Sunrise

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  アメリカのウエストコーストの “ sunrise “ の写真と、ここ栃木の朝ぼらけの写真です。日の出は、一日への期待があふれ出てくる時でしょうか。聞くのが辛いニュースの多い昨今、好いことへの期待で一日を迎えたいものです。

 『日の出る處より沒る處までの列國の中に我名は大ならん 。又何處にても香と潔き獻物を我名に獻げん 。そはわが名列國の中に大なるべければなりと萬軍のヱホバいひ給ふ。(マラキ書111節)』

 「日の出づる国」と呼ばれた日本から、ハワイでしょうか、「日の沈む国」に至る全ての国で、万軍の主、栄光の王の御名が、高らかにほめたたえられると言う預言のことばです。

世界中どこででも
新しい歌をささげよ
主に歌え ほめたたえよ
御救いの知らせを告げよ
まことに主は大いなる方
賛美されるべき方
威光と尊厳と栄誉 光栄と力
ただ主だけを礼拝せよ
天をつくり 支えている主 

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古代への浪漫 下野国版

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 東京の大森に、「大森貝塚」があり、モースによって発見され、「日本考古学の発祥の地」とされています。モースは、東京大学の教授でしたが、横浜から新橋への汽車の窓から、外を眺めていて、この貝塚を発見し、その発掘に従事しています。18776月のことでした。動物学に学者で、進化論者でしたが、三十代のモースのモースの興奮が想像されます。

 彼の日本滞在記の「日本その日その日」を、上手なスケッチ入りで残していて、講談社学術文庫として出版販売されていて、今でも購読することができます。明治初年の出来事を、外国人の目でみ滞在記を、ペンで記したもので、実に興味深い一冊です。

 この「大森貝塚」は、教科書で、私たちは学んできています。ところが、栃木県の大田原市湯津上地区に、「侍塚古墳(上下二箇所あります)」があるのです。那珂川の西側段丘の上に位置していて、それを、元禄51692)年に、あの徳川光圀が、発掘調査させているのです。

 今は国指定の史跡となっていて、「大森貝塚」よりも遥か以前に調査が行われていますので、ここが、「日本考古学発祥の地」と言われるのです。

 私は、多摩川の西岸に、「七つ塚古墳」があることを、級友に聞いて、跳んでいって、土を木の枝で掘って、土器の破片や鏃を見つけて以来、古代への浪漫に目覚めしまったのです。中学に入ってからは、担任や社会科教師が顧問の高校の考古学発掘班に加えてもらって、日野市の日野小学校の校庭、府中市のJR分倍(ぶばい)河原駅の近くの空地、調布市の国領にあったミシン会社の敷地で、発掘調査の手伝いをしたのです。

 興味津々で、スコップや小箒を手に、先輩たちに倣って、土を起こして、貝塚や住居跡を掘り当てたのです。あんなに楽しかったことはありませんでした。あのまま考古学にのめり込んでいたら、きっと研究者にでもなっていたかも知れません。

 それで、栃木に住み始めてから、地図を眺めていましたら、隣町の壬生町にも、「古墳」があるのを知ったのです。入院中の家内の病院に行く途中、東部電車宇都宮線の沿線に、古墳らしい一廓を見つけたのです。それで、家内の退院後に、そこに出掛けてみたわけです。

 「牛塚古墳」と、「車塚古墳」で、すでに案内板が置かれていて、発掘調査も行われていたのです。壬生町の「歴史民俗資料館」にも行ってみました。「三つ子の魂百までも」で、小学生の頃の興奮が、蘇ってしまい、「古代への浪漫」、自分の祖先たちが、どんな風に生きていたのかへの興味が、いまだに尽きないのです。

 これからの課題は、「上侍塚古墳」に行ってみることです。車の運転をしなくなった自分には、交通の便が悪いので、自転車を輪行袋に入れて、電車で行ってみようと考えているところです。暖かな日が待ちどうしい浪漫ジイジです。

(ウイキペディアによる2021年発掘調査時の上侍塚古墳です)

