冬支度

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 華南の街で十数年過ごしたのですが、亜熱帯気候の冬場は、雪も氷もないのですが、寒かったのです。黄河以北は、石炭を燃やして作った「温水」が、街中に送水管で送り届けられていて、暖房が完備していました。一冬過ごした天津では、室内ではTシャツでも大丈夫でした。ところが南の中国は、各自が暖房を考えていたのです。

 それで、冬場、家の中で、外で着ていた暖房着を脱がずに、みなさんが生活されていたのです。それには慣れなかった私たちは、超市 chaoshi で、電気暖房機を買ったのです。灯油ストーブは売っていませんでしたし、エアコンも、ほとんどが冷房機能だけでした。それだから、なおのこと「春節 chunjie 」の到来が、中国のみなさんに喜び迎えられていたのです。

 北関東の街に住み始めて、中部山岳の街で使い続けていた、oil heater を息子の家に預けていた物が、里帰りして来て、エアコンの他に、暖かな部屋作りができそうです。まだ、寒くはないのですが、間も無く使い始めるのでしょうか。

 この11月7日は、「冬至」でした。日中は20以上の日が続いていますが、暦の上では「冬」がやって来たわけです。

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 けさの冬 よき毛衣を 得たりけり

 江戸中期の俳人の与謝蕪村は、立冬の朝に、この俳句を詠んでいます。炬燵(こたつ)や火鉢や囲炉裏が、暖房器具の時代、江戸の冬って寒かったことでしょう。子どもの頃に、やっと石油ストーブが普及し始めてきて、『暖かいなー!』と思ったものでした。冬の毎朝、母が炭で火を起こしてくれて、それを炬燵に中に入れてくれ、そこに潜り込んだ記憶がありますが、みんな寒さにも暑さにも強かったのかも知れません。

 蕪村が手に入れた「毛衣(けごろも)」とはどんな物だったのでしょうか。貧しい人たちは、冬はどうされていたのでしょうか。子どもの頃、母は、真綿製の「綿入れ寝巻き」、「ちゃんちゃんこ」を作ってくれました。当時、「真綿」だって、普通の綿に比べたら高価だったのでしょう。

 もう冬支度をしたのですが、今持っている冬用の外套も、この十数年、子どもたちが家内と私に買ってくれて、それを着ているのです。下の息子は、毎年着ていて古くなった、私の冬服を見て、自分が着ているのを、サッと脱いで、『これ着てね!』と言っては、寒そうに自分の家に帰って行くことが何回かありました。春先に、箪笥の中を整理したすぐ上の兄に、「毛皮のジャンバー」をもらったのです。まさに「皮衣」なのです。

 ポンポンのついた毛の帽子も、息子がくれましたので、〈冬支度〉は整っているのです。家内も、やっと冬物を出して、日陰干しをしていまして、『宇都宮に出かける時に、これ着て行こうかな!』と目を輝かしています。お洒落を考えられるようになったのは、素晴らしいことなのです。なんだか、冬の到来が待ちどうしくも楽しみの今です。

(天津で住んでいたアパートの七階から見たい温水を送る施設の煙突です)

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秋と学校と給食

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♭ 秋の夕日に照る山もみじ
濃いも薄いも数ある中に
松をいろどる楓(かえで)や蔦(つた)は
山のふもとの裾模樣(すそもよう)

溪(たに)の流に散り浮くもみじ
波にゆられて はなれて寄って
赤や黄色の色さまざまに
水の上にも織る錦(にしき)♯

 もう一度、学校に通えるなら、小学校に行ってみたいな、と思っています。教室の後ろや廊下、ついには校長室まで立たされたわりには、〈苦味〉など全くないからでしょうか。担任は歓迎してくれなくとも、学校に行けるのは嬉しかったのです。肺炎をぶり返さないように、母は細心の注意を払って育ててくれましたから、熱や咳が出ると、死なせまいと、すぐに国立病院に連れて行ってくれました。病欠児童の私は、学校に行けると嬉しくてはしゃいでは叱られたのです。

 6年になっても、私の通った小学校には、「給食」はありませんでした。次の年度から始まったようです。その給食を食べたのは、卒業した小学校の庭に、住居跡の遺跡があるとのことで、私の入った中学校と高等部の考古学研究部が、その発掘をした時に、誘われて参加して、その間、給食を食べさせていただいたのです。きっと校長先生のいきな裁量で、そんな機会が与えられたのでしょう。

