あなたも高価で尊い

.

.
 7月15日、NHK第一ラジオ夕方6時台、“ ニュースアップ"で、「在宅勤務 座りすぎに注意」という主題で、中川 恵一さん(東京大学医学部附属病院放射線科 准教授)が、『今では、〈貧乏ゆすり〉とは言わないんです!』と言っていました。では、なんと言うかと言いますと、「健康ゆすり」なのだそうです。

 もう一つ、『座ってばかりいないで、三十分に一度、立ち上がって、歩き回ったほうがよいのです!』とも言っていました。小学校の通信簿に、行動の記録欄がありましたが、みなさんは、どんなことを、担任の先生に、書き込まれたか覚えておいででしょうか。

 病欠児童の私は、たまに学校に行けて、教室にいられるのが嬉しくて仕方がなかったのです。それででしょうか、落ち着いて座っていませんでした。先生がする「机間巡視」を、生徒の私も席から立って、級友たちの机の間を歩き回っていたのです。たまに学校に来ては、歩き回る様子を見て、級友たちは呆れ果てて、私を見ていたのでしょうか。当時は、そんなこと思ってもみなかったことですが。

 どの学年の担任も、決まって一様に、『少しも落ち着いていない(今流ですと〈多動性障害児〉でしょうか)!』、これが行動の記録だったのです。貧乏ゆすりをする間もなく、立ち上がって歩き回っては叱られ、教室の後ろや廊下、しまいには、校長室に立たされたのです。

 二十一世紀、コロナ旋風で、行動に制限がかかった時代の直中で、私が小学生だったら、〈エコノミー症候群〉にならないための《三十分に一度の立ち歩きの勧め》で、『立たされたり、叱られたりしないですんだのに!』と思ってしまうのです。どこか外国の大学の研究室が調べたのだそうですが、世界中、日常生活の中で、座っている時間が一番長いのが、日本人なのだそうです。

 時代や社会環境の変化で、昔は悪い習慣だったことが、《よい習慣》に変化してきているのは、過去の汚点に苛まれている私の様な者には、喜ばしい使信なのです。狭い飛行機のエコノミー席に座って、大陸との間を、家内と一緒に何度往復したでしょうか。何時も、あの席で、貧乏、いえ「健康ゆすり」をしたり、昔取った杵柄で、トイレに行くふりをして、通路巡視をするのを常にしていましたが、それが良いことに、レッテルが張り替えられたのは感謝な時代の到来です。

 でも、畳に敷いた布団や卓袱台や炬燵などから立ち上がる動作が、日本人の足腰の強靭さを育んでいると言われてきています。生活の知恵でしょうか、社会的習慣がもたらせた素晴らしい伝統なのでしょう。自虐的傾向の強い私ですが、こんな自分を捨てないで、厚かましく生きてこれたのは、ありのままの私を愛し、「あなたも(は)高価で尊い」と言ってくださる方とお会いしたからです。

(〈フリー素材〉野に咲くスズランです)

.

どれ程

.

.
『 “ カラン、コロン"と音を立てて下駄を履いて、例幣使街道を歩いてみたい!』との願いがあるのですが、今一つ勇気がなくて、家の近く、桐の下駄を売る店の前を通るたびに、もう一歩を取らずじまいで、一年半が経ってしまいました。音が高くて、遠慮したい気持ちも強いのも、履けないでいる理由です。

小学生の頃のことですが、甲州街道から旧道に曲がる角に、炭や薪、石油、履き物を売る店があって、母が履いてる様な幅の少ない婦人用の下駄が履き心地がよくて、それをいつも買っては、鼻緒をすえてもらったのです。年配のおばさんが、膝の上で作業をするのを眺めていました。どこの子か分かっていて、ニコニコしてやってくれたのです。

靴を履く様になったのは、いつ頃だったでしょうか。中学に入った時、くるぶしまでの高さの靴で、紐を閉めたり緩めたりするのが面倒でしたが、中学生になった気分を味わえたので、得意になって〈編み上げの靴〉を履いたのですが、それまでズック靴を履いた記憶が、ほとんどないのです。