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そこまで教えてくださった恩師方

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 社会への関心、世の中のことへの興味を呼び起こしてくれたのは、小学校5、6年の担任の先生、中学校3年間、「社会」の授業を担当し、地理や日本史や世界史などを教えていただき、担任だった先生でした。とくに、中学校の担任の先生のお宅に、5人ほどの同級生でお邪魔したことがあったのです。あの中で、後に教師になったのは自分だけだったでしょうか。仕事を選び、それを決めるのにも、強い影響力を与えてくれた教師でした。

 JRの路線の駅名にもあるお名前で、後に高校の女子部の中学校の校長をされておられたのです。高校受験を控えていた長男に、自分の出た学校を見せて上げようと、息子を連れて、訪ねたこともありました。

 ある授業で、戦争のことを学んでいる中で、「日本軍の軍人の特徴」について触れられたのです。世代的には、この先生も従軍経験がおありだったと思います。授業で、ご自分の体験談を話されることはなかったのですが、『日本人ほど、軍人になるのにふさわしい国民はないのです!』と言われたのです。軍人に最適な資質を備えていると言うわけです。

 それは、「死を恐れない」、「命令に絶対服従」、「罪悪感がない」、「残虐な行為ができる」と教えてくれました。私の父は、兵士として戦った経験はありませんでしたが、戦前の軍事教育を、学校で受けた世代でした。そう言った教育がつちかったのが、「日本精神」だったのでしょう。誰もが、そうだった、そうあるべきなのは、その時代の子たちだったのを思い出したのでしょうか。

 「忠君愛国」の日本人であることを、戦前の日本は、教育でも政治でも行政でも、広く国民に求めたのです。あの長い戦争が敗戦という形で、終戦を迎え、平和の時代に、自分は育ったのですが、神風特攻隊や予科練の勇姿に憧れていたのです。どうも「日本精神」の残り滓を持っていたのです。

 『貴様と俺とは同期の桜!』と平気で歌う少年だったのです。日本人の優等性にこだわり続けていたのが、今思うに不思議でならないのです。担任の同乗する遠足のバスの中で、「軍隊小唄」、

 (一)
いやじゃありませんか 軍隊は
カネのお椀に 竹のはし
仏さまでも あるまいに
一ぜん飯とは なさけなや

(二)
腰の軍刀に すがりつき
連れてゆきゃんせ どこまでも
連れてゆくのは やすけれど
女は乗せない 戦闘機

(三)
女乗せない 戦闘機
みどりの黒髪 裁ち切って
男姿に 身をやつし
ついて行きます どこまでも

(四)
七つボタンを 脱ぎ捨てて
いきなマフラー 特攻服
飛行機枕に 見る夢は
可愛いスーチャンのなきぼくろ

を歌ってしまったのです。担任が、難しい顔で振り返って、自分を見たのが分かり、『しまった!』と思いながら、最後まで歌い切ってしまったのです。そう言った「日本精神」を、8年の間、私を育ててきださった宣教師さんは、取り扱ってくれたのです。路傍伝道で、声を振り絞って得意がっていた私に、

『かれは叫ぶことなく聲をあぐることなくその聲を街頭にきこえしめ。(文語訳聖書イザヤ書42章2節)』

を示してくれたのです。イエスさまは、路傍で、叫び声を上げることなく、穏やかな口調で、人々を教えられたことを、二十代の私に教えたのです。そんな恥体験を思い出すのです。神の国を継ぐ者には、ふさわしくないもの、「日本精神」を、取り除く務めを、教会の主は、宣教師、しかもアメリカ人の宣教師を通して、その業をなさったのを思い出すのです。

 ずいぶん前になりますが、台南の教会に参りました時に、その教会の牧師さんとの交わりの中で、その街で、日本人の宣教師が奉仕をされていたそうです。ところが、途中で帰国をされたのだそうです。『何かあったのですか?」とお聞きしましたら、『この方が持っていた「日本精神」が原因だったと思います!』と言われたのです。