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 とても美味しかったのです。ですから、当番が配膳してくれて、みんなで、『いただきまーす!』と言って食べた経験はないので、その給食を食べに、もう一度小学校に行ってみたいのです。私たちの四人の子どもたちは、授業計画表は見ずとも、給食表だけは見て、登校していきました。よく歓声を上げていたのは、〈きな粉パン〉でした。親ながらも、それが羨ましかったのを覚えています。

 そして、今度は、しっかり椅子に座って、立ち歩きをしたり、隣の女の子にちょっかいを出さないようにするつもりです。そんな私を、担任が見たら、ビックリギョウテンしてしまうことでしょう。あの小使いのオジさんの打ち鳴らす鐘の音が聞こえてきそうです。秋には、「紅葉(もみじ)」を歌ったのを思い出します。これからの季節、冬には、石炭ストーブが真っ赤に燃えていたのです。溢れる想いが湧き上がって来てしまいます。秋って想い出がいっぱいです。

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群馬県

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 私たちの家族が、東京に出て来て、二度目に住み始めた家の向かい側が丘陵になっていました。そこは一面桑畑だったのです。生まれ故郷の渓谷の中には田んぼがありましたが、桑畑などなかったので、珍しがって、小刀で桑の木を切って、皮を向いて、チャンバラの刀にしていました。

 そんな遊びのための桑の木ではなく、後に、蚕(かいこ)の餌となる葉っぱを育ててる木だったのを知ったのです。ですから、学んだ小学校から、そう遠くない所に、「桑園(そうえん)」と呼ばれた地域があって、そこに、旧農林省の「蚕糸試験場」があり、「蚕室」がありました。まだ養蚕業が盛んだった頃のことです。

 友だちに、『さなぎ(蛹)を拾いに行こう!』と誘われて、規格外で使われない虫が、窓の外に捨てられていたのです。モゾモゾと動くのを、気持ち悪かったのですが、素手で拾ったのです。家に持ち帰って、紙の箱に入れて、丘の上に行って桑の葉を摘んで、さなぎに与えると、パチパチと音を立てて、食べていました。中には繭(まゆ)になったのもあったのです。その飼育の面白さを経験させてもらいました

 日本の近代化のために、この「養蚕」、これによって産出する「絹糸」が、ヨーロッパ諸国に輸出され、外貨を稼ぎ、それを資金に工業国化が進み、もう一面では軍国主義化していく基幹産業となりました。そのために、群馬県に誕生した「富岡製糸場」は、現在では世界遺産にも登録されるほどの役割を担ってきたのです。
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 今夏、「水上」に出かけましたが、その県南にあって、長野県寄りにある「富岡市」が、日本近代化の金字塔とも言える製糸業の牽引工場のあった街なのです。「あゝ野麦峠」で、信州岡谷の製糸工場で働く女工さんたちが、岐阜などから、峠を超えてやって来た話は読んだことがありましたが、政府主導の製糸業の牽引は、まず群馬県だったのです。

 ここは、律令制がしかれてから、「上毛野国(かみつけぬのくに)」、「上野国(こうずけのくに)」、「上州」と呼ばれて来ました。『その徳性を涵養し、その品行を高尚ならしめ、その精神を正大ならしめんことを勉め(る)』と言った新島襄ゆかりの県です。青年期に、その伝記を読んで啓発された新島襄は、上州安中藩士の子で、江戸は神田で生まれています。京都に「同志社」を起こして、青年教育にあたった人でした。高二の頃、「同志社大学」に一緒に行こうとして、友だちと決めたのですが、二人とも行かなかったのです。〈上毛カルタ〉の「へ」に『平和の使徒(つかい) 新島襄』とあります。

 もう一人は、『もし全世界を手中に収めようともそのために自分の魂を失ってしまえば一体何の意味があろう。人生の目的は金銭を得ることではない。品性を完成することである。』と言い残した、内村鑑三で、この方は、高崎藩士の子、江戸の小石川の武家長屋で生まれています。この方の薫陶を受けた人は、数多くおいでです。上州は、『雷とからっ風、義理人情!』とか、〈かかあ天下〉でも有名ですが、貧しい山岳部の農家の次男、三男の耕す土地がなく、博徒になる人も多かったそうです、でも立派な人物を輩出している県なのでありかます。〈上毛カルタ〉の〈こ〉に『心の灯台 内村鑑三』とあります。

