『十年に一度の大雪!」との気象情報を聞いた通りに、この週、日本海側の街々が、大雪に見舞われています。それは毎年毎年、繰り返されたことであって、大陸から吹いてくる雪の冬将軍が、列島の背骨の山並みを隔てて、気象の驚くほどの違いを繰り返してきました。
日本海側は猛吹雪、太平洋側はカラカラの晴天の違いを、今年も見せています。北と南を反対にした地図を見せていただいたことがありました。そして大陸中国で過ごしていた時に、世界地図を大陸の方から眺めた時に、まったく違った感覚を感じて、とても驚かされたこともありました。
新潟から東京には、三国峠を越えて来なければならなかった時代、雪の積もった峠を越えるというのは、大変難儀なことであったのです。三国街道沿いのかつての宿場町の須川宿(現在のみなかみ町)に、出かけたことがありました。
その須川は、三国街道の宿場町で、難所であった三国峠を控えていて、多くの旅人や商人などが利用した宿場だったそうです。冬季は、上州からは覚悟して登っていき、越後からはホッとして投宿したのです。米所の越後の米が、この宿場で吟味されて、売買され、江戸の大都市に運ばれて行ったと言われています。
それを考えますと、高速道路や新幹線の開通は、どれほど新潟県人には助けとなったことでしょうか。越後人で、政界に進出し、総理大臣を務めた田中角栄は、ダイナマイトで、三国峠を吹き飛ばしたかったのだそうです(「三国峠演説」でそう語ったようです)。そうすれば、大陸からの雪を運ぶ季節風は、太平洋側に抜けて、越後に雪が降らなくなるからなのです。
そんな風に、越後人の本音を語ったようです。忍耐強い頑張り屋の県民資質は、そういった厳しい自然環境の中で培われたのです。最初の職場に、新潟県の出身の方がおいででした。高等学校の校長をなさった方で、退職後、息子さんのおいでの東京に住まわれ、嘱託で働かれていて、実に穏健な方でした。昼休みになると、バトミントンを一緒に楽しんだのです。
大雪のニュースに、思い出すのは新潟で、大きな壁のような三国峠の向こうの越後国です。雪が溶けて流れる冷たい水に育てられた、寒さに強い「こしひかり」のお米を産んだのです。若い日に出会った越後人の元校長は、「い」と「え」の使い方が越後訛りだったのを思い出します。もうすぐ年明けですね。
(ウイキペディアによる「三国峠」、「永井宿」です)
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