栽培で一儲けしようと、その資金を母親に借りようと列車の屋根に乗り込んで無賃乗車で、お母さんのもとを訪ねるのです。

 渋っていたお母さんからお金を借りて、豆栽培をして、大儲けするのです。得たお金で、お父さんに気に入れられたかったのですが、お父さんは、戦争のどさくさで金儲けをしたキャルをゆるさず、受け取りを拒むのです。キャルが、お父さんにお金を渡そうとする場面は圧巻でした。

 そんな父の拒絶もあって、キャルは弟に、お母さんが生きていることを告げ、二人で、モントレーに会いに行くのです。弟は、そんなお母さんを受け入れなくて、混乱してしまう場面も、キャルの意地悪も強烈でした。結局アロンは、第一次大戦に従軍して、列車に乗り込むのです。窓に頭を打ちつけて血を流す場面も、アメリカの混乱、世界の混乱を写すようで強烈な一場面でした。

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1955: Raymond Massey (1896 – 1983) and James Dean (1931 – 1955) play a feuding father and son in ‘East of Eden’, directed by Elia Kazan and based on the novel by John Steinbeck. (Photo via John Kobal Foundation/Getty Images)

 

 お父さんのアダムが、病に倒れるのです。家で、アダムの身の回りを世話する看護人が気に入らないのです。キチンとしないからです。アダムが、ついにこの看護人を追い出し、キャルに、その介護をお願いするくだりが良かったのです。関係回復の場面に、何かホッとしたのを覚えています。

 それは、自分が父と母との子であり、兄弟四人がいて、結婚してから自分が四人の親であったことから、「親子」や「兄弟」の在り方について学ぶことが、もう十代前半でできたのです。

 今年、ある歌舞伎役者の家庭で起こった親子自殺事件以降、親子って、こんなものでいいのかと、疑問に思い続けてきているのです。もちろん両親との関わりも、子どもたちとの関わりも、自分たちの家庭も決して理想的な家庭ではなかったのですが、父も母も、しっかり育ててくれたのを思い起こします。ほめられたり、叱られたり、ほめたり、叱ったりで育ち、育ててきたからです。聖書に、

 『わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。 (箴言18節)』

 ここに、「訓戒する父」が語られています。生き方を指導する父親がいて、人は健全に成長していけるからです。自分のスキャンダルを、マスコミの報じられる時に、「死ぬこと」が、問題可決なのだと、そんな提案をする親がいることを知って驚くのです。『歯を食いしばって生きろ!』と言って、どんな状況に置かれても、生きることを奨励してくれた自分の父親とは違うのです。母は、聖書を読んで生きるように、身を持って教えてくれました。母について、聖書はこう言います。

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 『彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。 彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。 その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。 「しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている」と。 麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。 彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。(箴言312531節)』

 ここに、「微笑みながら」生き、母業をする女性の理想の姿が述べられています。正しく助言を、夫や子たちにする妻や母なのです。子どもが、危険な状況に置かれ、危機の中にいる時に、『一緒に死のう!』と提言したのを聞いて、驚いてしまったのです。『でもね・・・』と、生きるように勧めなかったからです。箴言のこのご婦人は、賢いのです。

 きっと歌舞伎役者の家庭って、経済的に豊かで、何苦労なく生きられたのでしょう。舞台の上で、観客の喝采を受けられるような世界って、普段の生活も、その延長に中に生きていられるのでしょう。それが止んでしまったり、真反対なことが起こるような事態は耐えられないのでしょうか。一度チヤホヤされると、それがなくなった時の落差に、そのような人は耐えられないのです。

 虚構の世界で、自分でないものを演じて生きている人の〈落とし穴〉なのかも知れません。現実と演技との違いが無くなってしまうからでしょうか。思ってもみなかったような事態への対応ができていないからです。そのような時、必要なのが父の叱責であり、母の微笑みなのです。私が家庭建設にあたって、立ってきた聖書のことばがあります。

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 『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言171節)』

 食べるものは乏しく、あっても粗食、そうであっても、正しい関係作りができることを願ったのです。「平和」は、争いが収められ、協調できて実現するものです。棚の上には載ってはいないからです。それなりの努力や、我慢も必要なのです。

 『わたしに聞け。ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。 (イザヤ463節)』

 みんな初めて親をし、子となります。それぞれに必要なのは、一生を通しての学びです。より良く、より充実して生きる術を学ぶことが大切なのでしょうか。人は偶然賢くなりません。学ぶのです。何に学ぶのでしょうか。真理にです。真理は、聖書の中に、聖書が記す《神の御子》の内に、あふれるほどに満ちています。耳をそばだてて聞こうと決心の秋です。

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