中秋月

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 上から、下の息子が撮って送信してくれた中秋節の満月、一昨日の月、同じく一昨日栃木の我が家の窓から見た月に金星、そして昨晩私の撮った満月です。撮影者によって、日によって、天候によって、こんなに違いがあるのですね。この月ほど、詩や和歌に詠まれた月はありません。北宋の詩人、蘇東坡(蘇軾)が詠んだ「中秋月」です。

中秋月

暮雲収盡溢清寒
銀漢無聲轉玉盤
此生此夜不長好
明月明年何處看

☆ 読み

暮雲 収め尽くして清寒溢れ
銀漢 声無く 玉盤を転ず
此の生 此の夜 長くは好からず
明月 明年 何れ(いずれ)の処にて看ん

☆ 現代訳

日暮れ時、雲はすっかり無くなり、心地よい涼風が吹いている。
銀河には音も無く玉の盆のような月があらわれた。

こんな楽しい人生、楽しい夜、しかし永遠に続くものでは無い。
この名月を、来年は、どこで見ているだろう。

 週末に訪ねてくれた次男が、月餅、武蔵野製菓、よもぎ餅を持って訪ねてくれました。そのよもぎ餅を隣家に、お裾分けしましたら、隣家のご婦人が、教子が持って来てくれたと言って、おすそ分けの返礼で、「高級梨」をくださいました。

 月餅は ハーベストムーンに よく似合う

 あきつきは 中秋節に よく似合う ※「あきつき」は梨の高級種

 この県は、月が綺麗ですし、果物が美味しいのです。ぶどう、リンゴ、梨が名産です。コロナが終息しましたら、ぜひお訪ねください。

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秋に思い出す

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 六十を過ぎてから、留学生として、中国の天津にある語学学校に入学し、そこで一人の教師から、家内と二人で、中国語を学んだのです。一年後に、華南にある省立の師範大学に転校して、その学びを続けました。その内に、日本語教師を依頼されて、同じ街の大学で8年ほど教える機会がありました。

 大陸での生活は、実に充実していました。教えるために、教材の準備をして、発音や会話、作文、日本文化、社会、経済などの実に幅広い教科を担当しました。教え方も教材選びも任されましたので、既存の教材ではなく、日本から関連書を購入して、自分で作って、print  したのです。あんなに充実した日々はありませんでした。

 そして公認教会で、日本語で聖書を教える機会が開かれて、15人前後のみなさんと、週一で学び会を持ちました。それも楽しい一時でした。戦前、アメリカのメソジスト派の宣教師が始められた教会で、革命後は宗教委員会の所管になっていました。病院も医科大学も、一緒に建てられた伝統校だったのです。主任牧師が、『私が全責任を負いますからやってください!』との夢のような機会でした。

 期待した以上の展開に、ただ驚きながら冒険的な気分で奉仕をしたわけです。でも、いいことばかりではありませんでした。最初の「春節」を迎えようとしていた頃のことです。天津の天文台の前の道を歩いていた時に、突然、爆発破裂音が足元でしたのです。全く飛び上がるほどの驚きでした。例の爆竹が炸裂したのです。音ばかりではなく、真っ赤な紙の筒の破片が一面に飛び散ったのです。

 もう一度は、天津の紫金山路にある、外国人アパートの7階の窓の外で、今度は破裂音と共に花火が花開いたのです。真横で火花が弾け散ったのにも、驚いたのです。窓ガラス越しでしたが、強烈な経験の連続でした。中国の四大発名の一つが、「火薬」なのです。二十一世紀になって、その発明品に驚かされたわけです。

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 元々は、青竹を火にくべると、竹の節と節との間の空気が膨張して炸裂するのが、まさに字の如く「爆竹」でした。山や闇の中に住む悪鬼が、そんな爆発音で驚くはずがないのに、当時は退散させるに値する最強の音だったのでしょうか。それがやがて、発明品の火薬が使われて、「鞭炮bianbao」が作られ始めたのです。葬儀の葬列に、結婚式の花嫁花婿の前に、さまざまな儀式に、それが鳴らされるのです。

