一人の上方芸人の生涯を思う

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 上方芸人で、吉本喜劇所属の坂田利夫さんが、82才で亡くなりました。平均寿命が2020年で、「81.05歳」ですから、ご自分の生を全うされたことになります。

 ご自分を、「アホ」と言って、笑いをとった人で、芸人魂を持った根っからの師匠でした。そこまでして、芸道を生きなくても良かったのではないかと思ってみたのですが、芸の道とは、それほど厳しいものだと言うことを知らされて、自分にはできないなと思ったことがありました。

 生涯独身を貫いた方で、結婚をしない理由は、『結婚して子どもが与えられ、その子がアホと呼ばれてほしくないから!』と言っていたそうですが、これも芸人特有の理由なのでしょう。本意は分かりません。

 この方を結婚させる会があった頃、その番組を見観たことがありました。仲間内で、そんな盛り上がりがあって、芸人仲間からも信望のあった方だったのでしょう。テレビが、わが家に置かれてから、人気番組は、「番頭はんと丁稚どん」で、その丁稚どんを演じていたのが、メガネをずらしてかけていた大村崑でした。ボケ役でしたから、坂田さんは、それにヒントを得て「アホキャラ」を演じていったのかも知れません。

 元々は漫才の出身で、上方漫才は、関東の漫才とは違って、テンポが良くて、抜け目がなくて、軽い笑いで、聞いていますと日本語に、もう一語あるのではないかと思わせたほどで、聞いていて分かる言語だったのです。坂田さんは、漫才の賞も多くとって、人気の漫才芸人でした。

 大阪人の友人は少ないのですが、私の育ててくださった宣教師さんは、大阪で伝道をしていた時期がありました。何度か呼ばれてお話をさせていただり、みんなで訪問したことがありました。さすが、教会の中では、関西弁は聞かれませんでした。宣教師さんは、そこで病を得て、後半は、ご子息のいた東京のホスピスに入院されて、天に帰って行かれました。

 坂田さんは、「老衰」が死因だそうです。もうすぐ八十になる私は、「老衰予備軍」になっているのかと思わされたのです。人生、盛んな時期が短く、アッと言う間に過ぎていくのですね。それを再確認させられた訃報でした。

なが瞳にように守り、死ぬことにないように

御翼の影に われをかくまいたまえ ♯

 家内の今年最後に通院を終えて、ホッとしたのでしょうか、この五年間、風邪をひかなかったのですが、立てないほどで寝込んでしまいました。寝ていて、この賛美が口をついて出てきたのです。『死ぬまで生きる!』覚悟でいます。父にも義父にも、自分たちの子を抱いてもらえずに、天に送ってしまいましたが、せめて、孫たちの結婚式には、家内と二人で出たいなあ!

 笑う必要のある、厳しい現実にある人々に、「笑い」を提供した坂田利夫師匠は、国会議員にもならなかったのですが、一芸人として生を全うしたことになります。眼の間に、哀愁が漂っているように感じたのは、私だけではないのでしょう。生きるのは、実に厳しい現実に違いありません。

(ウイキペディアによる「坂田利夫師匠」です)

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賛美せよ!

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 『感謝のそなへものを献るものは我をあがむ おのれの行爲をつつしむ者にはわれ神の救をあらはさん (文語訳聖書詩篇5023節)』

 『ヱホバをほめたたへよ その聖所にて神をほめたたへよ その能力のあらはるる穹蒼にて神をほめたたへよ その大能のはたらきのゆゑをもて神をほめたたへよ その秀ておほいなることの故によりてヱホバをほめたたへよ ラッパの聲をもて神をほめたたへよ 筝と琴とをもて神をほめたたへよ つづみと蹈舞とをもて神をほめたたへよ 絃簫をもて神をほめたたへよ  音のたかき鐃鈸をもて神をほめたたへよ なりひびく鐃鈸をもて神をほめたたへよ  氣息あるものは皆ヤハをほめたたふべし なんぢらヱホバをほめたたへよ (同 詩篇150篇1〜6節)』

 賛美は、礼拝の最たるものです。神こそ、賛美を受けるにふさわしいお方であり、賛美の中に座され、賛美の中に、再びおいでになります。礼拝が、説教中心になってしまったことは、至極残念なことであります。ダビデは、竪琴を奏でながら、主を賛美しました。その賛美が、詩篇の中にあるのです。