 この群馬県は、わが栃木県に似て、広大な関東平野の背後には山岳が聳えていて、登山家にとって有名な谷川岳(三国山)、あの ski boom の時期には、首都圏に近いということで〈ski Mecca〉でもありました。溢れるほどの人だった上毛高原駅は、今夏利用した時に、広すぎた駅で閑散としていたので、ときの移ろいを覚えたのです。

 人口200万弱で、栃木県の宇都宮とは、JR両毛線で高崎と結ばれています。また、この高崎は、旧国有鉄道で、八王子まで八高線、そこから横浜線で横浜につながっていて、生糸の輸送が行われていたのです。人の移動だけではなく、産品輸送のための鉄道は、日本中に広がって行ったわけです。

 東京に住み始めた小学生の頃、話しことばの最後に、「べえ」がついてて、それが面白くて口真似をしていました。この言葉は、神奈川県の一部、群馬県、栃木県でも使われています。知人の家具店の元店長さんが、栃木弁の方で、「べえ」を話しておられて、つられて使いそうになってしまいました。方言の連鎖というのは、人の交流があったということでしょうか。

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 農業県であることは、一大消費地の東京圏の台所を賄ってきたことは間違いないのですが、京浜の工業地帯の工場疎開で、たくさんの企業が工場を開拓して生産に励んでいますから、工業県でもあります。創業者の出身県であったりすると、工場が誘致されることが多くて、東京近県には、そういった大企業が進出する経緯があるようです。

 昨春、足尾銅山に行ったのですが、日光経由か、群馬県の桐生経由かで行くことができますが、その日は、両毛線で桐生で、「わたらせ渓谷鉄道」に乗り換えて、足尾に行き、そこからバスで、東武日光駅に出て一周しました。新緑が綺麗でした、今頃は紅葉が美しいことでしょう。

 家内の祖先は、上州から信濃にかけた武族だそうで、その家屋敷の前には、「下馬」という札が掛けられていたのだとか。有力な家系だったそうです。わが祖先は、馬から降りて通り過ぎなければならなかった立場だったのでしょう。でも馬に乗らない時代になって、家内の前で、そうしないで済むので、ホッとしている私です。

 (養蚕農家、両毛線の古写真、県花のレンゲツツジ〈写真AC〉です)

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遠足

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 東京都内に、「愛宕山(あたごやま)」があります。標高25.m、都内(23区内)《最高峰の山》なのです。1925年7月に、ラジオ放送を開始するための放送塔が、この頂上に作られ、私たちの国のラジオ放送の原点、記念碑とも言われています。

 近くまで行ったことがありましたが、登山はまだしておりません。都内には山があっても、その程度の標高なので、昔、都内の小学校の「遠足(山登りや校外学習)」は、どこに決めていたかと言いますと、ある学校は、栃木市(かつては都賀郡大平町)の「太平山(おおひらさん/標高341m))」だったそうです。

 小学生が、浅草駅から東武線に乗って、1931年3月に開業した「新大平下駅」で下車して、登山をしたのだそうです(両毛線の大平下駅は、もっと早く開業しています)。都内から近い山といえば、中央線の高尾山か、この太平山だったのでしょう。戦後、東京の西部にある小学校の遠足の定番、《太平山登山》だったのでしょうか。

 今日も、散歩で太平山に行ったのですが、車の通う道路のコースで登ったのですが、帰りは、石段があって、それを踏んで下りました。すると途中、『こんにちはー!』と元気良く、小学生の一段が上がってきたので、『遠足?』と聞きましたら、『いえ。自然観察と研究でーす!』と答えてくれました。

 日本の小学生は、横断歩道を渡る時も、手を挙げて、『ありがとうございます!』と感謝するので、中国の人にも有名で、ハキハキして元気で、礼儀正しいし、年長者への敬いもあって、素晴らしいなと思いながら、『ガンバってね!』と言って行き違いました。

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 真っ青な秋空の下、福青夜風は冷たかったのですが、山なのでマスクを外し、手ぬぐいをねじり鉢巻で頭に縛り、枝を杖にして、登って来ました。『秋はいいな涼しくて、おこめは取れるし、柿も甘いし・・・』と歌いながらの小遠足でした。家内が作ってくれたお昼ご飯が、殊の外、美味しく頂けました。