 でも今になると、懐かしく思い出されて来ます。基督教徒の葬儀に参列し、お話をさせていただきました。その後、葬列に加わって、海辺の「乡下xiāngxia/田舎)の村の大路小路をねり歩く葬列に、家内と一緒に加わりました。家内は、亡くなられたお母様のお病気中に、何度も訪ねて、体をさすってあげたり、声をかけていました。

 その葬列は、爆竹を鳴らすことはなく、賛美をしていたでしょうか。東シナ海が眼下に広がる海辺の高台に墓地があって、お父様の墓の中に、喪主である若い友人のお母様の遺骨が納骨されたのです。大きな space があって、その墓に、家内と私の遺骨も葬ってくださるのそうです。

 私たちにとって、まさに「第二の故郷」なのです。柿やさつま芋、梨や無花果、桑の実リンゴも、この秋の季節にはいただいたりもらったりで、よく食べました。オリーブの実の穫り入れに、車を連ねて、山村の知人を訪ねて、木を揺すって落ちる実を、笑いながら取り合ったのです。招いてくれた農家では、大ご馳走になりました。みんな夢のように思い出される季節です。虫の声を昨夕聞いて、思い出しました。

(天津の旧市街にある「五大路」、「橄榄の実」です)

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食べること

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 『 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。(マタイ625節)』

 「身体によい食べ物」、たくさんあり過ぎて、みんな買っていたら破産でしょうね。『◯◯にいいです!」で net はあふれかえっています。『たった××× 円!』の触れ込みで売られています。関節痛、骨の脆さ、大腸た胃腸や痴呆や肌荒れ、ハゲまで、体の部位ごとに、驚くべき〈 💊 supplement 〉が、目が回るほどにあるのだそうです。

 昔の人は言っていました。『偏らずに、たくさんの種類のものを、季節に応じて食べて、減塩、減糖、減油の食生活をするのがいいのでしょう。』と。「一汁二菜」、まあ「一汁三菜」くらいにするのがいいのかも知れません。子どもの頃、ご飯を、何杯もおかわりして、腹イッパイ食べてもらったのを思い出します。満腹感を満たしたのです。

 母は、工夫してくれました。カタ焼きそば、ハンバーグ、カレーライス、ちらし寿司は最高に美味しかったのです。日本人が、肉なんかあまり食べない頃に、肉屋に行って、ひき肉にしてもらって作ってくれたハンバーグは絶品でした。母はパートで働いて、その収入を上乗せで食事を用意してくれました。ちちらし寿司は、時々、見様見真似で、自分でも作るのですが、家内が喜んでくれます。

 今週もお客様が来ると言うので、カレーライスを用意しました。ニュージーランド産の牛肉、トマト、玉ねぎ、にんじん、馬鈴薯、林檎、ニンニク、ケチャップ、カレールー、醤油を用意しました。玉ねぎは、透き通るようにオリーブ油で炒めます。トマトは熱湯につけて皮を剥きます。りんごは擦ったり細かく切って入れます。中国華南で、学生や留学生たちがやって来て、よくカレーを食べてくれました。教師も来てくれたほどです。
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 おかげで料理、調理の腕を、少しは上げることができました。母が一年ほど入院していた、高校2年の頃、父の手伝いで、家事全般をしたのがよかったのでしょう。だからでしょうか今でも苦になりません。47年も支えてくれた家内への返礼で、選手交代の今です。最近は、お昼の用意は、家内がしてくれるようになっています。夕食も、時々一品ほど作ってくれるようになってきました。驚くほどの回復なのです。

 正しく食事することが、予防医学、健康維持や増進につながるのです。創造の神は、人が食べる必要を満たすために、さまざまな食物を備てくださいました。地域に応じ、季節に応じて、地は食料を実らせ、清い水を湧き上がらせ、ひつの健康維持のために、十二分の備えを、神がなさったのです。

 イエスさまは、「食いしん坊」と悪口を聞かれたのですが、「食べること」を軽視されずに、楽しまれました。弟子たちや集税人たちと、喜んで食卓を共にされたのです。人に、「食べること」が必要であり、心を喜ばすことだとお知りだったのです。きっと、天国には、食卓が用意されていて、食べ物も供されることでしょう。そいて。私たちは感謝して、それをいただくのに違いありません。

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秋にも七草がある

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『ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 (ルカ12章27節)』

 「春の七草」は有名ですが、秋にも「七草」があるようです。山上憶良が書き残した記事の中に、それが窺えるのです。

女郎花(おみなえし)