 パウロとシラスは、ピリピの獄屋の中で賛美しています。その賛美が、彼らを縛っていた鎖を解き放ち、人々を縛っていた心の束縛を解いたので、牢役人はイエスさまをキリストと信じ、家族も信じてバプテスマを受けました。

 教会の中の賛美は、厳かであるべきです。驚くほどの讃美歌を、教会は生み出しました。でも、楽譜がなくても、メロディーが与えられ、みことばが歌われるような、自由もあっていいのです。パウロたちの獄中の賛美は、そのように、神が讃えられて歌われ、賛美され、礼拝をしたのです。

 ヨーロッパに福音戦況が拡大し、そこから全世界に福音が宣べ伝えられて行く、その発端は、神賛美、救い主賛美だったのです。

 『さあ賛美しよう 救い主イエスを!』と賛美して、主を崇めてきました。無秩序や自分よがりな歌詞やメロディーはいけませんが、聖霊なる神さまは、みこととばを思い出させ、メロディーを与えられるのです。

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 『えいくわうの王はたれなるか ちからをもちたまふ猛きヱホバなり 戰闘にたけきヱホバなり 門よなんぢらの首をあげよ とこしへの戸よあがれ 榮光の王いりたまはん この榮光の王はたれなるか 萬軍のヱホバ是ぞえいくわうの王なるセラ (文語訳聖書 詩篇24710節)』

♯栄光の王とはだれか 強く勇ましい主 戦いに勇ましい主である

万軍の主とはだれか 強く勇ましい主 これこそ万軍の主である 

 詩篇を歌うことができるのです。ダビデが歌ったようにではありませんが、ここ日本で、救われた者に、こんな賛美が与えられたのです。パイプオルガンでなくても、ギターを爪弾いても、ドラムを叩いても。手を打ちながら、踊ってもいいのです。麗しい賛美は、主が受けるべき誉だからです。

 ニューヨークから、伝道者が、母教会に来られて、賛美コーラスが紹介され、日本語に翻訳されて歌い始められたのです。

♯ 心の中でメロディーを 王の王にささげよ

主をあがめよ 心の中でメロディを 王の王にささげよう ♭

 単調なメロディーで、主が賛美されたのです。そういった賛美礼拝が、教会の中で始まったのです。『おかしい!』と言われつつも、50年も経つと、市民権を得て、若いみなさんが、それを受け入れて、自ら作曲をされて、新しい賛美が誕生されるようになってきたのです。混沌とした世情だからこそ、主が賛美されるべきです。来年も、賛美の声を上げ、この国を讃美で満たしましょう。

( Christian clip arts の「獄中賛美」他です)

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年の瀬に

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 明治生まれの父と、大正生まれの母は、島根県の出雲で出会ったのだと思います。結婚して、京都で過ごしたと、母が言っていました。父は、横須賀で生まれ、秋田に学び、京城、山形、山梨、東京と移り住んで、国策事業に従事し、父は61年の生涯を閉じ、母は95歳まで生きて、二親共に天の故郷に帰って行きました。

 男の子四人を育てて、親孝行をしてもらえる年齢になったのに、何も言い残さないで、父は逝ってしまいました。戦中、戦後の厳しい時代を、精一杯に働いて、食べさせてくれ、着せてくれ、暖かな布団を与えてくれ、学校まで行かしてくれました。

 ちょっとばかり短気だったでしょうか、ゲンコツをもらいながらでしたが、思い返すと感謝なことばかりが思い出されるのです。あの渋谷のレストランで、ご馳走してくれた子牛の柔らかな肉料理と黒パンの味は忘れません。

 ここ栃木の街で、明治8年に創業した老舗の和菓子屋で、棚に置いてあった「カルメ焼き」を、つい懐かしくて、先日買ってしまいました。二つ買ったのですが、一つは、今週訪ねてくださった中国からの若い友人家族と親族七人が、華南の街にはないと言って、持って行きました。父が作ってくれたのは、金属製のお玉の中に、ザラメの砂糖に水を入れて、七輪で煮溶かし、頃合いを見計らって、わり箸の先に重曹をつけて、溶けたザラメに入れると、ジューという音を出して結晶して出来上がったのです。

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 その様子を見守っている間、つばきが激しく出て来て、食べたいサインを出していたのです。父親が作ってくれたからでしょうか、その美味しさは、どことも比べられないほどでした。あれって、非行化防止の策だったのでしょうか。悪に走る足も手も、引っ込めさせた効果あったのです。