その短靴を履いた経験がないので、いまだに短靴は好きになれないのです。それでブーツ形式の“ チャッカ “ という靴が好きで、今も履いています。でも、下駄履きで歩く、あの原風景の感触を思い出して、その懐かしい思いが蘇ってきてしまうのです。

行春やゆるむ鼻緒の日和下駄   永井荷風

江戸の名残を、思いの内に強く残す荷風は、明治、大正、昭和を生きたのですが、身持ちが悪く、家庭建設の失敗者であり、それでも、彼一様の文学は、とても優れていたのです。1952年、『温雅な詩情と高邁な文明批評と透徹した現実観照の三面が備わる多くの優れた創作を出した他江戸文学の研究、外国文学の移植に業績を上げ、わが国近代文学史上に独自の巨歩を印した。』と、文学上の功績を高く評価され、文化勲章を受けています。

千葉県市川を、終の住処(ついのすみか)とした荷風は、最後の食事が、その街にあった大黒屋の「カツ丼」だったそうです。先日、カツ丼を食べた私は、まだ生きていますし、文学とは無縁なただの人ですが、あのカツ丼が最後にならなかったのは幸いでした。洋風の “ ラザニア ” かなんか、最後に食べてみたいなと思っています。

さて、下駄の似合いそうな方は、この句にある様に、荷風だと思うのですが、たまには下駄で歩いたのでしょうけど、帽子を被り、傘を下げて、黒皮の短靴が、往年のこの方の出立だったそうです。田舎者は東京、いえ江戸を憧れるのかも知れません。

今はないのですが、新宿駅のホームとホームをつなぐ地下道を、カランコロンと音を立てて、朴歯(高下駄)を、履いて得意になって歩いていた日がありました。たった一人で、颯爽と歩いていたつもりでした。若さって、目立ちたくて、何でもやってしまったのが、今になると、恥ずかしく思い出されてしまいます。さぞかし大人のみなさんには、漫画的な絵だったのでしょうね。

ここは、下駄履き禁止の条例はなさそうなので、〈年寄りの冷や水〉で、夢よもう一度、やってみようかと思っているところです。ただし、最近は、家内に相談すると言う流れが身についていますので、果たして賛同してくれるか分かりません。〈昔恋しい下駄〉、いつまでも甘えた様な生き方が離れないでいるジイジであります。下駄やチャッカ靴、また裸足で、これまで、どれ程、この地球を歩いてきたことでしょうか。

(フリー素材の写真です)

.

新宿

.

.
なかなか東京が遠くなってしまった今、昭和32年、1957年頃の新宿を、思い出してしまいました。それは中学に入学した年でした。籠球(バスケットボール)部に入部していたのです。週末に、よく系列高校の東京都予選が、両国高校や九段高校などであって、応援とボール持ちで駆り出されました。

戦いすんで、日が暮れると、新宿駅で途中下車して、西口の「思い出横丁(当時はションベン横丁と言ってました)」で、食事を奢ってもらったのです。犬や猫や兎の肉の肉丼なんかを食べさせられたかも知れません。お腹が空いていて、大学生や、社会人のOBが食べさせてくれたのです。

バスケをするのですから、並みの高校生よりも一際大きいのです。そんな先輩の跡を追って練り歩く行列の中に、まだヒヨコの様な中学生の子どもがいました。東口には、「三平」と言う実に大きな食堂もありました。安くて時々利用したのです。「ACB(アシベ)」と言う喫茶店もありました。

闇屋横丁が、上野にも渋谷にも、どこにも残っていた時代でした。歯科医や市会議員の息子たちは、お金を持っていて、景気良く、いつでもご馳走になっていました。予科練帰りの〈大OB〉などもいて、昔の運動部は、半分軍隊みたいでしたが、チビの私たちには、みんなが優しかったのです。そんな環境の中で、普通の中学生よりはマセていて、生意気盛りでした。

新宿の歌舞伎町が、今の様な歓楽街に激変する前は、1956年に営業開始した「コマ劇場」が中心にありました。杮(こけら)落としの開演に、父が連れて行ってくれました。何を観たのか全く覚えていないのです。とてつもなく大きくて、大都会の煌びやかさだけは覚えています。

