この人に学んで

.

.

 もう20年ほど前になるでしょうか、「講解説教」で、日曜礼拝で、「マルコの福音書」を、連続説教させて頂いたことがありました。その説教原稿を作るために、相当数の参考書を用意いたしました。その中には、正統な聖書信仰に立たない著書もありましたが、それらは一瞥して廃棄してしまいました。イエスさまを、史的で人間的な側面で捉えるだけで、伝統的な福音主義の聖書観に立たない、福音的信仰の啓発や激励からはほど遠いものもあったからからです。

 その中で、大変参考にさせていただいたのは、竹森満佐一牧師と矢内原忠雄氏の著作でした。とくに矢内原の著わした「イエス伝(岩波書店刊)」は特別でした。この人は、「植民政策学」の学者として、社会科学の分野で大きな業績を残した人だったのです。その科学的なものの考え方を持って生きる彼の心の中には、神学校に学びませんでしたが、素晴らしい「聖書信仰」が宿っておいででした。

 科学の世界での彼の業績は、それだけではありませんでした。彼はキリスト者として、その科学と信仰とを対立させないで、捕捉させ合わせて、その橋渡しに真剣に取り組んだ方だったのです。その「科学と信仰の問題」について、彼は次のように語っています。

 『科学と信仰の問題は、次元が違うのであって、その間に断層があり、飛躍がある。科学には科学の世界があり、信仰には信仰の世界がある。それは別の世界です。しかし科学を勉強することによって、信仰のなかから迷信的な要素を除くことができる。また純粋に信仰することによって、科学に高潔な精神と希望を与えることができる。そういうことで、私はこの問題は解決されると、自分で思っています。』とです。

 どちらにも偏らない、素晴らしいバランスを持っていた方であったことが分かります。矢内原は、「無教会」の内村鑑三から最も信仰の感化を受け、信仰的には内村の弟子でした。さらに、国際連盟の事務局次長をされた新渡戸稲造を大変尊敬していましたから、学問の領域では、新渡戸の弟子だったと言われています。

 矢内原の信仰は、日本が右傾化・国粋化して、侵略戦争を展開して行いくという動きの中でも、揺り動かされることがありませんでした。信仰上の戦いを雄々しく戦った数少ない信仰者の一人でした。あの時代、信仰の良心を守り、義を愛して生きた信仰者がいたことは、せめてもの日本の救いだったに違いありません。

 その侵略戦争に反対を表明した彼は、東京大学から追われてしまいます。それでも、弱い隣国の中国や東南アジア諸国を侵すという戦争に反対し続けるのです。彼のように、終戦一貫して、平和主義、非戦論を唱え続け、軍国主義に反対を表明し通した人は、当時、実にごくわずかしかいませんでした。「日本人の良心」を守り通した人であり、一人の「預言者」とも言えるのです。

 彼が反対した戦争は敗けて終結します。戦後、彼は東京大学に復職し、1951年には総長にも選任されたのです。彼は「無教会」の中にあり続け、毎日曜日、聖書研究会を開き、多くの青年たちに信仰的な感化を及ぼしたのです。「嘉信」という月刊誌を発行し続け、多くの読者に愛読されました。

 矢内原は、『私の心に情熱をよび起こすものは福音と平和です。この二つは、二つにして一つです。私の心を燃やすものはただこの二つのみです。』と断言しました。彼の聖書の視点と解き明かそうする解釈法、霊的な姿勢は、私を忍耐して教え続けて下さった宣教師に近似しているのに驚かされます。私も、信仰的良心を保ちながら、「いのちの書」に思いを向け続けたいと思っております。

(ウイキペディアによる若き日の「矢内原忠雄(右端)」です)

.