 ところが私の家内は、「日本人」へのこだわりのない家庭で育って、子供の頃から英語を父親から学び、アメリカ人が出入りする家で育ったのです。結婚して彼女は、『何人(なにじん)なんてこだわらないで、同じ〈人〉としてみるべきだと思うわ!』と、よく私に言いました。そんな彼女の忠告と、八年間の私の師匠の忍耐によって、「日本精神」から自由にされることができたのです。

 今も、あの怪物が、怪しく動き始めてはいないでしょうか。日本製品や、日本人の資質の優秀さを自ら誇る心に、蠢いているかも知れません。日本がかつて支配した近隣の国が、経済力をつけて、その国々の誇りが、似たような精神を誇示しているように感じます。それがぶつかり合うような危機も感じているのです。防衛費の予算規模が膨らんでくるのは、国防という名の戦争準備でしょうか。わが父の世代が駆り出された戦争、その「大東亜」という言い方が、近隣の国にも意識され過ぎているかも知れません。こんな思いが、思い過ごし、杞憂であって欲しいのですが。

(この日曜日の朝の東の平和な空です)

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真冬の朝空に

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 何か感じたのでしょう、玄関を開けたら、空に気球が見えたではありませんか。快晴の冬空に、二つの気球が見えたのです。悠々と飛ぶ姿を、鴨が追って跳んでいました。自分たちの領域への闖入者に驚いたのでしょう。

 『後に生きて存れる我らは、彼らと共に雲のうちに取り去られ、空中にて主を迎へ、斯くていつまでも主と偕に居るべし。(文語訳聖書テサロニケ前書417節)』

 子どもの頃の夢の一つは、あんな風に空を飛ぶことでした。翼がなくては飛べませんが、やがて、主が迎えにきてくださる時、空中に携挙されることを、今朝も思い出したのです。ある祈祷院の玄関の壁に、この携挙を描いた、一幅の絵が掲げられてありました。間もなく、その時がくることでしょう。

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古湯の金泉湯の湯治を懐かしむ

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 温泉歴、と言うよりは、「湯治歴」の方が良いかも知れません。高校2年の修学旅行で、北海道をバスで周遊したのです。高校生の温泉ホテル宿泊というのは、風紀上いいのでしょうか、近くで酩酊しておかしな大人たちの蠢く動きの中、「修学」ではななく、「社会探訪学」に変えた方が良さそうです。

 函館の近くの湯の川温泉、大町桂月が名付けたと言う層雲峡温泉などは、あの1960年代の初め頃には、とても大きなホテルがあって、高度成長期といった活況を見せていたのです。その温泉浴場は、学校のプールが三つ分ほどの広さで、あふれるような温泉客がありました。

 家族旅行などない時代でしたから、それが自分には初めての温泉体験だったのでしょう。謳い文句は、『〇〇に効く!』の効用だったのですが、温泉願望の年齢にはまだ達していなかったので、何も覚えていません。別府出身の同級生の紹介で、九州を旅した時に、別府温泉にも行ったことがありました。硫黄臭の強さに驚いた覚えがあります。

 23歳の時に、神奈川県の県職員をしていた友人の寮に、招かれて訪ねた時、ビールを一緒に飲んだのです。キャッチボールをしようと言うことで、彼が暴投をして、塀の向こうに飛んで行っってしまいました。それを取りに、塀によじ登ったら、落ちてしまい、左腕を思いっきり地面に打ち付けてしまったのです。家に帰って、兄が通っていた整骨院に跳んで行ったら、『俺にはできないから、親父の所に行ってくれ!』と言われて、レントゲンを撮ってもらったら、複雑骨折でした。副木を当てて、ずっと固定し、息子さんの家でマッサージ治療を続けたのです。

 ところが腕が固まってしまい、どうにもなりませんでした。再度、親父先生を訪ねましたら、さすが熟練の整骨師で、『エイッ!』で伸びてしまったのです。その機能回復で、温泉行きを勧められたのです。職場の上司が、増富村に、学校関係の温泉場があるので、紹介状を書いてくれて、温浴治療をしたのです。4日ほどいたでしょうか、効果覿面で、治って、いまだ問題なしです。

