暮の喧騒を思い出して

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 青果市場の競りの開始は、朝早かったのです。自転車にまたがり、駅から南に下って来る道の大きな交差点の角に、その街の市場がありました。そこに出入りの仲卸商の手伝いで、週日の早朝に働いたのです。卸商の競り落とした野菜や果物を、ネコと呼ばれる台車に載せて運び、貨物自動車の荷台に積み上げる仕事でした。それを四、五年したことがあります。

 母が、『そんな仕事しかないの?』と心配したこともありました。でも、家内と共に献身し、母教会を離れて、開拓伝道をする宣教師さんの手伝いをするために、中部圏の山岳の街に越して、“ tent maker “ 気分で、小パウロのような思いで、一生懸命に働いたのです。長男が五月に東京で生まれ、彼が三ヶ月ほどで伝道助手の仕事を始めたのです。

 その仲買人は同い年で、同い年の男の子を育てていました。隣街に店を持ち、お母さんと奥さんとで店をし、彼は、自動車に積んだ荷を、小さな店に卸していく商いをしていたのです。大勢の青果商の中で、抜群に競り落としの上手な方でした。その競り落とした商品を、他の青果商に売るような商いをもしていました。そればかりではなく、京浜の青果市場に、市場の運営会社に納品までさせているほどでした。

 東京の神田や三多摩地区に市場があって、そこでアルバイトをした経験があり、あの独特な青果市場の匂いや雰囲気が、そこも同じで、楽しく働いたのです。この方の家に招かれて、家内と息子を連れて訪ねたことがありました。気前の良い方で、いつも野菜や果物を、仕事帰りにいただいたのです。

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 神田は、東京でも築地と並んで大きな市場でした。まだ、電動の運搬車などない時代でしたから、大八車が場内を忙しく、けたたましく行き交い、小競り合いや喧嘩もあったのですが、地方都市の市場は、もう少し和やかで、青果下ろしの会社には、もう電動運搬車もありました。

 父が、戦時中から戦後の間、この街の山奥で仕事をし、この街に事務所を持っていましたので、その山奥で私は生まれていて、よく街に兄弟たちで連れ出してもらって、デパートの屋上の観覧車なんかに乗せてもらった記憶があります。その父の事務所は、その街の青果商組合の理事長をされていた方の店の脇にあったのです。この方の紹介で得た仕事でした。

 この方は、若い頃、東京日本橋の「千疋屋(せんびきや)」という、江戸時代からの大きな果物専門店で修行をされ、自分の街に帰って、果物の専門店を始めた方でした。八百屋さんたちは、この方と行き交うと、頭をさ下げてあいさつをしていました。人格者でした。

 私が、場内で荷運びをしていると、『準ちゃん!』と呼び止めては話しかけてくれ、季節季節に果物を箱ごと頂いたりしていました。『遊びに来なさい!』と言われて、三人で訪ねると、『何を食う?』と言って、食堂やレストランに連れて行ってくれ、うなぎ丼やカツ丼をご馳走になったのです。実に懐かしい方で、父よりも年配でした。

 暮の地方都市の市場も、大賑わいでした。最終競の行われる「止め市」の今頃の時期の場内には、みかんやリンゴ、正月用に野菜が山積みにされていて、その賑わいは、独特な高まりがありました。タバコをくわえたり、朝からお酒の入った青果商たちが、競の行われる場に、忙しく移動していくのです。きっと日本独特な雰囲気だったのでしょう。競の間、運び手たちが焚き火を囲んだ談笑もありました。

 あの喧騒が、瞼に浮かんで参ります。もう50年も前の光景です。その仲卸商に誘われて、一緒に朝飯を食べた八百屋さんたちと仲良くなって、いろいろな話をしたのです。雇ってくれた仲卸商は、得意になって、私がキリスト教伝道をしていることを、仲間内に紹介していたりして、そんな話題もあったでしょうか。二十代の後半の時期でした。みんな懐かしく思い出される、令和の時代の暮れです。

(ウイキペディアによる、「市場」の競風景です) 

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