 『遊里の女性のことを想像してしまいそうですが、「おみな」は「女」の意、「えし」は古語の「へし(圧)」で、美女を圧倒する美しさから名づけられたそうです(HP「季節の花300」から)。松尾芭蕉は、「ひょろひょろと猶(なお)露けしや女郎花」と詠んでいます。女性の「清楚さ」を表すような彩りの花です。

薄(すすき)

 スーパーマーケットのK店長さんが、長靴をはいて、鎌を持ってでかけていくのを見たことがあります。どこに行くのかと言うと野原に行って、薄を刈ってくるのです。お客さんへの月見用で持って帰っていただくためでした。炭焼きをする人は、すむだわらに使ったそうで、家畜を飼う人は飼料に使ってきたのです。昔の農家の屋根は茅葺でしたが、この薄も用いられたようです。語源ですが、ススキの「スス」は、葉がまっすぐにスックと立つことを表わし、「キ」は芽が萌え出でる意味の「萌(キ)」だと言われています。

桔梗(ききょう)

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 何の時代劇だったでしょうか、その主人公に、桔梗介がいた記憶があります。この花は、武士が好んだそうで、家紋に使われることが多かったそうで、明智光秀の家紋でもあります。す。父は、自分の「家紋」を持っていて、羽織の襟にその紋が入っていたのです。すぐ上の兄の家に、父の羽織も袴も残っているので、確かめないといけませんね。もう家紋を持つ時代ではなさそうですが、持ってみたい思いもなくはない、懐古趣味の私です。あの形状と紫色が好きなのですが、日本古来に伝統色なのだそうです。今年も家内が朝顔を植えたのですが、花の色に、「桔梗色」があるので、それで朝顔が好きなのでしょうか。

撫子(なでしこ)

 わが子を可愛いと撫でるように、可愛らしさをたたえているので、そう命名されたそうです。World Cup 女子サッカーのニッポンチームを、この花で呼んでいたのですが、『中国から平安時代に渡来した、「唐撫子(からなでしこ:石竹)」に対して、在来種を「大和撫子(やまとなでしこ)」と呼ぶ。日本女性の美称によく使われる。(HP「季節の花300」から)』のだそうです。清少納言が、「草の花は なでしこ 唐のはさらなり、大和のもいとめでたし(枕草子)」と詠んでいます。

藤袴(ふじばかま)

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 目立ちたがり屋だったからでしょうか、卒業式に、弟の絣(かすり)の着物に袴を履いて列席しました。また母に縫い直してもらった父の大島の着物に、袴と羽織りをつけて、アメリカの西海岸の教会で、娘の結婚式があり、列席しました。家内も母も、和服でした。小さいピンク色の花で、盛りだくさんに咲き誇ります。花の色が藤(ふじ)色で、花弁の形が袴(はかま)に似ているので、そう命名されています。昔の人は、「薬袋」に入れて携行したそうです。香水などつけたこともない身ですが、一度、懐に、「薬袋」を入れて歩いてみたいものです。

葛(くず)

 お八つのない時に、葛粉をお湯でといて、砂糖を入れて食べた、と言うよりは飲んだことがよくありました。大和の国(奈良県)の吉野川の上流に、国栖(くず)というと部落があります。そこが葛粉の産地であったところからの命名されています。漢字の「葛」は漢名からきています。東京の葛飾区は「葛」を用いています。「万葉集」の表記は、勝鹿・勝牡鹿・可豆思賀といろいろとあったようです。ひらがな表現だったからでしょうか。ものすごい旺盛な成長を見せて、蔓(つる)は10mほどにも伸びていくそうです。

萩(はぎ/憶良は朝顔としています。読んで字の如し、で、「秋」の「艸(草)」だからだそうです。実際は、夏前から咲くのですが、秋には萩がよく似合う、で、九月の花なのでしょう。山口県に、萩市があります。やはり、市の花に指定されています。語源ですが、土の上の部分は、少し残して枯れてしまい、毎年新しい芽を出すことから、「はえぎ(生え芽)」と言われ、やがて「はぎ」に変化したのだそうです。