 家で餅つきはしたことはなかったのですが、米屋さんに餅をついてもらって、毎年配達してもらったのです。のし餅が切り時になると、三箱もあった餅箱に、六人が、お雑煮や海苔巻きやきな粉餅にするための餅を、スケールを使って全く同じように切っていました。几帳面だったのです。切ったはじっこの餅は、小さく切って、母に、干させて、正月明けに、揚げ餅を作ってくれ、醤油をかけて食べたのです。

 家内と二人っきりなのですが、のし餅を買って帰った昨日は、父に倣って、餅を切ったのです。正月二日に、弟が来ると言っていますから、関東風のお雑煮を作ろうと思っているところです。おせち料理も、作らなくなりました。母が準備万端整えてくれ、子育て中は家内も作ったのですが、この数年は、スーパーに行って、棚を見て終わりにしています。

 中国で、お餅を「年糕niangao」と言うのですが、中国からの若い友人夫妻が二つ持参してくれました。日本の餅とは、似て非なるものですが、伝統の正月用品です。いつも来るたびに、家内を心配してくれて、漢方の食材を持参してくれるのです。

(「カルメ焼き」と「年糕」です)

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買い出しで出会った人たち

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 『今日は、せめてお餅ぐらいは!』と決心して、幸来橋の袂のバス停から、ふれあいバスに乗って、「にしかた道の駅」に、買い出しに出かけたのです。小型バスにたった一人の乗車でした、乗り込みましたら、『久し振りですね!』と、運転手さんが声をかけてこられました。まあ顔馴染みの方なのです。

 途中、東武日光線の家中駅から、出張の会社員が二人乗り込んできて、大きな工場のあるあたりで下車して行きました。また乗客一人だけになって、運転手さんと運転歴のエピソードなどの話をして、道の駅で下車したのです。

 いつも、ここに行く時には、新鮮な野菜、切り餅、梅干し、椎茸などを、おもに買ってくるのですが、今回は「のし餅」があって、それを一枚買ったのです。それに干し柿、スティック・ブロッコリー、ほうれん草、梅干し、宮ねぎ(ここでは下仁田葱をそう呼んでいるのです)などを買いました。

 帰りは、イオン止まりの便に乗って、そこから家まで歩くのですが、今回は、東武金崎駅から電車に乗ったのです。駅のホームに親子連れが一組いました。ホームを歩いていたら、『おじちゃん、黄色い線から出ちゃあダメだよ。危ないよ!』と注意されたのです。とっさに、『アッ、そうだいけないね。ごめんごめん、ありがとう!』と返事をしたら、彼はホッとしていました。
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 お父さんに日頃注意されていて、それを守っていたのでしょう、違反していた私を見て、『危ないよ!』と警告してくれたのです。県の南の方の小学校一年生で、ヤマトくんと言っていました。三歳の赤ちゃんがいて、お母さんが働いていて、冬休みになって、お父さんと電車旅で来ているのだと、質問したら、ハキハキと答えてくれました。

 そんな感謝や感心したりの会話のあった午前中でした。子どもの頃、大人がよく話しかけてくれたのを思い出します。叱られることも、褒められることもあったのです。今は、なかなか会話がなされない時代になってしまったのでしょうか。若者は、スマホに夢中で、電車に乗ると一斉にスマホ中毒になっているのです。

 前回の電車利用には、インドネシアから働きにやって来た、隣に座った実習生の青年と話をしたのです。25歳で、群馬県に、両毛線に乗って行くのだと言っていました。『日本の生活は、どう?』と聞くと、辛いことが多いのだそうです。待遇も、良くないし、帰ろうかと思っているが、なかなかできない、そんなことを話してくれました。栃木駅で降りて、両毛線の改札まで連れて行って上げました。それが嬉しそうでした。

 電車の中は、みんな会話を拒絶して、年配者は目をつむり、若者はスマホ操作ばかりですが、子どもや外国人は、そんな機器に誘惑されないので、人間らしくているのです。家内は今夕、駅のコンコースの街中ピアノを弾きに出かけて行きました。弾いてると、年配のご婦人が、自分のできないことをしてる家内を羨ましがって、話しかけて来たのだそうです。娘さんが、明日ガンの手術をするとかで、元気に出る賛美を弾いて差し上げたそうです。

 黙っていないで、みんな会話を楽しんだらいいのです。個人主義に害されて、人と人との交流がなくなってしまった現代、人はますます孤独になってしまうからです。ことばを駆使できるからこそ、人は人であるからです。人であれ!