 それから、温泉の効能を認めたのですが、39歳の時に、腎臓の摘出手術をしたのです。その後の養生に、温泉に入るのがいいと言うことで、上の兄が探してくれたのが、あの「信玄の隠し湯」と言われる増富温泉で、今では廃業してしまった古湯の宿、金泉湯でした。そこに一週間ほど湯治で滞在したでしょうか。

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 そこはラジウム温泉で、ラムネのような炭酸水が、細かな泡を体につけてくれ、『これが効くんです!』と、冷湯の中に、ジッと入り続けるのです。みなさん、お腹や胸や背中などに、手術痕があって、大手術の後、そこで湯治をしていたのです。癌治療のみなさんでした。人形峠にも同じ泉質の温泉があるけど、『ここが一番!』と言う湯治客が多かったのです。

 ぬるい温泉が流れ落ちる、岩の出口に、タオルを巻いて、口をつけてラジウム臭のガスを吸うのです。みんな必死だったでしょうか、死なずに生きて来て、もう少し生きたいと願う人ばかりだったのです。39歳の自分には、想像のつかない熱心さに圧倒されたのです。

 あれ以来、温泉病にかかったのでしょうか、時々、その増富温泉に出かけたのです。その部落の北側の峠を越えると、レタス栽培で有名な信州長野の川上村に行き着くのです。焼肉なんて食べたことはなかったのですが、村の中に焼肉屋さんがあって、お昼を、家内としたことがありました。放牧も盛んな地で、肉も野菜も新鮮で、あんな美味しいお昼は食べたことがありませんでした。あれから、数年の間、時々、休みの日に出かけたのです。「英気を養う」とは、あのことでした。

 ただ、歳を取った父を案内して、ああいった山間の鄙びた温泉に、連れて行って親孝行をしたかったのですが、61歳はまだ若かったのですが、誕生日を過ぎてすぐに、主のもとに帰っていったのです。し残したことがあるのが、いまだに悔やまれています。

(ウイキペディアによる増富温泉の近くの「瑞牆山(みずがき)」、現北杜市の市花の「向日葵」です) 

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誠実を愛して

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 『人よ彼さきに善事の何なるを汝に告たり ヱホバの汝に要めたまふ事は唯正義を行ひ憐憫(誠実)を愛し謙遜りて汝の神とともに歩む事ならずや (文語訳聖書 ミカ書68節)』

 小学生の頃に住み、3年ほど働いた、八王子の街の景観の中で、『綺麗だなあ!』と思わされたのは、国道20号線の「銀杏」の街路樹でした。春の緑も合わせ、圧巻は、秋に黄金色の葉に変わる姿です。江戸城を、甲州街道上で守るために定められ、家康没後、墓所となった日光東照宮の警護の勤めを任じられた「八王子千人隊」の隊士たちの居住区の近くの甲州街道沿いにあるのです。

 その千人隊士が、通ったのは、日光の「杉並木」です。今でも主要道路になっている、日光街道、日光例幣使街道、会津西街道の「日光神領」内に、松平政綱が、20年ほどの年月を費やして整備したものなのだそうです。今でも、排気ガスにめげずに、きれいな並木の姿を見せています。旅人を、夏の熱射から守っているのです。

 この街路樹は、正綱のように、徳川の三代の将軍への敬意を込めて、寄進したものだと言われています。『ここは道路と歩道の路側帯がある!』と言う役割を担っていたのです。ちなみに、ここ栃木の街路樹は、「トチノキ(栃の木)」で、きれいな花をつけるのです。どこの街の街並みにも、特色的な街路樹が見られるようです。

 ところが店舗前の街路樹を、枯葉剤を撒いて枯らしてしまう企業のあり方に、驚かされてしまいます。それをしたのが、車両販売をし、安全の運転を促進さなければならない企業が、そんな考えをもって、店の景観だけを優先し、宣伝のためでしょうか、店舗の見えやすさのために、街路樹を枯らしてしまった行為は、車両販売会社としては、信じられない行状です。

