コッペパン

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 ここ栃木県では、「早乙女」を、「そうとめ」と読むのです。県下のさくら市の地名で、苗字にもあるようです。「(喜連川/きつれかわ)早乙女温泉」がるあります。ちなみに、山形県山形市では、「さおとめ」と読むのです。春に田植えをする主力であった女性を、そう呼んでいたようです。

 さて、その苗字の児童文学者の早乙女勝元さんが、その自伝、「その声を力に」で、「コッペパン泥棒」という、小学生の頃の事件を述べています。それを、引用した藤原辰史さんが「給食の歴史(岩波新書)」の中である出来事を取り上げておいでです。

 『ある日、学校でコッペパン泥棒が出た。早乙女少年は、とっさに犯人が同じ貧乏暮らしの金田くんだと思った。金田くんは「自分のパンの半分を、弟や妹たちに持ち帰るのをのを知っていたからだ」。「学校でも給食のパンは、たいそうな貴重品で、登板から机上に配られてくると、先に目分量を確認せざるを得ない」。ゆえに、先生は怒り、「身に覚えのある者は、5分以内に前に出よと声を震わせた」。早乙女少年は「先生、ぼ、ぼくです」と身代わりなったのである。

 授業の終了後、校舎の裏に呼ばれた早乙女少年は、さきほどの理由を聞かれ、説明したのだが、先生は首を振って、「金田がパン泥棒じゃあない。むろん、お前もだ。真犯人は別にいる」と言う。名前も特定していて、「やつのこころをいれかえる」絶好のチャンスを、早乙女少年の身代わりによって失ってしまったのである。あまりにもおとなしく弱いので「勝元」ではなく「負元」とあだなされていた早乙女少年に先生は、「負元とばかり思っていたが、そうでもなさそうだ」と笑った。その勇気を見込まれて級長にさせられた、という。』

 様々なことがある学校の先生の大変さが伝わってくる、盗難事件です。半端なく貧しい級友がいて、一緒に立たされて、急に仲良くなって、ポケットを弄って小銭が出てきたので、カンパ金にして、彼に上げたことが、私にはありました。彼は、戦争孤児だったのでしょうか、本当にボロを身にまとっていて、いつの間にか転校していなくなってしまったのです。

 日本中が貧しかった時代があっての今の豊かさです。その豊かさの陰に、今も貧困があるのも現実です。それにしても、勝元少年の身代わり犯を申し出るの一件には、すごい勇気だと感心してしまいます。どういった顛末で、コッペパン紛失事件が収まったか分かりませんが、「ああ無情」の話も思い出されます。ジャン・ヴァルジャンがその主人公でした。

 『181510月のある日、ディーニュミリエル司教の司教館を、46歳の男が訪れる。男の名はジャン・ヴァルジャン。姉の子ども達のために、1本のパンを盗んだ罪でトゥーロンの徒刑場で19年も服役していた。行く先々で冷遇された彼を、司教は温かく迎え入れる。しかし、その夜、司教が大切にしていた銀食器をヴァルジャンは盗んでしまう。翌朝、彼を捕らえた憲兵に対して司教は「食器は私が与えた」と彼を放免させた上に、残りの2本の銀の燭台も彼に差し出す。人間不信と憎悪の塊であったヴァルジャンの魂は司教の信念に打ち砕かれる。(ウイキペディアから)』

 聖書に次のような箇所があります。

 『30:7 われ二の事をなんぢに求めたり 我が死ざる先にこれをたまへ

30:8 即ち虚假と謊言とを我より離れしめ 我をして貧からしめずまた富しめず 惟なくてならぬ糧をあたへ給へ

30:9 そは我あきて神を知ずといひヱホバは誰なりやといはんことを恐れ また貧くして窃盗をなし我が神の名を汚さんことを恐るればなり(文語訳聖書 箴言3089節)』

 自分の人生から、不真実と偽りの二つがないように、信じている神様を辱めるような生き方をしないように、私も生きようと決心し、そう心に決め、主に祈りながら、今日まで生きてきたでしょうか。正直に、公正に、公義を愛して生きることでしょうか。

 そう言えば、小学生の自分を夢中にさせた、東映のチャンバラ映画に、「早乙女主水之介」という侍が出てきて、額に、三日月の傷を持っていました。とても強かったのです。演じたのが市川右太衛門で、息子さんは北大路欣也で、同じように映画スターになっておられます。勧善懲悪の教えがあったのです。この早乙女勝元さんは、直木賞作家で、東京大空襲の体験から、反戦、平和主義を貫いておいででした。

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 飢えを、少なからず知っている世代としては、コッペパンを盗んで、お腹を一杯にしたかった気持ちが、痛いほど分かります。食べても、またお腹は空いてしまうのですから、心が満たされなくては、いつも盗みに誘惑されてしまうわけです。もう一度、コッペパンに、コロッケを挟んで、ソース味で食べてみたいものです。あの美味しさは、ハンバーガー・サンドに勝る物だったのです。

(ウイキペディアによるコッペパンです)