湾処

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 子どもの頃の遊び場に、川の支流につながる水場がありました。ドジョウやカエルやフナやザリガニなどが棲息していて、その小川にズボンや袖をまくり魚獲りをしたことがあって、実に面白い遊び場でした。

 毎日のように送信していただいている「里山を歩こう(野生を撮る)」のブログがあるのですが、昨日の受信分に、冒頭の写真がありました。中国地方の山地にある、小さな流れ、渓流にある、「湾処(わんど)」と呼ばれる、小さな入り江のような地形が写されていました。そこには、さまざまな生物が棲息していて、昔は、そのような場所は、どこにでもあったのですが、今や、都市開発の中で、失われてしまっている自然の宝庫なのです。

 「地理」の教科を教えていたことがありましたが、「湾処」には触れたことがありませんでした。以前、我孫子の知人の家にお邪魔した時に、近くの川に面した箇所に、池のような箇所、「手賀沼」がありました。そのまま公園として自然保護がなされていて素晴らしい行政なのだと得心しました。あれも、大きく広い「湾処」と呼べるのでしょうか。

 子どもの頃に流行った歌に、「よしきり」という小鳥や「すすき」や「枯落葉」などが出てくる「大利根無情」という歌を思い出したのです。

利根の利根の川風 よしきりの
声が冷たく 身をせめる
これが浮世か
見てはいけない 西空見れば
江戸へ江戸へひと刷毛(はけ) あかね雲

(セリフ)「佐原囃子が聴えてくらアー
想い出すなァ……御玉ヶ池の千葉道場か。
うふ……平手造酒も、今じゃやくざの用心棒
人生裏街道の枯落葉か。」

義理の義理の夜風に さらされて
月よお前も 泣きたかろ
こゝろみだれて
抜いたすすきを 奥歯で噛んだ
男男泪の 落し差し

(セリフ)「止めて下さるな 妙心殿。
落ちぶれ果てゝも 平手は武士じゃ。
男の散りぎわは 知って居りもうす。
行かねばならぬ 行かねばならぬのだ。」

瞼 瞼ぬらして 大利根の
水に流した 夢いくつ
息をころして
◯◯まいりの 冷酒のめば
鐘が鐘が鳴る鳴る 妙円寺

この歌の歌詞の他に、次のような一節もあるようです。

利根の川風袂に入れて
月に棹さす高瀬舟
人目関の戸叩くは川の
水にせかるる水鶏鳥(くいなどり)
恋の八月大利根月夜
潮来あやめの懐かしさ
佐原囃子の音冴え渡り
葦(よし)の葉末に露置く頃は
飛ぶや蛍のそこかしこ

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 ここには、群馬県の水上を水源とする利根川の下流域に見られる「クイナ」、「あやめ」、「よし」、「ほたる」などが出てきています。それらは水辺に棲息する動植物なのです。わが家の前を流れる巴波川は、この利根川の支流の一つで、舟運が行われていた関係で、護岸で流れが守られていて、この付近には、この「湾処」は見られないのです。

 自然は、実に理にかなって造り上げられているのです。それは、まさに「創造者の知恵」です。そんな生命を育む世界に、《命の循環》、《命の均衡》が行われ続けられ、驚くべき知恵が込められています。湾処などによって、自然的に水位の調整も行われるのだそうです。そんな地系を、人の便利さや儲けのために、破壊してきた人の歴史は、この時代に生活する私たちに、今やツケを払わせているのでしょう。もう、どうにもならないほどに、自然界の均衡が破られて、取り返しがつかなくなってしまっているのかも知れません。

 「湾処」だけではなく、子どもの頃に分け入った「里山」も、都市近辺の住宅化、行政や地域開発会社の収益のために、利便性のために破壊さててきてしまいました。都会の近郊には、もうほとんど、「無駄」、「無用な産物」のように、顧みられなくなってしまった、先人たちから譲り受けた自然財産なのです。「干潟(ひがた)」なども、すでに消えてしまった自然の原風景なのです。

 神の御心によって成る自然が、飽くことのない人の欲望で破壊されるにつれて、人の心が荒れ始めたのではないでしょうか。自然に間近な街に住み始めて、散歩途中で、懐かしい風景に出会うのは、神に会うのに似たものなのではないのかと思えるほど、言いえないほどの懐かしくも快感を覚えるのです。

(「湾処」、「よし(葦)」です)

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