 歩いて行ける山は、山の中に住んでいたような生まれ故郷を除いて、初めての街に住めて満ち足りています。奥深い関東平野を、電車の乗って帰って来て、この山が見られるようになると、なんとも言えない、落ち着きを感じてしまいます。木々に囲まれ、枯葉を踏むと。生まれた村に回帰している感じがするのです。

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余暇

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 『なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言6911節)』

 怠け者になったのではないのですが、社会的責任から解かれて、時間が溢れるほどあって、もう残り時間は、そんなにないのだと思っています。でも子育て中の忙しさが嘘のように思い出されたり、忙しく働いた日々の出来事に追い迫られている夢を見る時があります。

 今の時間を、〈持て余し時間〉とするか、〈ご褒美〉にするか、〈余暇〉にするかでだいぶ違います。もう何年も前に報告された記事を思い出しています。「余暇と死亡率」の調査です。その調査は、アメリカのもので、あ50〜75歳へのものでした。男性53,440人と女性69,776人、合計12万3216人を対象に行なわれました。14年間にわたる追跡調査結果で、男性11,307人、女性7,923人が死亡しました。

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 『男女共余暇時に座っている時間が1日3時間未満と、6時間以上について調査され、3時間未満の場合と比較されました。6時間以上座っていると、男性の場合1・17倍総死亡率が高く、女性の場合1・34倍総死亡率が高かったそうです。次に座っている時間が6時間以上で、運動時間が週24.5MET、週7時間未満ですと、男性は1.48倍総死亡率が高く、女性は1.94倍総死亡率が高かったそうです。心臓血管病死の場合に、最も関連性が強かったとあります。論文全体が見られたわけではありませんが、座っている時間の長さは、運動時間の長さの如何を問わず、総死亡率と関連があったそうです。結論としては余暇時に活発に運動をし、出来る限り座って過ごす時間を少なくするのがベストで、肥満解消になるという事でしょうか。(「朝日新聞記事)』

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 今散歩途中で、私の万歩計派の歩数は、〈6483歩〉です。昨日も家内が、『ずいぶん痩せてスッキリしてきたのね!』と言っていました。朝食を準備し、食べ終わって、後片付けをし、洗濯機を回し、掃除機をかけたり、モップをしたり、時には水モップしたり、洗濯が終わるとベランダに干すのです。それから、ただの散歩、買い物ついでの散歩、これが pattern です。

 〈余暇〉の過ごし方ですが、下野国の国庁跡や、国分寺跡、古代の豪族の墳墓、集落後などにも出かけたりしますが、行ってみたいのは、網走の「モヨロ貝塚」、「吉野ヶ里(佐賀県)」、「三内丸山遺跡(青森県)」、「稲荷山古墳(埼玉県行田市)」など、古代の浪漫や夢を追いかけてみたいのです。これって、〈三つ子の魂〉なのでしょうか。小学生の頃の強烈な探究心が、今も残っているのも不思議です。TULLY’Sでのブログ作成です。

(時を刻み続ける「北大の時計台」です)

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セラ

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 『それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。 (詩篇275節)』

 『あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。 3120節)』

 『あなたは私の隠れ場、あなたはから苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を囲まれます。セラ(詩篇3120節)』

 隠れ家、秘密基地、逃れ場(英語ですとmy sheltermy refuge and my portion in the land of the living hiding place などでしょうか)、言いたいのは、《ホッと一息つける空間》のことです。聖書の中に「セラ」と言うことばが、とくに詩篇の中にありますが、「小休止」の意味だと教わりました。すぐ上の兄が、押入れの中に、その秘密基地(?)を作っていて、自分も真似して、別の部屋の押し入れを開拓したことがありました。

 近所の遊び仲間と、林の中の木の間に、葉っぱや草や枝で基地を作ったり、空き地に穴を掘ったりして、自分たち専用の空間も、よく作りました。まさに秘密基地でした。きっと、雪国の「かまくら」も、そんな空間だったのでしょうか。空き家にも入って、そんな遊びをしたこともありました。

 日常から離れて、ボーッとしたい時や場所を、どなたも持ちたいのではないでしょうか。家内は、「蔵リハ」と呼ぶ介護施設に、1週間に1日、2時間の時を、七人、八人の同世代のご婦人との交わりに通って、帰って来ては、『ああ、楽しかった!』と、毎回言っています。


