東京の大森に、「大森貝塚」があり、モースによって発見され、「日本考古学の発祥の地」とされています。モースは、東京大学の教授でしたが、横浜から新橋への汽車の窓から、外を眺めていて、この貝塚を発見し、その発掘に従事しています。1877年6月のことでした。動物学に学者で、進化論者でしたが、三十代のモースのモースの興奮が想像されます。
彼の日本滞在記の「日本その日その日」を、上手なスケッチ入りで残していて、講談社学術文庫として出版販売されていて、今でも購読することができます。明治初年の出来事を、外国人の目でみ滞在記を、ペンで記したもので、実に興味深い一冊です。
この「大森貝塚」は、教科書で、私たちは学んできています。ところが、栃木県の大田原市湯津上地区に、「侍塚古墳(上下二箇所あります)」があるのです。那珂川の西側段丘の上に位置していて、それを、元禄5(1692)年に、あの徳川光圀が、発掘調査させているのです。
今は国指定の史跡となっていて、「大森貝塚」よりも遥か以前に調査が行われていますので、ここが、「日本考古学発祥の地」と言われるのです。
私は、多摩川の西岸に、「七つ塚古墳」があることを、級友に聞いて、跳んでいって、土を木の枝で掘って、土器の破片や鏃を見つけて以来、古代への浪漫に目覚めしまったのです。中学に入ってからは、担任や社会科教師が顧問の高校の考古学発掘班に加えてもらって、日野市の日野小学校の校庭、府中市のJR分倍(ぶばい)河原駅の近くの空地、調布市の国領にあったミシン会社の敷地で、発掘調査の手伝いをしたのです。
興味津々で、スコップや小箒を手に、先輩たちに倣って、土を起こして、貝塚や住居跡を掘り当てたのです。あんなに楽しかったことはありませんでした。あのまま考古学にのめり込んでいたら、きっと研究者にでもなっていたかも知れません。
それで、栃木に住み始めてから、地図を眺めていましたら、隣町の壬生町にも、「古墳」があるのを知ったのです。入院中の家内の病院に行く途中、東部電車宇都宮線の沿線に、古墳らしい一廓を見つけたのです。それで、家内の退院後に、そこに出掛けてみたわけです。
「牛塚古墳」と、「車塚古墳」で、すでに案内板が置かれていて、発掘調査も行われていたのです。壬生町の「歴史民俗資料館」にも行ってみました。「三つ子の魂百までも」で、小学生の頃の興奮が、蘇ってしまい、「古代への浪漫」、自分の祖先たちが、どんな風に生きていたのかへの興味が、いまだに尽きないのです。
これからの課題は、「上侍塚古墳」に行ってみることです。車の運転をしなくなった自分には、交通の便が悪いので、自転車を輪行袋に入れて、電車で行ってみようと考えているところです。暖かな日が待ちどうしい浪漫ジイジです。
(ウイキペディアによる2021年発掘調査時の上侍塚古墳です)
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