 昨今の日本有数の企業、これも自動車を生産して来た大企業が、速度テストなどの記録を改竄していたと言うのにも、驚いてしまったのです。気の緩みか、驕りか、その両方が、そんな企業姿勢を見せ付けられてしまうと、父や我々の世代が、地道な努力をして作り上げて来た気概が、傷つけられるのは、許し難いことです。

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 《世界のトヨタ》の土台を据え、織物業が、一時期、日本の主要産業だった時代、その織機の製造にために、工夫をし続けて、諦めずに、最良の織機を作り上げた豊田佐吉は、

 『わしの今日あるのは、天の心というものだ。それなら、こちらも社会へ奉仕せにゃいかん道理だ。誠実というその字を見ろ。言うことを成せという言葉なんだよ!』、と息子の喜一郎に言い残したそうです。この企業を親会社とする、自動車製造会社が、「誠実さ」を踏み躙ったのは、許し難いことではないでしょうか。

(ウイキペディアによる八王子の銀杏並木、豊田式木製人力織機です)

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ふじのりんごと相撲と柳川鍋と

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 わが家の食卓に上る食べ物で、欠かさずに置かれる物、食後の desert に欠くことがないのが、「りんご」なのです四つ葉生協と言う生活協同組合の紹介を受けて、その組合員になって、ほぼ5年になるでしょうか。より良い食材を取り扱っていて、米、醤油、味噌、酢、魚、肉、野菜、果物などを買っていて、このりんごも、その一つです。

 ネオニコチノイド系農薬の不使用の農家が栽培している物で、我が家が購入しているのは、正規品ではなく、擦り傷や汚れのついたりんごで、先週の便で届いたのは「ふじ」でした。味は抜群で、蜜のある物が時々あります。

 この「ふじ」は、青森県南津軽郡藤崎町で、誕生した品種で、その町名から、「ふじ」と命名されています。りんご栽培は、この藤崎の隣町の「弘前」で、青森市のホームページに、次のようにあります。

 『りんごの原産地は、中央アジアの「コーカサス山脈」と中国の「天山山脈」を中心とした山岳地帯と考えられていて、ここから世界各国に伝わっていきました。原産地が山岳地帯ということで、もともと寒い地域に育つ植物です。
私たちが食べている西洋りんごは、明治4年(1871)に日本に伝わってきました。
青森県へは明治8年(1875)の春、国から3本の苗木が配布され、県庁の敷地の中に植えられたのが青森りんごの始まりです。以来、今年で130年余の歴史になります。
その後、同じ年の秋と次の年の春に数百本の苗木が国から配布され、各農家で栽培が始まりました。
平成30年産を例にとると、全国のりんご生産量は756,100トンで青森県はそのうち445,500トンで、全国の半分以上(58.9パーセント)が青森県のりんごなのです。』

 弘前市の私立東奥義塾が招いた米国人宣教師ジョン・イング師が、翌年の12月25日のキリスト降誕節に、当時の教え子や信者さんたちに、りんごを分け与えたことが、西洋りんごが、青森県に紹介された最初と言われています。

 当時の東奥義塾塾長で、弘前市長や山形県知事を歴任した菊池九郎は、そのイング宣教師から洗礼を受けています。その食べたりんごの種を、自宅の庭に植えて、後年、別の台木(だいぎ)に 穂木(ほぎ)を接木(つぎき)したのが、青森県弘前市のりんごの発祥と言われているそうです。

 1962年に、品種交配などを繰り返した結果、1962年に、製品化された「ふじ」が出荷されています。私が、義兄のいたブラジルを訪ねた時に、義兄の移民仲間の方が、このふじの栽培、貯蔵に成功し、その一箱を、滞在先にいた私のために届けてくださったのです。日本で食べた物と同じような美味しい味だったのです。華南の街の果物屋でも、「ふじ」は売られていて、美味しかったのです。

