緊急事態を知らせてくれて

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 危険が迫っている時、「ことば」によって、それがどれほど危険が迫っているかを伝えるのは、道具や機器なしでできる、もっとも優れた伝達手段なのです。

 この正月2日、ラジオで、地震緊急放送がありました。津波が襲ってきて、すぐに高台への避難を促す、アナウンサーの声が、必死だったのです。まさに異常事態を伝える、ふだんラジオでは聞けない、声の高さ、命令的な言い方でした。

 聞いて、従う必要があったのは、能登半島地震で揺れた海岸付近においでのみなさんでした。『今すぐに、今すぐに!』を繰り返していました。『今すぐに逃げること!』、『高いところ、高台に避難すること!』、異常事態の緊急連絡としては、簡潔で的確でした。説明なしの伝達でした。

 逃げる必要のない、北関東の内陸、しかも四階にいて、大きく長く揺れる中で聴いた私の腰を浮かさせ、立ち上がらせるに十二分な迫りの声を聞いたのです。悠長に選び取りをする事態ではないとの公共放送の役割を感じた声だったわけです。

 「ことばの伝達」の力は大きいのを感じたのです。その「ことば」よりも早く、確実に緊急事態を告げるのは、「火」です。

 紀州有田郡湯浅廣村(現在の和歌山県有田郡広川町)の高台に住む村長の家の井戸の水が急に引いたのです。その異常で、津波の到来時の異常事態を理解した、村長が、海岸の近くに住む住民に、非難を呼びかけるために、村長宅の田んぼに、収穫して干してあった稲むらに火をつけたのです。

 1854年(安政元年)1223日午前10時に起こった「東海地震(全国で20003000人が亡くなっています)」での、村長の英断、決断、行動が、多くの村民を、津波から救った実話なのです。

 その火を見た、村民が、『村長の家が火事だ!』と言って、その消化活動のために高台に駆けつけたのです。それが緊急避難となって、津波での死を免れたそうです。これは、ラフカデオ・ハーン(小泉八雲)が書き残した「稲むらの火」と言う物語りとなって、小学校でも教材となって教えられたのです。

 鐘やサイレンを鳴らしたりして、そして、Media の媒体によって、緊急事態を告げる「ことば」の持つ力は、実に大きいのです。『逃げろ!』、『出ろ!』、『走れ!』、『来い!』、人に行動を起こさせるための伝達手段です。NHKのアナウンサーの一見、hysteric な声は、驚かせたのですが、ラジオの持つ役割の大きさ、広さを感じて、たいへん感謝でした。

(ウイキペディアによるShure Brothers社のマイクロフォンです)
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昭和、時と街と歌、そして私

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『イエス言ひ給ふ『なんぢらは下より出で、我は上より出づ、汝らは此の世より出で、我は此の世より出でず。 (文語訳聖書 ヨハネ伝8章23節)』

 「昭和」と言う響きは、戦争、敗戦、欠乏、地震災害などの暗い面ばかりではなく、豊かさ、躍進、新幹線、オリンピックなどのキラキラした時代で、この自分が生まれ、そういった時代の吸った空気そのものを思い起こさせてくれる時代でした。

 その時代に運ばれ、そのまま大人になって生き始めていった時代だったのです。もどかしく、不確かな時を重ねて、父を見上げ、兄たちに真似、映画スターに影響され、父のタバコを盗み吸いをし、盗酒の味も知り、興味津々で大人の世界に足を踏み入れ、戸惑ったり、危険を感じたり、刺激いっぱいでした。タバコの煙、酒のにおい、母になかった化粧の匂い、溢れるほどに罪の感じられる匂いが立ち込めていたでしょうか。

 そんな脇道をたどり、歩き回って、母の魂の故郷だったでしょうか、キリストと、キリストを信じる人たちの群れ、キリスト教会にたどり着いたのです。そこで佳人を得て結婚し、四人の子育てに懸命な時を過ごしました。そして老いを迎えたのは、平成であり、とっぷり浸かっているのは、令和の今なのです。時は流れ、人が行き交い、去っていき、またやって新たな出会いがあります。

 父も、母も、恩師たちも逝ってしまいました。「走馬灯」のように、顔出しでの思い出ばかり、表情やことばや、それぞれの時のニオイも思い出させてくれます。VideoでもCDromでもFace Time  ではないのです。紙芝居や幻灯で映し出されるかのような懐かしさイッパイの映像です。聞き覚えの歌の一節、『  ああだれにも故郷がある、ふるさとがあーる ♯』が口を突いて出て来ます。

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 19261225から198917日を、時代区分で「昭和」と呼びますが、再来年は、「昭和百年」を迎えるのだそうです。生まれた故郷があり、育った街があり、独立して子育てをした街、命をかけて移り住んだ街、たくさんの街を通り抜けた街の中で、「新宿」は、もっとも昭和の匂いを思い出させてくれる街なのです。南新宿に家を買って、子育てをしようと考えた父が、盛場の近くを避けたのは、父の大英断だったのです。

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 作詞が悠木圭子、作曲が鈴木淳で、八代亜紀が歌った「なみだ恋」に、次のような歌詞がありました。

夜の新宿 裏通り
肩を寄せあう 通り雨
誰を恨んで 濡れるのか
逢えばせつない 別れがつらい
しのび逢う恋 なみだ恋

 子どもの頃、電車に跳び乗れば、一本で行けた新宿でした。二十歳を過ぎた頃、この街の場末の裏通を、どこへ行くともあてなく歩いていたのです。それほど恋の危なげなど感じなかったのですし、そんなに入り込まないようにしていたと思っていました。いえそんな冷静ではなかったかも知れません。隣りには、札幌から出て来ていた同級の女ともだちがいました。肩を抱くようなことはなかったのですが、時には肩が触れながら、そぞろ歩いたのです。生意気盛り、大人ぶっても、中身は子どもでした。新宿の京王線の改札まで送って、指も触れないまま、卒業後、彼女は札幌に帰って行きました。

 あの頃を彷彿とさせてくれる新宿の街は、この歌が言っているようだったかも知れません。自分たちの場合は、そんなに切なくも、危なかしくもなかったのですが、昭和の立ち込めた街を歩いた時を思い返して、この歌が言ってるようなことがあり得たかな、と思い出すと、やはり危なっかしさに晒されていたのかも知れません。

 演歌全盛が昭和だったでしょうか。その時代の男たちが支持した、その頃を代表するような女性歌手が、その八代亜紀でした。昨年末に亡くなったと、ニュースが伝えていました。「昭和が行く」、まさにあの頃を切々として思い出されて参ります。これも「この世」の現実であり、わが青春の譜の一頁なのでしょう。

 だれもが定められた時と場所を、人は生きて、その走路を走り終えるのです。「此の世」で、どう生きたかを問われるお方がいると、聖書は、厳粛に言います。全てをご存知の神さまが、私の行いや思いを精査される時、「神のみ前で弁護(KJ訳は advocate )してくださる方(1ヨハネ2章1節)」を、私が頂いていて、救われるのを感謝しては、ただ喜びにむせぶことでしょう。

(ウイキペディアによる「富士を望む新宿」、新宿御苑、青年期の頃の新宿風景です)
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