年の瀬に

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 明治生まれの父と、大正生まれの母は、島根県の出雲で出会ったのだと思います。結婚して、京都で過ごしたと、母が言っていました。父は、横須賀で生まれ、秋田に学び、京城、山形、山梨、東京と移り住んで、国策事業に従事し、父は61年の生涯を閉じ、母は95歳まで生きて、二親共に天の故郷に帰って行きました。

 男の子四人を育てて、親孝行をしてもらえる年齢になったのに、何も言い残さないで、父は逝ってしまいました。戦中、戦後の厳しい時代を、精一杯に働いて、食べさせてくれ、着せてくれ、暖かな布団を与えてくれ、学校まで行かしてくれました。

 ちょっとばかり短気だったでしょうか、ゲンコツをもらいながらでしたが、思い返すと感謝なことばかりが思い出されるのです。あの渋谷のレストランで、ご馳走してくれた子牛の柔らかな肉料理と黒パンの味は忘れません。

 ここ栃木の街で、明治8年に創業した老舗の和菓子屋で、棚に置いてあった「カルメ焼き」を、つい懐かしくて、先日買ってしまいました。二つ買ったのですが、一つは、今週訪ねてくださった中国からの若い友人家族と親族七人が、華南の街にはないと言って、持って行きました。父が作ってくれたのは、金属製のお玉の中に、ザラメの砂糖に水を入れて、七輪で煮溶かし、頃合いを見計らって、わり箸の先に重曹をつけて、溶けたザラメに入れると、ジューという音を出して結晶して出来上がったのです。

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 その様子を見守っている間、つばきが激しく出て来て、食べたいサインを出していたのです。父親が作ってくれたからでしょうか、その美味しさは、どことも比べられないほどでした。あれって、非行化防止の策だったのでしょうか。悪に走る足も手も、引っ込めさせた効果あったのです。

 家で餅つきはしたことはなかったのですが、米屋さんに餅をついてもらって、毎年配達してもらったのです。のし餅が切り時になると、三箱もあった餅箱に、六人が、お雑煮や海苔巻きやきな粉餅にするための餅を、スケールを使って全く同じように切っていました。几帳面だったのです。切ったはじっこの餅は、小さく切って、母に、干させて、正月明けに、揚げ餅を作ってくれ、醤油をかけて食べたのです。

 家内と二人っきりなのですが、のし餅を買って帰った昨日は、父に倣って、餅を切ったのです。正月二日に、弟が来ると言っていますから、関東風のお雑煮を作ろうと思っているところです。おせち料理も、作らなくなりました。母が準備万端整えてくれ、子育て中は家内も作ったのですが、この数年は、スーパーに行って、棚を見て終わりにしています。

 中国で、お餅を「年糕niangao」と言うのですが、中国からの若い友人夫妻が二つ持参してくれました。日本の餅とは、似て非なるものですが、伝統の正月用品です。いつも来るたびに、家内を心配してくれて、漢方の食材を持参してくれるのです。

(「カルメ焼き」と「年糕」です)

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