人が歩いて来た街道で

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 五世紀頃、唐の街道整備に倣って、日本でも統治上、街道の整備が行われ始めてきました。江戸期には、「五街道」が整備されたのです。江戸勤めの侍や旅の商人、温泉療養や寺社参拝で、江戸期の人たちは、幕府の整備した街道を、少ない携行品で旅をしました。今のような観光目的の旅は、富裕層だけの特権だったのでしょう。かく各地方にも街道が整備されていました。

 その起点とされたのが、江戸の日本橋でした。その主要街道は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥羽街道で、「五街道」と呼ばれていました。

 江戸から京の都までの53宿の「東海道」、江戸から武州千住、下野宇都宮から日光までの21宿の「日光街道」、江戸から宇都宮、そこから分岐して磐城白河までの24宿、白河以北の陸羽街道・仙台道・松前道・外が浜道郡山、福島、陸中盛岡、陸奥青森、三厩まで、そして海を渡って蝦夷松前を経て函館までの114宿の「奥羽街道」、江戸から上州高崎、信州下諏訪、信州妻籠、草津に至るまでの67宿の「中山道」、江戸から内藤新宿、甲府、下諏訪までの44宿の「甲州街道」でした。

 各街道には、「一里塚」が置かれ、「宿場」が設けられ、本陣、脇本陣、旅籠、木賃宿、高札所、代官所が置かれていました。五年前に越して来て住み始め、今年は六年目に入った、この栃木市は、中山道の倉賀野宿から、日光に至る「日光例幣使街道」の宿場だったのです。幕府の佐野藩の統治下にあった街で、街の中央に代官屋敷跡があって、そこを見学したことがありました。

 そんな宿場町や、街道沿いに、「報謝宿(ほうしゃやど)」と呼ばれる宿泊施設が、たまにあったようです。旅の途中で病んだり、路銀をなくしたりしている人に、宿と食べ物を提供する、今で言う、民間の篤志家による福祉施設があったのです。旅の途中で病んだり、路銀をなくしたりした場合、宿や食事の世話をしていたそうです。

 家内の入院を機に、住み始めた街は、何よりも、日光東照宮の造営、維持のために、さらには近郷の物資の搬入は搬出にために、初期料や郷土品や日用品や資材を集積するための「舟運(しゅううん)」の河岸で栄えた商業の盛んな所でした。その舟運を担った巴波川の周辺は、そんな時代の雰囲気を残していて、舟子たちの掛け声や舟唄や、綱手道を舟を曳いて歩く水夫たちの舟唄が聞こえてきそうです。

 陸路は人が動き、舟運は物資が動き、日本中で、都賀舟や高瀬舟が、荷を運んできて、鉄道ができるまで盛んに行われたのです。今のような自由に行き来をすることができない時代で、街道筋には関所や番所があって、今のように国外に出かける時、県庁から「査証(Visa)」の発行をして、それを携行しなければならないように、国内の移動には、「通行手形」が必要でした。

 その通行手形は、武士の場合は領主が、庶民の場合は在住地の名主などが発行したもので、それを携行する必要があったのです。江戸期には、「出女」、「入り鉄砲」が厳しく取り締まられていたと小学校で学んでいましたが、女性だけの旅行は大変難しかったそうです。参詣や湯治の場合は、緩やかな方法で、関所を通過できたそうです。

 東京に出てきた父が買った家は、旧甲州街道沿いにあった家でした。なんの変哲もない、まだ舗装前の石ころも転がる道路でした。その道が、江戸期には主要街道であったことを知ってから、大名も御家人も商人も、この目の道を黙々と旅をしたことを想像すると、興味が尽きなかったのを思い出します。

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 首都高の江戸橋の出入り口に、アジアの32カ国を結ぶ、“ Asian Highway ” の起点があって、福岡から海を渡って、釜山、ブノンペン、ニューデリー、カプクレ(トルコとブルガリアの国境)を終点とする、[AH-1」があります。この首都高の標識を見ると、東京がトルコ国境まで繋がる一本の道路で結ばれていると言う、不思議な感覚に襲われるのです。その日本橋のたもとに立った時と同じ感覚で、世界を捉えられるのも不思議なものです。

 そういえば、随分、あちらこちら歩き、旅をしてきたのです。今は、散歩道を辿り、春夏秋冬の植生を目にし、人と行き交うのもまた興味深いのです。今朝は、眼下に見える日光例幣使街道は、冬の冷たい雨に濡れています。

父は、南新宿(旧甲州街道の近く)に家を買おうとし、繁華街に近いので、これから成長していく4人には相応しくないと思ってやめたり、また自分が転校し、卒業した旧制中学校のあった街の近く、国道1号線(旧東海道)沿いに家を見つけたのですが、そこもやめ、東京の郊外に家を買ったのは、私たち4人のためには懸命な決断だったようです。

(ウイキペディアによる、日本橋、アジアンハイウエーの起点です)

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