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 一昨日は、スダチを手にして家内が帰ってきました。ちょうど夕食の献立が、〈メカジキの餡かけ〉でしたので、半分に切って、それに添えてみました。格段に美味だったのです。group 内での物のやり取りは禁止なのだそうですが、『庭にできたので!』と言って頂いたそうです。

 彼女のもう一つの出掛け先は、「市立図書館」なのです。最近は杖も使わないで大丈夫になって、出掛け先の路上で、推しぐるまの老婦人に、『どうして杖や押し車で歩かないの!転倒したら大怪我をするので、気をつけて!』と言われたそうです。散歩で出会う、散歩仲間からです。

 私のは、ちょっとお金がかかるのですが、この写真の空間を持っている喫茶店がお気に入りで、たった一人の世界ではないのですが、二人掛けの簡易 sofa  に、深く座って、その日その日の coffee  を飲むのを、月にニ、三度ほどしているのです。あの空間とあのひと時は、今の《わたし固有の空間》、《秘密基地》、《隠れ場》なのでしょうか。

 家に居づらいことなどないのですが、気分転換には、とてもいいのです。日常から、そっと離れて、散歩途中に、その時間を設け始めて3ヶ月ほどになるでしょうか。《一杯三百円珈琲》は、心の潤滑油になっているかも知れません。《本日のコーヒー》が美味しいのです。

 コロナ禍のお陰で〈黙浴〉を促されている、入浴温泉が市内にあって、ここにも時々出かけています。誰とも話すことなく、雲や木々の葉っぱや湯の動きを眺めながら、子どもたちや兄弟たちや友人たちを思いながら、また過去を振り替えながら過ごすひと時も、かけがえのないものになっています。

 〈子ども帰り〉なのかも知れませんが、課せられた仕事を終えた今、と言っても、でも継続していて小休止か、見えない勤務についているのかも知れませんが、これまでのthrilling な経験も、出張も、訪問なども少なくなって、けっこう狭い世界の中にいるのでしょう。それでも年齢なり、社会的な立場から、けっこう変化を持たせて生きているのでしょう。とても感謝なことです。

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rule

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 散歩する時に、道路を横断しなければならない箇所があります。『幼稚園生や小学生の模範でないければ行けない!』、そんな〈おじいちゃん〉は、横断歩道を渡ります。でも信号機や横断歩道のない箇所を渡らなければならない場合もありますが、そこは気をつけて渡っています。

 最近、三台に一台ほど、信号機のない横断歩道で、止まってくれる車があります。こちらに住み始めた頃は〈3.9%〉で、ほとんど泊まる車はなかったのですが、日本最下位を記録してから、県下の運転マナーは改善されてきているのが、次の統計の図表から分ります。

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 華南の街では、歩道を車が我が物顔で走りますが、ゆっくり走るので、事故になることは滅多にありませんでした。支通路から急発進したり、急加速をしないのです。ゆっくり相手を見ながら、ほぼ無視して運転する技術は抜群です。だから、乗用車での事故は少なかったのです。ただ、電動自動車事故はたびたび見かけました。全く傍若無人、唯我独尊、一人天下で走っているからです。

 次女の子どもたちが、まだ小さかった頃に、友人たちと道路を渡る時に、右手を上げて渡ってるのを写真に撮って送ってくれたことがあります。アメリカの社会では、通常はそんなことをしないのですが。私は、華南の街で、右手を上げて道路を渡ることにしていたのです。『あれは日本人だ!』と、きっと認めたことでしょう。

 それは、rule なのですから、停車は当然ですが、渡る時に、私は会釈をして感謝を表すのです。左折右折する車も、早く曲がりたいばかりに、目の前を横切っていく車が時々あります。何を私がするかと言いますと、その車の number plate に、人差し指で指して、どこの県、街の車かを確認するのです。back mirror で、でその私の仕草を見たら、なんと思うでしょうか、嫌味になりでしょうか。

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茨城県

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 今年の4月4日は、家内と私の《銀婚》の記念日でした。1971年4月に、結婚をしたのです。普通は、花嫁の夢をかなえる新婚旅行に出かけるのですが、私は、その願いを叶えて上げませんでした。どこに行ったのかと言いますと、茨城県下の「霞ケ浦」だったのです。