そんなことを思い出したのは、コロナ旋風を騒がす風俗店の街の歌舞伎町が、コロナ陽性者を生んでると言うニュースを聞いたからです。その西口には、父の会社がありました。工学院大学があって、今の都庁辺りになるのでしょうか、そこに淀橋浄水場が大きな敷地の中にありました。

激変すればするほど、東京が遠くなります。都市の変化は、華南の街も同じで、あれよあれよの激変ぶりには、驚かされました。目を瞑っている間に変わってしまう様な、猛スピードでした。汚く乱雑だった街が、一ヶ月ぶりに訪ねると、銀座通りの様に変わってしまっていました。喫茶店やケーキ屋、パン屋の果物店が、猛スピードに出来上がっていました。

それに引き換え、今住む街は、昔の風情を残し、大きな街なのに、歯が抜けた様に家が取り壊されて、敷地が駐車場化されています。自転車で街巡りをすると、昔ながらの医院、豆腐屋、下駄屋、支那蕎麦屋があって、江戸や明治の世に建てられた蔵などが散在した街です。明治や大正の昔情緒が、なんともいいのです。

(新宿西口周辺の古写真です)

.

庇う

.

.
このところ歌えなくなってしまった歌があります。北原白秋の作詞、中山晋平の作曲の「あめふり」です。大正14年(1925年)に発表された童謡です。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

7月に入って、梅雨の雨が続き、その降雨量も未曾有の数字を表し、そこかしこに多大な災害をもたらしています。被害がひどかった久留米は、家内の母の生まれ故郷、日田は、青年期に出会った女性の出身地、人吉は、最初の職場の上司の出身地、ですから無邪気に、『ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン!』などと、軽快に歌えなくなってしまいました。被災、罹災をされたみなさんが、再び立ち上がれます様に祈念しております。

そんな自然災害の中、自分の子を1週間も一人に置き去りにして、旅行をして、育児忌避した母親が、その子を死なせたと言う、衝撃的なニュースが報じられていました。自分を産み育ててくれた母と、四人の子を産んで育ててくれた家内のことを思い返して、『どうして?』と思ってしまいました。《子育てのモデル》猫の母性本能の強さを、次の様に記しています。

『猫は母性本能が強い動物と言われています。女性は出産を経験すると、自然に母性本能が出るように、猫も出産をすると体内のホルモンの変化から母性行動を見せます。
出産をした母猫は子猫のそばを一時も離れません。

子を守るためなら、自分を犠牲にもします。母猫が一人前になるまで育て上げる母性行動は、本能的に強いと言われています。猫は、一度の出産で1~9匹の複数を産む『多胎動物』と言われています。反対に牛や馬は、一度の出産で1匹しか産まない『単胎動物』で自分の子と他の子を見分けて一生懸命育てます。

反対に猫は、一度に複数の子を育てる為に厳密に子を見分ける事はしないのです。なので、自分が産んだ子以外の面倒を見たり、他の動物の世話ができると言われています。(HP「ねこちゃんホンポ」から)』

この歌の歌詞の様に、蛇の目を持って出迎えてくれるほど慕うべきお母さんが、そんな仕打ちをしたことは、悲しい、と言うよりもやりきれない思いです。息絶え絶えで寝ている私の脇で、夜通し、何日も何日も看病してくれた母がいて、今の私があります。我が儘いっぱいの私を、女であることを置いて、母であってくれて、そのまま受け入れて、目を細めて、死にかけたバカ息子を愛してくれたのです。

退院後も、昼前に、魚の挽き売りのおじさんが来ると、決まって、マグロの刺身を、母が買ってくれました。これで体力をつけて、回復して行ったと思うのです。兄たちや弟には食べる機会がなく、私だけに食べさせたのです。まだ三十代前半の母は、その刺身に箸をつけることはありませんでした。我が儘の死に損ないの私を、そうやって庇(かば)いながら看病してくれたのです。

(歌川広重の浮世絵です

ああ無情

.


