華南の街で十数年過ごしたのですが、亜熱帯気候の冬場は、雪も氷もないのですが、寒かったのです。黄河以北は、石炭を燃やして作った「温水」が、街中に送水管で送り届けられていて、暖房が完備していました。一冬過ごした天津では、室内ではTシャツでも大丈夫でした。ところが南の中国は、各自が暖房を考えていたのです。
それで、冬場、家の中で、外で着ていた暖房着を脱がずに、みなさんが生活されていたのです。それには慣れなかった私たちは、超市 chaoshi で、電気暖房機を買ったのです。灯油ストーブは売っていませんでしたし、エアコンも、ほとんどが冷房機能だけでした。それだから、なおのこと「春節 chunjie 」の到来が、中国のみなさんに喜び迎えられていたのです。
北関東の街に住み始めて、中部山岳の街で使い続けていた、oil heater を息子の家に預けていた物が、里帰りして来て、エアコンの他に、暖かな部屋作りができそうです。まだ、寒くはないのですが、間も無く使い始めるのでしょうか。
この11月7日は、「冬至」でした。日中は20℃以上の日が続いていますが、暦の上では「冬」がやって来たわけです。
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けさの冬 よき毛衣を 得たりけり
江戸中期の俳人の与謝蕪村は、立冬の朝に、この俳句を詠んでいます。炬燵(こたつ)や火鉢や囲炉裏が、暖房器具の時代、江戸の冬って寒かったことでしょう。子どもの頃に、やっと石油ストーブが普及し始めてきて、『暖かいなー!』と思ったものでした。冬の毎朝、母が炭で火を起こしてくれて、それを炬燵に中に入れてくれ、そこに潜り込んだ記憶がありますが、みんな寒さにも暑さにも強かったのかも知れません。
蕪村が手に入れた「毛衣(けごろも)」とはどんな物だったのでしょうか。貧しい人たちは、冬はどうされていたのでしょうか。子どもの頃、母は、真綿製の「綿入れ寝巻き」、「ちゃんちゃんこ」を作ってくれました。当時、「真綿」だって、普通の綿に比べたら高価だったのでしょう。
もう冬支度をしたのですが、今持っている冬用の外套も、この十数年、子どもたちが家内と私に買ってくれて、それを着ているのです。下の息子は、毎年着ていて古くなった、私の冬服を見て、自分が着ているのを、サッと脱いで、『これ着てね!』と言っては、寒そうに自分の家に帰って行くことが何回かありました。春先に、箪笥の中を整理したすぐ上の兄に、「毛皮のジャンバー」をもらったのです。まさに「皮衣」なのです。
ポンポンのついた毛の帽子も、息子がくれましたので、〈冬支度〉は整っているのです。家内も、やっと冬物を出して、日陰干しをしていまして、『宇都宮に出かける時に、これ着て行こうかな!』と目を輝かしています。お洒落を考えられるようになったのは、素晴らしいことなのです。なんだか、冬の到来が待ちどうしくも楽しみの今です。
(天津で住んでいたアパートの七階から見たい温水を送る施設の煙突です)
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