かっぽう着を脱ぎ捨てて

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 ゾロゾロと母の跡をついて、二人の兄と弟と自分が、家を出て、電車に乗って大きな駅で降ります。母が東京に出て住む街にある教会を、以前の教会で紹介されて、日曜学校に出るために、引っ越し先の街の家から連れ出された、首相暗殺事件後、にわかに注目されている〈宗教二世〉、〈信仰二世〉たちなのです。母と私たち兄弟たち4人の一時期の動きを切り出してみますと、そんな母と子たちの二世代の姿なのです。

 自分が子どもの日に、神が父であり、その子のイエスさまが、神であられるのに人の子の姿をとって、ベツレヘムで、母マリヤから生まれ、33年半ほどの生涯を、十字架の死で終えたこと。父なる神は、御子を死と墓に捨て置くことができずに、蘇えらせてくださり、弟子たちの見守る中を、天に携え挙げられて、御父の右に座されたこと。そこで執り成しの祈りをしてくださり、助け主聖霊をお送りくださり、場所を設け、場所が設けられたら迎えにきてくださる。そのようなイエスさまを、自分の産んだ子たちに、母は知って欲しかったのでしょう。

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 まるでカルガモの親子のような母子集団を、今でも思い描くことができます。そんな母と兄弟たちだったのですが、上の兄と自分が伝道者になり、弟がミッションスクールの教師になり、次兄はホテルマンになり、それぞれの時に、母が導かれた教会で、バプテスマを受けたのですから、その教会学校行きの経験は、〈信仰二世〉の私たち4人は、躓くこともなく、躓かせることなく、証詞になっていると言っても良いのではないでしょうか。

 昭和初期の山陰の地で、宣教をしたカナダ人宣教師の教会の教会学校で、母は、父なる神と出会い、イエスさまを14歳でキリストと信じ、95歳で召されるまで、信仰生活、教会生活をして、天に帰って行きました。家族のために、近所の隣人のために、自分の教会の牧者や宣教師の家族にために祈る人でした。日曜礼拝を守り、献金も証詞も賛美もし、聖書を読んだ人でした。

 寂しかった子ども時代と打って変わった、5人の男の家族の中で、幸せな人生を送っていたのではないでしょうか。大怪我、大病を患いながらも、祈られ、主に癒されて生き抜いたのです。街の婦人たちの踊り庭の中に入って、楽しそうに踊っていた、浴衣姿の母の姿が思い浮かんで参ります。

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 時には、みんなを送り出した後、かっぽう着を脱ぎ捨て、ちょっとおめかしをして、電車に乗って、束の間の「新宿行き」をして、「ドキドキ」を味わったのだそうです。母にもあった、たまの「お出掛け」でした。雑踏の街を漫(そぞ)ろ歩き、window shopping をし、きっと、母のことですから、軽いお昼をして、デパ地下でおかずを買って、また電車に乗って帰宅したのでしょう。大都会の空気を吸って、一息抜いて英気を養い、そして家族のために、「日常」に戻ったのでしょう。大人になってから、母が語ってくれた、〈新宿行き〉の秘密な過去でした。

 主の名は、「慰め主」、「激励の主」で、母を支え続けた主がいて。九十五年の生涯を生きたのです。出雲弁で、母に言いたいのは、『だんだん(ありがとう)!』で、父と四人の息子たちを信仰の道に導き、裏表のほとんどない生を生き、今、主の安息の中にいて、やがて、いえ間も無く、相見(あいまみ)えることができると信じているのです。主の慰めと激励が、母には溢れていたのでしょう。母への〈信仰二世〉の私の《だんだん》であります。

 この《信仰二世》たちは、もはや兄二人は八十代、弟と私は間もなくで、母親の信仰を継承して、今を生きています。運動部で、走り、投げ、打ち、投げ、追い、叩き、滑り、蹴上がりで活躍して、今は、あちらこちらが痛かったりの世代になりました。でも、いのちの付与者が、二親に委ねられた命、継承した信仰は、脈々とし、子や孫たちに受け継がれているのです。ただに、主の憐憫なのであります。そそくさと新宿をゆく母の靴音が聞こえて来そうです。

(出雲の空と陸と海、新宿の伊勢丹の外観です)

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