(ウイキペディアによる「焼き餅」、「東武日光線の電車」です)

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暮の喧騒を思い出して

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 青果市場の競りの開始は、朝早かったのです。自転車にまたがり、駅から南に下って来る道の大きな交差点の角に、その街の市場がありました。そこに出入りの仲卸商の手伝いで、週日の早朝に働いたのです。卸商の競り落とした野菜や果物を、ネコと呼ばれる台車に載せて運び、貨物自動車の荷台に積み上げる仕事でした。それを四、五年したことがあります。

 母が、『そんな仕事しかないの?』と心配したこともありました。でも、家内と共に献身し、母教会を離れて、開拓伝道をする宣教師さんの手伝いをするために、中部圏の山岳の街に越して、“ tent maker “ 気分で、小パウロのような思いで、一生懸命に働いたのです。長男が五月に東京で生まれ、彼が三ヶ月ほどで伝道助手の仕事を始めたのです。

 その仲買人は同い年で、同い年の男の子を育てていました。隣街に店を持ち、お母さんと奥さんとで店をし、彼は、自動車に積んだ荷を、小さな店に卸していく商いをしていたのです。大勢の青果商の中で、抜群に競り落としの上手な方でした。その競り落とした商品を、他の青果商に売るような商いをもしていました。そればかりではなく、京浜の青果市場に、市場の運営会社に納品までさせているほどでした。

 東京の神田や三多摩地区に市場があって、そこでアルバイトをした経験があり、あの独特な青果市場の匂いや雰囲気が、そこも同じで、楽しく働いたのです。この方の家に招かれて、家内と息子を連れて訪ねたことがありました。気前の良い方で、いつも野菜や果物を、仕事帰りにいただいたのです。

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KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA

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 神田は、東京でも築地と並んで大きな市場でした。まだ、電動の運搬車などない時代でしたから、大八車が場内を忙しく、けたたましく行き交い、小競り合いや喧嘩もあったのですが、地方都市の市場は、もう少し和やかで、青果下ろしの会社には、もう電動運搬車もありました。

 父が、戦時中から戦後の間、この街の山奥で仕事をし、この街に事務所を持っていましたので、その山奥で私は生まれていて、よく街に兄弟たちで連れ出してもらって、デパートの屋上の観覧車なんかに乗せてもらった記憶があります。その父の事務所は、その街の青果商組合の理事長をされていた方の店の脇にあったのです。この方の紹介で得た仕事でした。

 この方は、若い頃、東京日本橋の「千疋屋(せんびきや)」という、江戸時代からの大きな果物専門店で修行をされ、自分の街に帰って、果物の専門店を始めた方でした。八百屋さんたちは、この方と行き交うと、頭をさ下げてあいさつをしていました。人格者でした。

 私が、場内で荷運びをしていると、『準ちゃん!』と呼び止めては話しかけてくれ、季節季節に果物を箱ごと頂いたりしていました。『遊びに来なさい!』と言われて、三人で訪ねると、『何を食う?』と言って、食堂やレストランに連れて行ってくれ、うなぎ丼やカツ丼をご馳走になったのです。実に懐かしい方で、父よりも年配でした。

 暮の地方都市の市場も、大賑わいでした。最終競の行われる「止め市」の今頃の時期の場内には、みかんやリンゴ、正月用に野菜が山積みにされていて、その賑わいは、独特な高まりがありました。タバコをくわえたり、朝からお酒の入った青果商たちが、競の行われる場に、忙しく移動していくのです。きっと日本独特な雰囲気だったのでしょう。競の間、運び手たちが焚き火を囲んだ談笑もありました。

 あの喧騒が、瞼に浮かんで参ります。もう50年も前の光景です。その仲卸商に誘われて、一緒に朝飯を食べた八百屋さんたちと仲良くなって、いろいろな話をしたのです。雇ってくれた仲卸商は、得意になって、私がキリスト教伝道をしていることを、仲間内に紹介していたりして、そんな話題もあったでしょうか。二十代の後半の時期でした。みんな懐かしく思い出される、令和の時代の暮れです。

(ウイキペディアによる、「市場」の競風景です) 