 花は季節に従って咲き、次の季節を迎える前に散っていきます。散った後に、来季の花の備えをするのです。花の命さえ、創造者の意図があり、咲くも、枯れるも自在です。私たちを楽しませ、慰めてあまりある生き物です。神が装い、命を付与なさるのです。賢王の栄華も、野の花に及ばないのです。全てが命の付与者の御手の中にあります。

(HP「興味津々」より)

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花も実も珈琲も

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 秋風が吹いてきたのに、花盛りは、ミニトマトです。ざっと70個もの黄色い花が咲いています。たった一つの実が色をつけ始めてきたのを見下ろすように、咲いているのです。日照が少なく、野菜高騰のおり、実ればいいなと思うのですが、1ヶ月早ければ可能だったでしょうか。

 こう言った咲きっぷりを「健気(けなげ)」と言うのでしょうか。朝顔も終わりに差し掛かり、鉢植えのべチュニアも、ベコニアも、スパティーフィラムもレースラベンダーも終わろうとしています。ラベンダーだけは、元気に咲き続けています。やっぱり秋なのでしょうか。

 家の中では、胡蝶蘭が白い花をつけて gorgeous に咲き続けています。そろそろ秋の花をべらんだにおきたいものですが、市の花センターに行ってみたいのですが、感染予防で閉館のようです。図書館も閉館続きです。お隣のデニーズが閉まってしまったのですが、「焼肉キング」が11月下旬に出店とかで、改装工事が行われていまるところです。

 『ちょっとお茶を!』を、焼肉店では、mood がなくてできそうにないと、ラジオ体操会の仲間のご婦人が言っていました。それでも、ここ栃木は、喫茶店が多くて、年配のご婦人が、本当に美味しそうに、〈通〉のように、coffee cup を傾けているのは、絵になりそうです。

 星乃珈琲店、デリーズ、スターバックス、コメダ珈琲店、その他に多くの地元の珈琲店がひしめいているかのようにあります。京都はコーヒー消費が日本一なのだそうですが、地方の小都市のここも、そんなコーヒーの香りが溢れる街なのです。

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家へ帰ろう

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 貨車の車掌室、丘の上の雑木林の枯れ草の中、これが家出をした、いえ父に追い出された、子どもの頃の叱られた私の寝場所でした。お勝手口の上りがまちで、鍋のご飯に味噌を乗せてかっ込んで、また寝場所に戻る、そんな時がありました。畳の上に母が敷いてくれた布団の中で寝れない、沸いた風呂に入れない惨めな小学生の私でした。

 普通は、夕方には、父が帰宅し、母の用意してくれた夕食を、両親と兄二人と弟とで囲んで、ああでもないこうでもないと話しながらやかましく食べた日々が、キュンとした懐かしさで思い出されます。そんな団欒が、銃火によって突然破られ、家族が殺され、一人だけ生き残る、そんな時代がありました。

 昨晩、” prime video “ で、アルゼンチンとスペインの共同制作映画、「家へ帰ろう/ El último traje 」を観たのです。観た後、『家ってなんだろう?』としばらく考えていました。味噌汁やご飯に湯気とにおいが立ち上って、帰宅した父と、それを迎える母、それに同じ血を受け継ぐ兄弟たちが、1日を終えて、空きっ腹を満たす夕餉(ゆうげ)の仄かな温かさが溢れた世界なのでしょうか。

 ほんの短い間、共に過ごし、やがてそれぞれが独立して、自分の家族を持って出て行く、家族の展開劇が繰り広げられて行き、また孫たちが独立していく、繰り返されていく人の営みが、戦争や一人の男の野心によって打ち破られてしまう不条理さも、その一部なのでしょうか。今は、家内が留守をする家に、散歩や買い物から帰って来るところが、「うち(家)」なのです。

 この映画の主人公には、ユダヤ人の両親の家庭があり、実に和やかな生活がなされた家があったのですが、ドイツ軍の侵攻によって、平和が打ち破られ、愛する家族が殺され、収容所に送られ、九死に一生を得て、その収容所送りの途中に逃れて、住んでいた家に、殴打されたのでしょう、傷付きながらもやっとたどり着くのが、若き日のアブラハムです。

 そこには家族はもういませんし、団欒もなく、ただ使用人家族が住む家になっていました。瀕死のアブラハムを家に入れようとしません。ところが、熱い友情で結ばれていた使用人の同世代の息子が、篤く世話をするのです。17歳のアブラハムの戦争体験、ユダヤ人排斥体験です。