 さて、ふじ発祥の地の「藤崎町」は、「相撲の神様」と呼ばれた、力士の「大ノ里萬助(18921938年)」の生まれた町でした。。出羽海部屋所属で大関を、七年間も張った相撲取りでした。164cm97kgの小兵でしたが、相撲巧者で、とても誠実な性格だったそうです。稽古も熱心にし、後輩指導は厳しかったのですが、弟弟子たちからは、人望があつかったのだようです。

 私たちの世代は、プロレス、プロ野球、相撲に夢中で、学校の校庭でも、家の近所の空き地でも、素手をバットに、ボールをゴムマリに、野球ゲームに励み、また、その相撲も取ったのです。私たちの通っていた学校の校庭に土俵が作られ、そこで相撲巡業が行われて、兄たちの後をついて見学したことがありました。そこで巡業していたのが、二所ノ関一門で、玉の海、琴ヶ濱などの現役力士がいたのです。
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 兄たちの贔屓が、琴ヶ濱(最高位は大関)で、この力士の得意技が、《内掛け(足で、相手の足を絡めて押し倒す技)》で、これを兄たちは得意技にしていたのです。それを自分も真似て、相撲を散って、内掛けをすると、面白いように相手が倒れて行ったので、自分の得意技になったのです。大男を薙ぎ倒したこともありました。

 大相撲、テレビがない時代、ラジオのアナウンサーの取口の実況を聞いて、土俵上の取り組を思い描くのでした。そんな相撲好きの子ども時代でしたが、テレビを置かなかった頃から、疎遠になってしまいました。でも、一度くらいは、両国の国技館に行ってみたいものです。帰りに、浅草の駒形で、柳川鍋(どじょうなべ)を食べて、父を思い出してみたいな、の極寒の朝です。

(ウイキペディアによるりんごの花、柳川鍋です)

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住めば都の心地して

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 この春で、ここ栃木市に来て6年目を迎えています。家内の入院中や退院後に、実によくしてくださったご夫妻と、その息子さんご家族がいて、時々、小学生のお嬢さんが、遊びに来てくれ、お母さんは、買い物にお誘いくださって、歩いて行けない距離に、車でお連れくださるのです。娘のように、お互いに思うかのようです。

 その方のご両親は、県北の街で、牧会をなさってこられて、ご子息に教会の責任を委ねられている、同世代の牧師さんです。こちらに来られると、寄ってくださったり、お土産までいただいているのです。若い頃に、セミナーや聖会でお見受けしたことがありましたから、けっこう時間的には長い知り合いになります。

 その他に、県南の街にお住まいのご夫妻がいて、家内の散髪に、『髪の毛がだいぶののびたでしょう?』と言っては、やって来てくださって、30分ほどの散髪をしてくださっています。お母さまの掛り付け医が、近くにいて、その通院の折に、寄ってくださるのです。お母さまも奧さまも整髪していて、家内のためにも12ヶ月ごとに、忠実に訪ねてくださっているのです。お昼を一緒にして交わりが続いているのです。

 ご主人は、アメリカの西海岸の街に留学中に、クリスチャンになられ、音楽伝道をなさっておられるのです。あの東日本大震災の後は、復興支援のために移住して、上のお子さんは、あちらで誕生されているそうです。長く復興支援活動を続けておられ、今でも時々出かけておいでです。奥さまは、私たちが滞在した省の隣りの省の出身で、東京の神学校を出ておられるのです。

 またご両親は、信州りんごの栽培が盛んな街の出身で、お父さまは東京の会社に勤められ、東北地方の街の支店勤務を経て、退職まで長く都内にお住みだったそうで、県南の街に家を建てられて、今は、ご主人と死別されたお母さまと共に、栃木県においでなのです。散髪後は、カレーライスを食べたり、先日は、近くの大平山名物の焼き鳥、卵焼き、団子を食べに行ったりの交わりがあります。

 家内は、宇都宮で行われている「まちなかメディカル・カフェ in 宇都宮」の交わりがあって、私も一緒に参加しています。12月には、降誕節の祝会があって、一昨年は家内はピアノ演奏をさせていただいたりしていました。この交わり会の事務担当のご婦人は、時々、わが家に食事をお招きしたり、コーヒーを飲んだりさせていただいていて、娘のようにしていてくださり、通院にも手助けで、車を出してくださることもあります。