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父の道を

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 「炭酸泉」の効能に、《血行促進》があるのだそうです。父が、くも膜下出血で倒れ、入院先で脳溢血を起こして亡くなっていますので、父の腰から出て、父の血を引く自分も、体質的に似ていますので、それを教訓にして、60以降を生きてきたつもりです。それで、時々、この炭酸泉のある温泉に出掛けていたのです。

 けっこう注意深く生きていたいたつもりでしたが、先月、夕食時に、右手の箸がポロリと落ちてしまったのです。20秒間ほどだったでしょうか、全く右腕の感覚が麻痺していたのです。それで左手で腕をさすっている間に、感覚が戻ってきたのです。

 そんな経験はしたことがなかったのです。そのままやり過ごそうとしたのですが、それが血行障害の症状として聞いたことがありましたので、家内に、近所の民生委員をされていた方で、一緒にラジオ体操をしたり、お招きしたり訪ねたりしてお交わりのあったご婦人に、家内に電話で聞いてもらったのです。すると、『すぐ救急車を呼んでください!』とのことで、確認した家内が、119番に通報をしてくれ、救急車が駆けつけてくれたのです。

 この救急体制は、電話を受け、行き先を確かめると、すぐに発車するのだそうで、すぐに来てくれました。当座の必要な物をカバンに入れて、階下に降りると、間も無くサイレン音をしながら到着したのです。症状を伝えましたら、搬送先を「獨協医科大学病院」に決めていただきました。そのご婦人が、連絡してくださったのでしょう、上の階の元看護婦のご婦人が、同乗しようとしていた家内に家に留まるようにと言って、車でついて来てくださったのです。高速道路の利用で搬送していただきました。

 その車内で、救急隊員の方が、上の息子に電話してくれたのです。搬送先で、救急措置をしていただき、落ち着いた段階で、入院になりました。家内の入院、退院後の通院で通った病院でしたので、様子が分かっていましたし、この春には、家内が救急搬送されていまして、同乗していて、救急治療室の廊下で待った経験がありました。

 夫唱婦随、婦唱夫随の後追い救急搬送で、この市の消防隊、隣町の病院には、大変にお世話になっているのです。そこでは、すぐに点滴やリハビリが始まり、主治医の診断で、レントゲンやCTMRIや血液の検査が繰り返され、左脳に小さな血栓が発見されたのです。脳梗塞の診断でした。即通報の搬送が良かったのだそうで、八日間の入院で退院できました。

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 まさに、六十過ぎの「父の道」を、八十手前で踏襲したような経験でした。性格も体質もやはり受け継ぐのでしょうか。上の二人の兄も弟も、すでに同じ道を歩んでいるので、四人が共に受け継いだことになります。

 帰国以来、中華太りの体重を10kgほど落とすことができ、食生活を少しづつ改善して来たのですが、すぐ上の兄と競争で培った〈早飯喰い〉はなかなか治らなかったのです。ところが入院中によく噛む習慣を身につけ、感謝しながら咀嚼しつついただくようになりました。

 それで先週、滞在中だった娘親子に誘われて、3人で、炭酸泉のある温泉に行ってみたのです。気分爽快で、ぬる湯につかっていました。久しぶりの温泉行きが、娘の勧めで二日連続していたのです。そうしましたら、入浴中に、一人の方が、外湯から湯殿に帰ってこられ、歩いててる間に、タイルの上に後ろ向きに倒れてしまったのです。幸い頭は打たなかったのですが、すぐに湯からあがって、その方のそばに寄って、助け起こそうとしたのですが、『ありがとうございます。大丈夫です!』と言われ、立ち上がり、湯殿から出て行かれました。

 いやー、脳梗塞経験者は驚きました。数年前に、洗い場で倒れた方がいました。自分は外湯にいたのですが。救急隊が駆けつけておられ搬送されて行きました。温泉、高齢者、湯当たり、立ちくらみ、または脳溢血などが、起こりやすい世代なのです。心地よい温泉も、また危険に溢れているようです。

 市の包括センターの担当者の方が、入退院を知ってでしょうか、すぐに駆けつけてくれました。今後のデーサーヴィス、給食制度、ヘルパーさん派遣制度、ショートステイなどの介護を、具体的に計画策定してくれました。この思いやりのネットにも、近所のみなさんにも感謝しています。もう無理のできなくなったことを、思い知らされていますが、歳なりに輝いて、もう一花、小さくても咲かせたいと願っています。まだカッコよく生きたいのでしょうか。