 画面は暗転し、そのアブラハムが、88歳で、アルゼンチンで、洋服の仕立て屋をやって、自分の家族をもうけています。何人もの孫や娘たちに囲まれている、賑やかで、幸せな家があります。娘たちは、父アブラハムの長年の仕事をやめさせて、養老院に入らせ、痛めている足の治療をさせようとしているのです。
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 ところが彼には、秘めた積年の計画があるのです。生まれ故郷のポーランドのワルシャワ、その首都の近くのウッチに帰る悲願があるのです。というか、その故郷に住むであろう、瀕死の自分の世話を必死にしてくれた親友に会うためでした。家族には内緒で、マドリッド行きの飛行券とワルシャワまでの鉄道乗車券も手配するのです。

 そのアブラハムの帰郷の旅に、出会う何人かの人との面白おかしく、また thrilling さも交えて、心温まるやり取りが描かれます。おぞましい経験をした彼の旅も、そう描くことで、かえってHolocaust の体験の酷さを際立てようとしてるかに思えます。マドリッド行きの飛行機に同乗の青年、ホテルの女主人、人類学者のドイツ人婦人、入院先の看護婦などとの人間模様が面白いのです。

 頑固さ、故郷回帰の思い、戦時下の体験の flashback 、孫や娘や出会う人へのhumor などが、主人公のアブラハムの人間を描き出していてとても良いのです。マドリッドのホテルで持ち金を盗まれても途方に暮れないのです。喧嘩別れして、そのマドリッドにいる娘と再会し、お金をもらって旅を続けるのです。

  看護師の助けで、70年ぶりに故郷のウッチに到着し、70年前と同じたたずまいの街を、看護師の押してくれる車椅子に乗ってたどります。街は変わっていません。露地の上の車椅子から、窓越しに眺めると、ミシンを使う男が見えます。見続けていると、その人も見続けています。しばらく後に互いを認め合い、その男もアブラハムも、互いが分かるのです。外に出てきたその人こそ、70年ぶりに再会する友でした。互いにしっかり抱擁し合うのです。

 かつての自分の家と家族、移民しブエノスアイレスで持った家と家族、その家族を置いて、祖国に戻るアブラハム、友との再会こそが、彼の「彼べき家(うち)」だったのでしょう。親友こそが、アブラハムにとっての「家」だったに違いありません。

(ウッチ・ゲットー、映画の一場面の写真です)

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Do for others

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DO FOR OTHERS

 『それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。(マタイ7章12節)」

 『お子さんは何人ですか?』と聞かれた私は、『4人います!』と誇らしく答えたのです。それを聞かれた知人の奥さんは、声を上げて笑ったのです。多過ぎると思ったのでょうか、そんな反応を見せた人は、これまでいませんでした。大体2人、多くても3人、4人は多過ぎるのでしょうか。聖書には、
 『若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。(詩篇127篇4節)』
とあります。私たちの「矢筒」の矢は、多過ぎると思ったことがありませんでした。他にも、事情のあった子どもが、わが家には、よくいたのです。狭い家に、窮屈だったし、調理も大変だったし、忙しかったことは確かですが、でも、『こんなものか!』で、それぞれ個性的に育ったのです。
 時々、幼かった頃のことを、空になった巣の中で思い出しています。小さな車に子どもも荷物も積み込んで、山越え、川越えて、あちらこちらと出掛けたのです。教会のキャンプや聖会や修養会は楽しかったです。同世代の子どもたちが一堂に会し、同じ信仰に生きる家庭の子たちの交流は、彼らに大きな励ましだったのでしょう。
 二度と帰らない貴重な日々でした。時々呼んでくださった宣教師さんの家のたたずまいも思い出します。窓から入り込む、木の葉の動きで揺れる木漏れ日が、受け入れてくださる家族の温かさと相まって、どんなに慰められ励まされ強められたことでしょうか。
 彼らは、” Do for otehes “ の夫妻でしたし、次世代の子どもさんたちも同じ思いと行動の生き方をされておいでです。私たちの子よりも上の世代のお子さんたちと、わが家の子たちとの間に、交流が続けられているのも感謝なことです。
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夕日

