秋に思い出す

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 六十を過ぎてから、留学生として、中国の天津にある語学学校に入学し、そこで一人の教師から、家内と二人で、中国語を学んだのです。一年後に、華南にある省立の師範大学に転校して、その学びを続けました。その内に、日本語教師を依頼されて、同じ街の大学で8年ほど教える機会がありました。

 大陸での生活は、実に充実していました。教えるために、教材の準備をして、発音や会話、作文、日本文化、社会、経済などの実に幅広い教科を担当しました。教え方も教材選びも任されましたので、既存の教材ではなく、日本から関連書を購入して、自分で作って、print  したのです。あんなに充実した日々はありませんでした。

 そして公認教会で、日本語で聖書を教える機会が開かれて、15人前後のみなさんと、週一で学び会を持ちました。それも楽しい一時でした。戦前、アメリカのメソジスト派の宣教師が始められた教会で、革命後は宗教委員会の所管になっていました。病院も医科大学も、一緒に建てられた伝統校だったのです。主任牧師が、『私が全責任を負いますからやってください!』との夢のような機会でした。

 期待した以上の展開に、ただ驚きながら冒険的な気分で奉仕をしたわけです。でも、いいことばかりではありませんでした。最初の「春節」を迎えようとしていた頃のことです。天津の天文台の前の道を歩いていた時に、突然、爆発破裂音が足元でしたのです。全く飛び上がるほどの驚きでした。例の爆竹が炸裂したのです。音ばかりではなく、真っ赤な紙の筒の破片が一面に飛び散ったのです。

 もう一度は、天津の紫金山路にある、外国人アパートの7階の窓の外で、今度は破裂音と共に花火が花開いたのです。真横で火花が弾け散ったのにも、驚いたのです。窓ガラス越しでしたが、強烈な経験の連続でした。中国の四大発名の一つが、「火薬」なのです。二十一世紀になって、その発明品に驚かされたわけです。

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 元々は、青竹を火にくべると、竹の節と節との間の空気が膨張して炸裂するのが、まさに字の如く「爆竹」でした。山や闇の中に住む悪鬼が、そんな爆発音で驚くはずがないのに、当時は退散させるに値する最強の音だったのでしょうか。それがやがて、発明品の火薬が使われて、「鞭炮bianbao」が作られ始めたのです。葬儀の葬列に、結婚式の花嫁花婿の前に、さまざまな儀式に、それが鳴らされるのです。

 でも今になると、懐かしく思い出されて来ます。基督教徒の葬儀に参列し、お話をさせていただきました。その後、葬列に加わって、海辺の「乡下xiāngxia/田舎)の村の大路小路をねり歩く葬列に、家内と一緒に加わりました。家内は、亡くなられたお母様のお病気中に、何度も訪ねて、体をさすってあげたり、声をかけていました。

 その葬列は、爆竹を鳴らすことはなく、賛美をしていたでしょうか。東シナ海が眼下に広がる海辺の高台に墓地があって、お父様の墓の中に、喪主である若い友人のお母様の遺骨が納骨されたのです。大きな space があって、その墓に、家内と私の遺骨も葬ってくださるのそうです。

 私たちにとって、まさに「第二の故郷」なのです。柿やさつま芋、梨や無花果、桑の実リンゴも、この秋の季節にはいただいたりもらったりで、よく食べました。オリーブの実の穫り入れに、車を連ねて、山村の知人を訪ねて、木を揺すって落ちる実を、笑いながら取り合ったのです。招いてくれた農家では、大ご馳走になりました。みんな夢のように思い出される季節です。虫の声を昨夕聞いて、思い出しました。

(天津の旧市街にある「五大路」、「橄榄の実」です)

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