 この会に、顧問のようにして参加される医師のお勤めの病院で、漢方の専門医をされていて、この2、3回は、通院して診察をして頂いています。そのようなみなさんの他には、家内の散歩仲間、ラジオ体操仲間、自治会の老人会、家内参加の婦人会などで、近隣のみなさんとの交流があります。

 昨日は、「市民教養大学」の終講があって受講しました。もう2単位で「学士さま」です。2年目の受講で、ラジオ体操仲間の方も参加されておいででした。青森県の「三内丸山遺跡」と、群馬県安中市の「中野谷松原遺跡」の比較を、長年発掘調査をされて来て、退職後、國學院大学栃木短大で教鞭をとられる大工原豊氏の講座で、《古代の浪漫》に感じ入りました。まさに「住めば都」でしょうか、すっかり馴染んでいる今日この頃です。

(ウイキペディアによる、栃木の市木のトチノキです)
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今昔

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 1965年の69日の毎日新聞が、経済大国日本なのに、岩手県下には、まだ『欠食児童がいる!』という記事を全国版に載せたのです。それは自分はお腹いっぱい食べていた二十歳の学生身分の頃のことでした。

 時の総理大臣が、佐藤栄作でした。一国の宰相は、その報道に衝撃を受けたのです。『今なお欠食児童がいるのは政治の責任だ!』と言って、大臣の席を立って、花巻空港に飛行機で飛んで、県域の80%が山地である、その岩手を訪ねたのです。『このような問題こそ、われわれ(政治家、政治責任者のこと)の考えるべきこと!』と言って、4億円を国庫から緊急に支出することを決め、閣議決定を、速やかにしたのです。

 県下の小学校を訪ねた佐藤首相は、生徒たちの手をとって握手して回ったたと言われているのです。実に熱血の宰相でした。その時の様子を、生徒会の何人かが、手紙を出すのですが、その一通は、『国民の声をよく聞いて、政治に反映させるのは、本当に政治家の姿だと思います!』と手紙で感謝したのです。

 事態に即応する政治の姿は、自分の所属する会派のお金にばかり思いを向けている昨今の政治家とは大いに違い、劣化甚だしい今を感じて、悲しくなってしまいます。

 この岩手県は、古来、〈にっぽんのチベット〉と言われた貧しい地でした。仙台に向かって流れていく北上川には、人減らしで、生まれて来たわが子を水に流したという悲しい現実のあった地なのです。ところが、今や、アメリカ球界の寵児と言われる、193cm95.3kgもある大谷翔平は、奥州市の生まれ、花巻東高校の出身です。60年の今昔、欠食児童のいた県が産んだ野球選手が、信じられない契約金を得ている違いに驚くのです。

 岩手県人の今昔、政治家の今昔、さまざまに違いのあるのに驚きながら、世界の三分の一の人たちが、いまだに貧困と戦い、人類全体が、将来に不安を覚えて今を生きているわけです。それにしても、佐藤栄作の即弾力や行動力には驚かされます。

(ウイキペディアによる岩手県花の「桐の花」です)

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人が歩いて来た街道で

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 五世紀頃、唐の街道整備に倣って、日本でも統治上、街道の整備が行われ始めてきました。江戸期には、「五街道」が整備されたのです。江戸勤めの侍や旅の商人、温泉療養や寺社参拝で、江戸期の人たちは、幕府の整備した街道を、少ない携行品で旅をしました。今のような観光目的の旅は、富裕層だけの特権だったのでしょう。かく各地方にも街道が整備されていました。

 その起点とされたのが、江戸の日本橋でした。その主要街道は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥羽街道で、「五街道」と呼ばれていました。