 どうして「霞ケ浦」だったのかと言いますと、かつて、そこは海軍予科練の飛行学校があって、国を守ろうとした若者たちが、機影を湖に映しながら、飛行訓練に明け暮れた地だったのです。少年の日に、予科練に憧れ、潔く国を守るために殉じていった彼らが汗と涙を流した地に、私は行ってみたかったのです。

 今思うと、それって独身時代に済ませておくべき事なのに、女性にとっては記念に残したい人生最高の event の旅行の願いを叶えてあげられなかったことを悔やんでも後の祭りです。でも、家内は黙ってついてきてくれたのです。そして、教師を辞めた私の歩みに、ずっとついて来てくれ、海まで渡って、華南の地で13年も過ごしたのです。

 そうなんです、私にとっての茨城県は、新婚旅行の地であっても、「軍国少年」の思いを葬る旅であったのです。土浦から船で潮来に行きました。戦前戦時中に、海軍航空隊があって、若者たちが飛行訓練をした出来事など全く予想もできないほどに静かな佇まいでした。その街には、今は自衛隊が駐屯し、予科連の記念館があります。

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Lake Kasumigaura sailboats

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 今は栃木県民になった私たちですので、小山からJR水戸線に乗ると、県都の「水戸」に、2時間半ほどで行くことができます。かつては「常陸国(ひたちのくに)」、「常州(じょうしゅう)」と呼ばれ、律令制のもとでは、「東海道」」の北端で、北は「陸奥(むつ)」でした。

 上野からJRの「常磐線」が、茨城に延びています。次兄が、この常磐線の沿線にいたことがあって、学校に行っていた頃に、何度も乗ったことがありました。知人に水戸の出身の方がいて、名物の梅を和菓子にしたお土産を、よくいただきました。平地が多く、農業のための環境が整っていて、昔から全国上位の農産品の生産県です。東京の台所を預かる東京中央卸売市場の農産品の入荷は全国一だそうです。

 茨城県は、高級和服の生地の絹織物の「結城紬(つむぎ)」が有名です。奈良時代に始まり、私たちの栃木県でも作られているようです。私の弟の教え子が、観光ホテルの女将で、東日本大震災の後に、被害状況を知りたくて、茨城県の海岸に出かけた時に、泊めていただき、近くの岡倉天心の「六角堂」も津波にさらわれていて、それが再建されているのも見ました。「五浦」を、「いずら」と読むそうですが、難読地名でした。

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1 Kings 17:2-6

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 ここ栃木の街はカラスが多いのです。それで、よく歌うのが、「七つの子」です。これは、作詞が、野口雨情、作曲が本居長世で、作詞者の野口雨情は、この茨城県の出身なのです。

からす なぜなくの
からすは やまに
かわいい ななつの
こがあるからよ

かわい かわいと
からすはなくの
かわい かわいと
なくんだよ

やまの ふるすへ
いってみてごらん
まるいめをした
いいこだよ

かわい かわいと
からすはなくの
かわい かわいと
なくんだよ

やまの ふるすへ
いってみてごらん
まるいめをした
いいこだよ

そんなことを思い出しています。海を見たくなることが時々ありますが、湘南に行くのは便利ですが、心情的には、お隣の茨城の海なので、来年あたりは出かけられるでしょうか。好きな味噌汁の実が、シジミなのですが、栃木県の那須を水源にする那珂川の最下流にある「涸沼湖(ひぬまこ)」は名産地で、ここにも《シジミ党》としては、いつか行かなくてはなりません。

(「霞ケ浦」の風景です)
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秋風景 at 北米

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 次女の住む北アメリカにも秋がやってきたそうで、写真が送られてきました。秋に誘われ、旅に招かれているように感じます。ここ栃木も、『奥日光は紅葉が綺麗!』だと報じられています。私が好きなのは、木の葉が落ちた峠の道をカサコソカサコソと、葉を踏んだり蹴散らせてゆっくり歩くことです。梢の葉が落ちて見晴らしもよくなって、山が深く見渡せるのです。

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信仰の道

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 子どもの世界で、わがままだったり、不公平だったり、ずるいと、嫌われてしまいます。戦争前の私たちの国では、「アカ」とか「ヤソ」と揶揄されて嫌われた組織や集団や人がいました。