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 小学校の音楽の時間が好きでした。今思うと、各学年にふさわしい歌詞で、優しいメロディーの曲を、担任の先生のオルガンに合わせて、小学生の私は、懸命になって歌ったのです。いたずらっ子が、この授業では目の色を変えて歌うのを見て、担任は、どんな思いだったのでしょうか。

 「紅葉(もみじ)」、高野辰之に作詞、岡野貞一の作曲で、1911年、父誕生の翌年に、「小学尋常唱歌」となって以来、私たち日本の小学校二年生は歌い継いできたのです。岡野貞一は、私が奉職した学校の校歌を作曲しています。「春の小川」、「故郷、「おぼろ月夜」などに作曲で見知られ、教会の礼拝賛美のオルガン演奏をしたクリスチャンでした。

秋の夕日に照る山もみじ
濃いも薄いも数ある中に
松をいろどる楓(かえで)や蔦(つた)は
山のふもとの裾模樣(すそもよう)

溪(たに)の流に散り浮くもみじ
波にゆられて はなれて寄って
赤や黄色の色さまざまに
水の上にも織る錦(にしき)

この写真は、孫がとって、送信してくれた、アメリカ西海岸の街で、秋の夕暮れの夕焼けの様子です。彼は、長野県飯田市で生まれていて、アメリカの west  coast は生まれ故郷ではないのですが、父親も祖父母も生まれ育った地ですから、思い入れが大きくあるのでしょう。

『目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。(イザヤ40章26節)』

世界は、創造者の手によってなっています。その秩序と均衡と美しさは、偶然に発生したものではありません。賢く綿密に計画された所産なのです。その最高傑作は人です。ですから、人は美しい創造の世界への感動を覚え、畏怖を感じるのです。その心が養い育てられるのです。

夕暮れに、ふと家の外に外に出て、スマホを向けて撮ったのでしょう。ババは、『また撮って送ってね!」と言って、目尻を下げています。

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未熟さ

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 まだ青いミニトマト、しかも最後に、枝に繋がる実りです。まだ自分が青かった、未熟な頃のことを思い出して、苦笑いと、恥入っている私です。陽の光を受けて、実が赤くなっていくのですが、降り注がれた恵みが溢れて、ひとりの人となります。実際、成熟したのだろうかと、この歳になっていぶかるのは変でしょうか。

 聖書を読み始めて、自責の念に駆られ、恥ずかしさでいっぱいだった私が、罪を赦され、義を愛し、隣人を愛し、誠実に生きるように促してくれた聖句があります。

 『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ289節)」

 パウロが、エペソの教会の人たちに、『人は行いで救われるのではなく、ただ神の恵みのよるのであってイエスを信じる信仰によるのです!』と語ったのです。なかなか行いを正せない私に、「行い」は、後からついてくるのだ、ということが信じられて、その思いから解放されたのです。

 ですから悟ったのでも、修行したのでもありません。根拠は、幼い私に手を引いて、神の臨済する教会に教会に連れて行ってくれた母の《主への熱心》と《子への愛》によります。母は、四人の子を引き連れて、日曜日になると教会に行っていたのです。母が、自分の産んだ子にできる最善が、食事の用意や洗濯や掃除だけではなく、《礼拝出席》でした。

 「罪を赦してくださる神」と出会うようにしてくれたのです。やがて実際に神と人格的に出会ったのです。「三で一つの神」が、十字架で、私の生まれながらの、自ら犯した罪の身代わりに死んでくださったということが、突然理解されたのです。「聖霊なる神」が、この私に降り注がれて、突然、異言が口から突いて出ました。

 アフリカへ行く途中、羽田空港に降り立った、ニューヨークの神学校の教師が、私の母教会でもった夜の特別集会で、この方が、私の頭に手を置いた時でした。経験した者でなければ感じることにできない出来事でした。瞬間、十字架の贖罪が、自分のためだと示され、罪深さを悔い改める涙が溢れ出たのです。理性がありました、何かに憑かれたような体験ではなかったからです。