(ウイキペディアによる「炭酸水」、「入浴中のニホンザル地獄谷野猿公苑」です)
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絆と愛と時間

 

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 挿絵の多い本で、その絵ではなく、文章のある「一節」に強いインパクトを与えられた人が多くおいでです。その一節は、挿絵とともに、読者の関心をひいていているのでしょうか、ある人は座右の銘にしているほどでした。

 私の選択した、第二外国語は、フランス語でした。そのテキストが、そのサン=テクジュペリの「星の王子さま」だったのです。その内容が面白かったのでしょう、珍しく〈AAの優〉の好成績をもらったのです。有頂天にされて、仏文専攻に変えたかったほどでした。

 その有名な一節とは、次の短文です。

 『On ne voit bien qu’avec le coeur. L’essentiel est invisible pour les yeux.心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ。』

 これはキツネが、星の王子さまに語ったことばなのです。王子さまは、バラに振り回されていたのです。そのバラが、王子さまにとっては、じつは、かけがえのない存在だったことに、やっと本人が気づくくだりのお話なのです。目にはみえなくてもそこに「絆」や「愛情」があり、王子さまがバラに費やした「時間」があったのです。

 金や物よりも大切なものがあると言うのです。家族や友だちや家族など、その人たちを大切にする想いや愛情は、目には見えないのですが、それらとの「絆」や「愛」、共に過ごした「時間」だって、とても大切なのです。 

 兄二人と弟、喧嘩ばかりの子供時代だったのに、お嫁さんたちが羨むよう仲良しの今で、季節季節に果物、果汁、着る物などえを贈ってくれるのです。妻や子供たち家族もです。そう、いまだに、人に恵まれ続けています。信仰上、時間をかけて8年もかけて育ててくださった宣教師さんがいてくれました。疲れると、家族で招いてくださって共に過ぎさせてくれた宣教師さんもいたのです。華南の街でも、多くの愛兄姉と愛の交わりを持つことができ、今もなお継続中なのです。

 そして帰国以来、新しく住み始めた地で、人との絆が与えられたことに感謝したのです。住む家を提供してくださったり、通院の送り迎えをしてくださったり、物心両面で助けられてきました。避難先を見つけてくださったり、引越し先での生活のための布団からテーブル、鍋、釜、食器などの家財をいただいたりしたのです。

 ごく最近も、私が病んで、搬送先まで着いてくださり、入院中には、留守をしている体力のない家内に代わって、ゴミ捨てまでしてくださった隣人がいるのです。家内に食べ物も差し入れてくださる方たちもおいででした。

 今日も、親のように慕ってくれる中国の方が、ご家族4人で訪ねてきたいと言ってこられたのです。華南の街の会社の事務所で、聖書研究会をさせいただき、時々、パンやケーキを家に運んでくださりでした。また故郷に招いてくださりし、お母さまの葬儀にはお話もさせていただいたのです。今は東京に住んで、家内に漢方薬や健康食品を届けてくださったりなのです。横浜近郊で、二次製品を製造し、輸出事業の展開をしつつある方です。

 みんな時間が培ってくれた人との愛に満ちた絆です。恩人も隣人も肉親も、みなさんは主が備えてくださった「賜物」なのです。今も孤老など、よその話で、激励してくださるみなさんがいて、互いに尊重し合いながら過ごしております。また感謝の一年でした。

(“Christian clip arts” のイラストです)

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「にも関わらず」笑う!

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 『「にも関わらず」笑う!』と言うことを、40年も前に、JR四ツ谷駅の近くにある上智大学で開講されていた、「死生学」のアルフォンス・デーケン教授の「生と死を考える会」の講座で聴きました。開講間もない時期に、特急電車に乗って、毎週通って受講したことがあったのです。

 都会の刺激を求めてではなく、知的な啓発が欲しくてでした。どなたかの死に直面した場合の助言ができたらと願って学ぼうとしてです。この哲学者は、だれも避けようとし、taboo の「死」について、講義できる数少ない器だったのです。ご自分は、ナチス政権下のドイツで成長されて、少年期の辛い経験や素敵な大人との出会いなどで教えられたのが、上記のことばでした。その ”humor“ について、こんなことを話されていました。