 私の母は、日本でも最も宗教都市と言われた街で育ったのです。そこで、カナダ人宣教師の伝道の中で、少女期にキリスト信仰に導かれました。その熱心さを知った親戚から、『ヤソは先祖を敬わないから、教会行きをやめろ!』と言われて反対されたのです。それが昂じて、『台湾にでも売ってしまえ!』と言うことで、実の親ではない養父母も、それに同意して、危うく売られそうになります。でも警察に保護され、その難をのがれたそうです。

 「国体」に沿わないと決め込んだ官憲は、共産主義者と基督教徒を迫害したのです。キリスト教会への迫害も酷かったのです。まだ私が若い頃に、静岡草深教会の辻宣道牧師の著された本を読んで、その実態を知らされたことがありました。この方のお父さまは、聖潔運動(ホーリネス)の中で、青森県弘前市で牧師をされておいででした。お母さまは、ホーリネス運動をなさった中田重治のお嬢さまだったのです。ご両親とも、弘前バンドの伝道の中で基督者となっておいでです。

 キリストと国家元首の二者は併立することが叶わず、王として再臨するキリストを信ずる者たちを国賊として、厳しく棄教や転向を迫ったのです。それに屈することなく信仰を堅持しようとした者たちは、監獄に送られ、行動の自由を制限されました。

 戦時下、再臨信仰に立つホーリネス教会は、殊更に官憲の監視のもとにあり、お父さまは、弘前刑務所に収監され、その獄中で亡くなられてしまします。15歳の宣道少年は、お母さまと二人で、リヤカーをひいて亡骸のもらい受けに刑務所に行ったそうです。棺桶の中で硬直した亡父が、道路の段差で揺すられゴツゴツ音をするのを聞きながら、家に戻ったと、記しておいでです。

 15歳で、そんな辛い経験をした少年は、信仰をやめたのでしょうか。いえ、戦後聖書学校に入学し、教師試験に合格して、お父さまと同じ牧師の道を進むのです。刑務所に、夫を奪られたお母さまは、教会の役員の家に、食べ物をてもらいに、宣道少年をつかわすのですが、『国賊の家族にやるものはない!』と断られたそうです。人の弱さを知らされても、彼の献身の思いはゆるぎませんでした。

 熱狂的な信仰が試された時の人の肉の弱さを知らされながら、強固で堅実な「信仰告白」の重要さを、痛切に感じたそうです。信者、しかも役員をしていた者が、国体に反して投獄された牧師を捨てたことは、辛い経験でしたが、人の弱さや冷たさを思い知らされたのでしょう。それは信者だけの問題ではなく、教役者たちも持ちわせていた弱さでもあったのです。獄中の折檻や拷問で信仰を曲げ、転向する人も多くあったようです。誰も、それを責めることができません。

 『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ146節)』

 同じ時期に、ナチスに台頭したドイツでも、福音信仰に立った教会は、存続の危険に迫られていました。ところが、カール・バルトたちの《ドイツ福音主義教会》によって「バルメン宣言」が発せられました。聖書のみことばを掲げ、それに反するどのような国家的な圧力にも屈せず、妥協したり容認しない堅固な聖書信仰の上に立ったのです。暴力を用いずに、信仰の戦いを戦ったのです。

 牙を剥いて襲いかかってくる時に、持ち堪えられる信仰を、私たちはいただくのです。

 『あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。 1ペテロ15節)』

 私たちの教会に、三重県下で、この戦いをし続けてきた群れがあって、そこの牧師のご子息が、礼拝に見えられたことがありました。神の律法に立って、偶像礼拝をせず、国家権力にも屈せず、聖書信仰に立った小さな群れでした。アメリカ人宣教師の伝道によって建てられた教会だったのです。大きな教団に大同団結していく教会の中で、それに吸収されてずに、戦前、戦中にわたって、聖書信仰、福音主義を貫いた群れの牧者の息子さんでした。地方紙で攻撃されても屈しなかったのです。

 信仰の試練の中を通り抜けた群れの強さを、その息子さんの柔和な態度の中に感じたのです。私の母は、寂しい幼児期、少女期をかけぬけて、95歳で召されるまで、信仰を持ち続け、4人の子を信仰に導き、孫たちも、その信仰を継承しているのです。国家権力が暴走すると、人の尊厳を傷つけ、人権を踏み躙るのです。
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