先日、隣家からいただいた「桜桃」は、今まで食べたものに比べて、抜群の甘さでした。ただ甘いだけではなく、酸味も程よくあって、「美味しい」初夏の味覚でした。今日、生協で買ってきた季節外れの果物ですが、「林檎」も旨かったのです。それに昨日買って蒸した「もろこし」が美味でした。

「甘さ」だけでは美味しくないのですが、微妙に美味しいのは、酸味や渋みがあって、甘味を引き出しセーブするのでしょう。〈渋みがかったいい男〉も、美男子であるだけではなく、〈渋み〉や〈苦味〉があって、そう言うのだそうです。

昨夕(7月10日)のニュース速報を聞いて、東京地検の麻雀賭博をした元検事長を、検察庁が起訴猶予の処分にしたと報じていました。これが、〈甘さ〉です。厳正な法的な判断を下すべきなのに、過去に良い仕事をしてきたり、功績があったりした場合、〈甘さ〉がみられるからなのか、そう邪推してしまう私が悪いのか、でしょうか。〈どんな立場の人の賭け麻雀〉だったのか、送検された容疑者を、どうするかを決めたりする立場、そのトップだった〈職責〉や〈社会的責任〉は看過ごされているのに、〈甘さ〉が見られます。

窃盗を働いた中二の私を、警察に通報せず、学校だけに連絡してくれた方を思い出します。学校側も、停学や退学の処分をせずに、不問に付し、母同席で〈叱責〉だけでした。中三の学年末、中学三年間の総括の行動記録に、『よく立ち直りました!』と、三年間の担任は記してくれました。そして系列の高校の入学を許してくれたのです。〈甘い処分〉でした。

高一で、学内で、〈猥褻文書を売った級友〉は、〈退学〉させられて、消えて行きました。学外で盗みを働いた中途入学してきた二人も、無言で退学して行きました。難しい年齢の只中で、自分は、家裁送りになって、鑑別所や少年院に送致されていたりしていたかも知れません。私の処分なしも、罪に定めなかったのがよかったのか、よくなかったのか、今も迷うところです。もちろん立ち直れたのには、厳しく責めなかった両親がいたのです。

あの時、警察沙汰になっていたら、自暴自棄になって、雪だるまが転げ落ちる様に、罪を重ねて少年院送りの道を辿っていたことでしょう。幸い、私は、人生上の大きな転換を迎えることができたのです。それは、個人的な内的な経験でありますが、生き方の大改革を経験し、今日に至っています。それでも、不問に付された過去の罪(罪々と言うのが当たっています)を、〈精算されていない過去〉を時々思い出すのです。

《赦されたこと》は確かなのですが、どうも何か、〈過去の始末〉が、いまだについていない感じがしてなりません。時間の経過が、罪の責任を薄めることにはないからです。自己矛盾が拭えないままでいます。あの検事長は、自己矛盾を感じないのかなって、そんな過去を持つ私は思ってしまうのです。

私の知人で、「ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)」や「安保闘争」で活動した人たちがいました。反社会的だとされた活動に関わると、〈ブラック・リスト〉に載せられるのです。そうされた人は、公務員になったり、大手企業に就職する機会を奪われることがあったのだそうです。公安にマークされたり、また逮捕歴があったり、補導歴があったりすると、その〈シミ〉は抜けないのです。そのひっかりがあって、ちょっとした違反でも許されないことがあります。

〈賭け金の少なさ〉だったらいいのでしょうか。あの “ジャンバルジャン” は、飢えた姉の子に、パンを食べさせようとして、一個のパンを盗んだ罪を負い、19年も服役しています。貧しい職人に、フランスの街の官憲は厳しく臨んだわけです。まさに、『ああ無情!』です。それなのに、わが国の官憲、検察は、〈大甘〉な処分を、“ マッ黒 “ な賭博常習者に下しました。この方は、しばらく後で、弁護士になるように聞いています。

裁く資格なんて、まったくない私なので、ごめんなさい。でも、そんな過去を引きずっていますので、敢えて、こんな〈曖昧さ〉や〈甘さ〉で日本法曹界は、『大丈夫?』と思ってしまいます。少年期に、〈甘い〉処分を受けた私は、今、けっこうきつい見方をしているのに、驚いてしまいます。

(映画“レ・ミゼラブル” のスチール写真です)

.

注意喚起

.