 『死とユーモアは、とても深い関係があります。不思議に思われるかもしれませんが、生きることと死ぬことが表裏一体の関係であるように、私たちが人間らしく、より良く生きていくためにはユーモアは不可欠です。(中略)外国のホスピスへ行くと、多くの日本人はびっくりします。それは、どこも共通して、末期患者のケアにあたる人たちが実に明るく、ユーモアに満ちているからです。ホスピスで交わされる会話もまた、快い笑いに満ちています。お互いに今、ここで出会っている時間を、精一杯楽しもうという気持ちから、自然に出てくる喜びと感謝が、ユーモアのある楽しい雰囲気を生むのでしょう。』とおっしゃっていました。

 哲学の理論でではなく、ご自分が、生きる上で、どんなことが起こったとしても、笑って生きてこられた方なのです。受講中に、ガンになられたことをご自分がおっしゃっておられ、それを人生に起こりうる出来事の一つとして受け入れている姿が印象的でした。その後も、長く公演活動などを続けておいででした。

 だれもが迎える「死」について、生きていく術を学ぶよりも、もっともっと大切なテーマを学ぶ機会が与えられたのは感謝で、歳を重ねて、健康が損なわれて、病んだりすることも多くなってきている今、40年も前の学びに感謝しているのです。

 当時は、「第三者の死」を考えての受講でしたが、40年ほど経った今は、もう自分や配偶者や兄弟たちの「死」を考えねばならない時を迎えているのです。家内とよく話すのですが、『何歳になっても元気で、魅力いっぱいに生きてたら、若い人に申し訳ないから、歳なりに老けたり、衰えたり、転んだりしたほうがいいよね!』の今なのです。父の死、母の死、弟の夫人の死、義父母の死、恩師たちの死、甥の死などを経て、悲嘆にくれる自分が、その悲しみを超えて、どう生き続けるかについて、講義の中で、「悲嘆のプロセス」の学びもありました。

  1. 精神的打撃と麻痺状態
  2. 否認(相手が亡くなったことを認めたくない)
  3. パニック
  4. 怒りと不当感(なぜ、私だけがこんな不幸に見舞われたのか? 等)
  5. 敵意とうらみ(なぜ、夫は私を見捨てて自殺したのか?等)
  6. 罪意識
  7. 空想形成・幻想
  8. 孤独感と抑うつ
  9. 精神的混乱とアパシー(無関心)
  10. あきらめ―受容
  11. 新しい希望―ユーモアと笑いの再発見
  12. 立ち直りの段階―新しいアイデンティティの誕生

 最近、アランドロンやアンジェリーナや神田正輝の近影を見ました。『敵わないな!』と思っていた美男子たちが、また遠い存在だった美女が、それなりに〈老けゆく秋の夜〉を迎えているのを見て、人生は短く、美貌も束の間だと言うことが、また再確認でき、命の付与者からいただける《永生の望み》を持って、死ぬまで生きることを決心した、この年末です。あのデーケン教授は、みんなに親しく「デーケンさん」と呼ばれていました。

(ウイキペディアによる、デーケンさんの生まれた「オルデンブルグ」の国立劇場です)

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baseball player

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 世界には、現実と虚構があって、その境界線が、何かあやふやになってしまっているのが、現代ではないでしょうか。現実の世界が、あまりにも悲惨で、苦悩に満ち、絶望しているので、想像の世界、嘘の世界を作り上げて、代わりをさせようとしているのかも知れません。

 舞台に立ったり、スクリーンに映し出される役者は、自分ではない、誰か他者を演じます。たとえば歴史上の人物、小説などの主人公を、書かれた脚本に従って演じているのです。それは虚構の世界です。過去に実在した人物、または空想上の人を演じて、観衆は、それを目の前に見ます。著述や脚本で思い描いた人が、役者に演じられると、史実とは違ったimage に変えられてしまうわけです。

 ところがスポーツの世界は、現実の世界であって、たゆまぬ練習や訓練によって、技術を高め、精神を強固にして結果を出します。多くのスポーツ選手を見てきて、自らを確かめようとして、励んで、だれもが認める選手になったのが、大谷翔平です。高校入学時に、「目標達成シート」を、花巻東高校に佐々木監督に指導で、作り上げています。

 その目標の達成のために、地道で不断の努力と研鑽を積んで、プロの世界で、一級の選手になろうとしたのです。貧しかった野球少年が、父親や母親に、家を建てたり車を買って上げたくて、名手となった方のお話も聞いてきましたが、大谷翔平は、お金のためでも名誉のためでもなく、単純に野球選手として、掲げたゴールに向かって生きてきたのです。