 江戸から京の都までの53宿の「東海道」、江戸から武州千住、下野宇都宮から日光までの21宿の「日光街道」、江戸から宇都宮、そこから分岐して磐城白河までの24宿、白河以北の陸羽街道・仙台道・松前道・外が浜道郡山、福島、陸中盛岡、陸奥青森、三厩まで、そして海を渡って蝦夷松前を経て函館までの114宿の「奥羽街道」、江戸から上州高崎、信州下諏訪、信州妻籠、草津に至るまでの67宿の「中山道」、江戸から内藤新宿、甲府、下諏訪までの44宿の「甲州街道」でした。

 各街道には、「一里塚」が置かれ、「宿場」が設けられ、本陣、脇本陣、旅籠、木賃宿、高札所、代官所が置かれていました。五年前に越して来て住み始め、今年は六年目に入った、この栃木市は、中山道の倉賀野宿から、日光に至る「日光例幣使街道」の宿場だったのです。幕府の佐野藩の統治下にあった街で、街の中央に代官屋敷跡があって、そこを見学したことがありました。

 そんな宿場町や、街道沿いに、「報謝宿(ほうしゃやど)」と呼ばれる宿泊施設が、たまにあったようです。旅の途中で病んだり、路銀をなくしたりしている人に、宿と食べ物を提供する、今で言う、民間の篤志家による福祉施設があったのです。旅の途中で病んだり、路銀をなくしたりした場合、宿や食事の世話をしていたそうです。

 家内の入院を機に、住み始めた街は、何よりも、日光東照宮の造営、維持のために、さらには近郷の物資の搬入は搬出にために、初期料や郷土品や日用品や資材を集積するための「舟運(しゅううん)」の河岸で栄えた商業の盛んな所でした。その舟運を担った巴波川の周辺は、そんな時代の雰囲気を残していて、舟子たちの掛け声や舟唄や、綱手道を舟を曳いて歩く水夫たちの舟唄が聞こえてきそうです。

 陸路は人が動き、舟運は物資が動き、日本中で、都賀舟や高瀬舟が、荷を運んできて、鉄道ができるまで盛んに行われたのです。今のような自由に行き来をすることができない時代で、街道筋には関所や番所があって、今のように国外に出かける時、県庁から「査証(Visa)」の発行をして、それを携行しなければならないように、国内の移動には、「通行手形」が必要でした。

 その通行手形は、武士の場合は領主が、庶民の場合は在住地の名主などが発行したもので、それを携行する必要があったのです。江戸期には、「出女」、「入り鉄砲」が厳しく取り締まられていたと小学校で学んでいましたが、女性だけの旅行は大変難しかったそうです。参詣や湯治の場合は、緩やかな方法で、関所を通過できたそうです。

 東京に出てきた父が買った家は、旧甲州街道沿いにあった家でした。なんの変哲もない、まだ舗装前の石ころも転がる道路でした。その道が、江戸期には主要街道であったことを知ってから、大名も御家人も商人も、この目の道を黙々と旅をしたことを想像すると、興味が尽きなかったのを思い出します。

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 首都高の江戸橋の出入り口に、アジアの32カ国を結ぶ、“ Asian Highway ” の起点があって、福岡から海を渡って、釜山、ブノンペン、ニューデリー、カプクレ(トルコとブルガリアの国境)を終点とする、[AH-1」があります。この首都高の標識を見ると、東京がトルコ国境まで繋がる一本の道路で結ばれていると言う、不思議な感覚に襲われるのです。その日本橋のたもとに立った時と同じ感覚で、世界を捉えられるのも不思議なものです。

 そういえば、随分、あちらこちら歩き、旅をしてきたのです。今は、散歩道を辿り、春夏秋冬の植生を目にし、人と行き交うのもまた興味深いのです。今朝は、眼下に見える日光例幣使街道は、冬の冷たい雨に濡れています。

父は、南新宿(旧甲州街道の近く)に家を買おうとし、繁華街に近いので、これから成長していく4人には相応しくないと思ってやめたり、また自分が転校し、卒業した旧制中学校のあった街の近く、国道1号線(旧東海道)沿いに家を見つけたのですが、そこもやめ、東京の郊外に家を買ったのは、私たち4人のためには懸命な決断だったようです。

(ウイキペディアによる、日本橋、アジアンハイウエーの起点です)

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