ふじのりんごと相撲と柳川鍋と

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 わが家の食卓に上る食べ物で、欠かさずに置かれる物、食後の desert に欠くことがないのが、「りんご」なのです四つ葉生協と言う生活協同組合の紹介を受けて、その組合員になって、ほぼ5年になるでしょうか。より良い食材を取り扱っていて、米、醤油、味噌、酢、魚、肉、野菜、果物などを買っていて、このりんごも、その一つです。

 ネオニコチノイド系農薬の不使用の農家が栽培している物で、我が家が購入しているのは、正規品ではなく、擦り傷や汚れのついたりんごで、先週の便で届いたのは「ふじ」でした。味は抜群で、蜜のある物が時々あります。

 この「ふじ」は、青森県南津軽郡藤崎町で、誕生した品種で、その町名から、「ふじ」と命名されています。りんご栽培は、この藤崎の隣町の「弘前」で、青森市のホームページに、次のようにあります。

 『りんごの原産地は、中央アジアの「コーカサス山脈」と中国の「天山山脈」を中心とした山岳地帯と考えられていて、ここから世界各国に伝わっていきました。原産地が山岳地帯ということで、もともと寒い地域に育つ植物です。
私たちが食べている西洋りんごは、明治4年(1871)に日本に伝わってきました。
青森県へは明治8年(1875)の春、国から3本の苗木が配布され、県庁の敷地の中に植えられたのが青森りんごの始まりです。以来、今年で130年余の歴史になります。
その後、同じ年の秋と次の年の春に数百本の苗木が国から配布され、各農家で栽培が始まりました。
平成30年産を例にとると、全国のりんご生産量は756,100トンで青森県はそのうち445,500トンで、全国の半分以上(58.9パーセント)が青森県のりんごなのです。』

 弘前市の私立東奥義塾が招いた米国人宣教師ジョン・イング師が、翌年の12月25日のキリスト降誕節に、当時の教え子や信者さんたちに、りんごを分け与えたことが、西洋りんごが、青森県に紹介された最初と言われています。

 当時の東奥義塾塾長で、弘前市長や山形県知事を歴任した菊池九郎は、そのイング宣教師から洗礼を受けています。その食べたりんごの種を、自宅の庭に植えて、後年、別の台木(だいぎ)に 穂木(ほぎ)を接木(つぎき)したのが、青森県弘前市のりんごの発祥と言われているそうです。

 1962年に、品種交配などを繰り返した結果、1962年に、製品化された「ふじ」が出荷されています。私が、義兄のいたブラジルを訪ねた時に、義兄の移民仲間の方が、このふじの栽培、貯蔵に成功し、その一箱を、滞在先にいた私のために届けてくださったのです。日本で食べた物と同じような美味しい味だったのです。華南の街の果物屋でも、「ふじ」は売られていて、美味しかったのです。

 さて、ふじ発祥の地の「藤崎町」は、「相撲の神様」と呼ばれた、力士の「大ノ里萬助(18921938年)」の生まれた町でした。。出羽海部屋所属で大関を、七年間も張った相撲取りでした。164cm97kgの小兵でしたが、相撲巧者で、とても誠実な性格だったそうです。稽古も熱心にし、後輩指導は厳しかったのですが、弟弟子たちからは、人望があつかったのだようです。

 私たちの世代は、プロレス、プロ野球、相撲に夢中で、学校の校庭でも、家の近所の空き地でも、素手をバットに、ボールをゴムマリに、野球ゲームに励み、また、その相撲も取ったのです。私たちの通っていた学校の校庭に土俵が作られ、そこで相撲巡業が行われて、兄たちの後をついて見学したことがありました。そこで巡業していたのが、二所ノ関一門で、玉の海、琴ヶ濱などの現役力士がいたのです。
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 兄たちの贔屓が、琴ヶ濱(最高位は大関)で、この力士の得意技が、《内掛け(足で、相手の足を絡めて押し倒す技)》で、これを兄たちは得意技にしていたのです。それを自分も真似て、相撲を散って、内掛けをすると、面白いように相手が倒れて行ったので、自分の得意技になったのです。大男を薙ぎ倒したこともありました。

 大相撲、テレビがない時代、ラジオのアナウンサーの取口の実況を聞いて、土俵上の取り組を思い描くのでした。そんな相撲好きの子ども時代でしたが、テレビを置かなかった頃から、疎遠になってしまいました。でも、一度くらいは、両国の国技館に行ってみたいものです。帰りに、浅草の駒形で、柳川鍋(どじょうなべ)を食べて、父を思い出してみたいな、の極寒の朝です。

(ウイキペディアによるりんごの花、柳川鍋です)

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