 挫折や不振や怪我にも腐らず、賞や誉を得ても驕らないで、謙虚に野球一筋に、stoic に生きる姿勢に、誰もが驚かされています。そして、29才で、名実ともに、超一級のbaseball prayer になったのです。世界中の注目の的となって、映像に映る姿は、野球少年そのものです。なんのperformance をすることもなく、Star のような表情も見せません。

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untitled

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 何度か、脚光を浴びる表舞台に立ったことがあった自分ですが、spot light footlightsを浴び、自分だけが注目される場に立つと、舞い上がるような気分にさせられたのです。何か大きな存在でもあるかのような錯覚に見舞われた私でした。映画でも、歌でも、スポーツでも、政治の世界でも、教育界でも、どの世界でも脚光を浴びるstarの誘惑を感じて、舞い上がってしまいますと、その舞台を降りても、あの感覚が忘れられない、といった star たちの述懐を聞いたことがありました。

 そのような立場に立っても、偉そうにしないのが、彼なのでしょう。野球への真摯な姿は、人生を生きる大谷翔平の姿勢なのでしょう。そういった心の資質も培ったことに驚かされるのです。野球人生も、人生全体にわたっても、悔いなく活躍していくに違いありません。野球人としてだけでなく、一人の人として生きて欲しいと願っています。

 暗く騒然とした世の中で、燦然と輝くキラ星のように、躍動しているShouheiOotaniの姿は、まさに現実、この現実に押し潰されずに、これからを生きていくことでしょう。この人の《態度》、《生きる姿勢》の良さに、驚かされ続けております。来季の活躍を願っています。

(写真は、ウイキペディアによる「Dodgersのチームロゴ」、生まれ育った地の「JR水沢駅」の風鈴です)

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三国街道の難所を

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 『十年に一度の大雪!」との気象情報を聞いた通りに、この週、日本海側の街々が、大雪に見舞われています。それは毎年毎年、繰り返されたことであって、大陸から吹いてくる雪の冬将軍が、列島の背骨の山並みを隔てて、気象の驚くほどの違いを繰り返してきました。

 日本海側は猛吹雪、太平洋側はカラカラの晴天の違いを、今年も見せています。北と南を反対にした地図を見せていただいたことがありました。そして大陸中国で過ごしていた時に、世界地図を大陸の方から眺めた時に、まったく違った感覚を感じて、とても驚かされたこともありました。

 新潟から東京には、三国峠を越えて来なければならなかった時代、雪の積もった峠を越えるというのは、大変難儀なことであったのです。三国街道沿いのかつての宿場町の須川宿(現在のみなかみ町)に、出かけたことがありました。

 その須川は、三国街道の宿場町で、難所であった三国峠を控えていて、多くの旅人や商人などが利用した宿場だったそうです。冬季は、上州からは覚悟して登っていき、越後からはホッとして投宿したのです。米所の越後の米が、この宿場で吟味されて、売買され、江戸の大都市に運ばれて行ったと言われています。

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 それを考えますと、高速道路や新幹線の開通は、どれほど新潟県人には助けとなったことでしょうか。越後人で、政界に進出し、総理大臣を務めた田中角栄は、ダイナマイトで、三国峠を吹き飛ばしたかったのだそうです(「三国峠演説」でそう語ったようです)。そうすれば、大陸からの雪を運ぶ季節風は、太平洋側に抜けて、越後に雪が降らなくなるからなのです。

 そんな風に、越後人の本音を語ったようです。忍耐強い頑張り屋の県民資質は、そういった厳しい自然環境の中で培われたのです。最初の職場に、新潟県の出身の方がおいででした。高等学校の校長をなさった方で、退職後、息子さんのおいでの東京に住まわれ、嘱託で働かれていて、実に穏健な方でした。昼休みになると、バトミントンを一緒に楽しんだのです。

 大雪のニュースに、思い出すのは新潟で、大きな壁のような三国峠の向こうの越後国です。雪が溶けて流れる冷たい水に育てられた、寒さに強い「こしひかり」のお米を産んだのです。若い日に出会った越後人の元校長は、「い」と「え」の使い方が越後訛りだったのを思い出します。もうすぐ年明けですね。

(ウイキペディアによる「三国峠」、「永井宿」です)

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