 『さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。(使徒81417節)』

 聖書に記された、それと同じ経験でした。思ってもみなかった土地での生活が始まって、そろそろ3年になろうとしています。静かな単純な日々の中で、思い返すことが多くなってきています。歳のせいから、季節のせいか、コロナのせいか、今までになかった日を送る中でのよい時です。気温が低くなり、かなかな蝉が鳴き始めています。さて、このミニトマトは食べられるでしょうか。食べられたら、家内と半分づつにしようかな、の秋です。

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帰巣

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「故郷の空」、大和田建樹の作詞、スコットランド民謡の曲、奥好義の編曲で、1889年(明治21年)に発表された明治唱歌です。

夕空はれて あきかぜふき
つきかげ落ちて 鈴虫なく
おもえば遠し 故郷のそら
ああ わが父母 いかにおわす

すみゆく水に 秋萩たれ
玉なす露は すすきにみつ
おもえば似たり 故郷の野辺
ああ わが兄弟(はらから) たれと遊ぶ

 秋風が吹いて、果物屋の店頭に、栗や無花果や梨が出回って来ると、郷愁が心をなでて吹いていきます。山また山の中に生まれ、小川の瀬に家があり、河鹿が鳴き、狼が吠え、三日月が中天にある故郷が仕切りに懐かしく思い出されてまいります。豊島与志雄の「故郷」に、次のような文があります。

 「石狩の鮭と釧路の鮭とは、品質がまるで異っている。魚族が異っているからである。

 鮭の人工孵化を行い得られるのは、鮭が自分の生れ故郷を忘れないからである。大海に放たれても、産卵期には必ず、自分が幼魚の頃甞て放たれた場所へ、殆んど洩れなく戻ってくる。石狩川から放たれた鮭は、決して釧路川へ上ることなく、必ず石狩川へ上ってくる。釧路川から放たれた鮭も、また同様である。

 何故に然るか。それを私は説明し得ない。ただ、事実はそうだというまでである。

 ユダヤ民族研究者の云う処に依れば、彼等の理想が如何なるものであろうとも、なおよく云えば、彼等がたとえ世界的国家の建設を夢想しようとも、その中心地は必ずユダヤの故地だそうである。何故? の問題ではない。そうでなければならないのである。」

 石狩川の鮭は、自分の故郷を知っていて、どこの海で泳ごうが、決まって産卵の時期には、生まれ故郷の石狩川に帰ってくるのです。〈何故?〉なのか、それは〈帰巣本能〉と言う以外にありません。どこで生まれた鮭でも、自分の故郷に戻って行きます。

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 ユダヤ人も、とくに〈失われた十部族〉は、世界に離散、散逸した流浪の民なのですが、この民族には、パレスチナとかカナンと言われる地に、帰還しようとする願いが、生まれながらにあるのか、また、ある時に至って生じてくるのです。民族の血がそうさせるのでしょうか。どんなに事業に成功しても、何代も前から住み着いた異国の地を、自分たちの故郷だとは思わないのです。

 彼らの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに、エホバなる神が与えると約束した地への憧れがあり続けるのです。あの〈Zionism/シオニズム〉の思いを民族として持ち続けて、やがて帰郷を成し遂げるのです。

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 中国の河南省に「开封kaifeng/開封」と言う街があります。明代(1368-1644年)には、ユダヤ人は皇帝から 、艾、石、高、金、李、張、趙(ユダヤ人の氏族の姓 Ezra, Shimon, Cohen, Gilbert, Levy, Joshua, Jonathan)を与えられ、それぞれ、中華の民の中で、名乗ったのです(ウイキペディアによる)。今では、ほとんどユダヤ人として生活している痕跡がないのだそうですが、そこにもユダヤ人はいて、帰還の思いの湧き上がる日があるのではいでしょうか。

 『しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル1116節)』

 聖書に、「さらにすぐれた故郷」が、天にあると記されています。私の生まれ故郷は、ここから日帰りできる距離にありますが、そこは過疎の村で、そこには住んだ形跡も無くなってしまっていることでしょう。産んでくれれた両親も、すでに帰天しています。兄たちと弟は健在で、コロナ終息を期して、一緒に旅行をしようとみんなが願っているのです。

 私には、帰って行く故郷があるのです。そう約束してくださった神が、約束してくださった帰るべき世界が用意されているからです。その望みの中にいて、北関東の地に住み着いております。

(鮭と“教会クリップアート“の空を見上げて星を数えるアブラハムです)

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