.
「河川工学」の専門家の九州大学の小松名誉教授は、洪水などで避難をする時の注意を喚起されています。避難時は、スニーカーなどの運動靴を履いての外出がよいそうです。梅雨目前、私は、ホームセンターで、長靴を買ったのです。4階住まいなので、浸水の危険性はないのですが、洪水の中を外出するに当たって、釣り用の胸まである長靴を、ちらっと店内で見たのですが、昔ながらのゴム長靴にしたのです。

ところが、長靴は、子どもの頃に経験済みで、水溜りで遊んでる内に、靴の中に水が入り込んで、歩きづらかったのを知ってるのに、買ってしまいました。一番よいのは、廃材や瓦礫に中でも歩ける〈作業靴〉なのです。つま先や靴底に、鉄板が入っていて、物を足に落としてもつま先が守られ、出た釘を踏んでも刺さらない工夫がされているものなのです。

まあ雨降りの中を出かけるには、長靴で大丈夫ですが、こんなに災害が頻繁に起こってくると、その〈作業靴〉が必要とされそうです。鉄鋼所でのアルバイト時に、それを支給されて履いていたので、頭の中には、その必要性に気づていたのですが、目先のことで目利きが鈍ってしまったみたいです。

『山歩きには、キャラバンシューズよりも、地下足袋がいい!』と、弟の真似をして、奥多摩の山歩きをしていました。慣れると足と地べたが一つになって、足が喜んでいる様でした。私の友人は、〈首都圏大地震〉を想定して、交通機関が止まってしまっても、瓦礫の中を歩いて帰れる準備をして、所用で東京に出かけると言っていました。

そんな心備えが必要なご時世でしょうか。今は、行動範囲が狭くなっているので、よいのですが、遠出する時には、ザックに、食べ物や飲み物や軍手、よく怪我をするので、救急バンソコウや消毒も持たないと、そんな出立で出かけることにしましょう。

熊本県芦北や人吉での今回の洪水現場は、悲惨です。同じ様な洪水が、中国大陸の長江流域でも起こっていて、YouTubeで、その惨状を見ることができます。学校に行っていた頃に、多摩川が、台風で増水した時、魚が掴み取りできる芦の茂みに入ったのですが、流されなかったのが不思議です。水の本当の怖さを知らなかったからです。

毎日、朝な夕なに眺められる流れのほとりで、今、生活をしています。静かに流れているのは風流がありますが、いったん水嵩(みずかさ)が増した流れは、流木も石ころも難なく押し流しています。水運の流れを利用した先人たちは、命の危険を感じながら、その生業を続けていたことを思い返しております。

(巴波川の下流にある〈野木町商工会〉による渡良瀬遊水地の全景です)

.

無事

.


.
7月10日、早朝に咲いた朝顔です。小雨の中を、ゴミ出しに行き、清新な空気を吸って、今日の無事を願ったところです。日曜日まで、停滞した梅雨前線の影響で、多量の雨が降ると、予報されています。下の娘の義理の弟夫妻に、来春、子どもさんが与えられるのだそうです。華南の街からの便りも、我孫子の友人からの電話も、義妹への電話も、コロナ禍の中、無事の知らせです。

.

和睦

.

.
いちばんの驚きは、地震、大雨洪水、コロナ、政界や検察畑などの不正、何が起きようとも、どんなことを見聞きしても、落ち着いて、ニコニコと微笑んで生きられる日本人の特性です。ソウルや天津や上海に行っても、そこでは、みなさんは大騒ぎで叫んだり、泣いたり、慌てたりしているのを見聞きしてきた私は、驚いています。

今朝6時過ぎ、ガバッと起き上がった私は、家内の無事を確かめて、iPadでニュースを聞きました。茨城南部を震源とする地震によるもので、ここ栃木市は、〈震度4〉でした。隣家は、ご主人が夜勤で不在、生まれたばかりの赤ちゃんと息子とお母さんが騒いでいる様子はありませんでした。

すぐに、〈震度3〉の街に住む長男が、連絡してきて、『大丈夫?』と聞いてきました。これ程の反応が、日本人の標準です。梅雨前線の停滞、そこに雨雲が近づいての何十年に一度の暴雨が降って、家が流され、家人が不明になっても、マイクの前で、落ち着いて、被災者が応答されています。

災害と共存しながら、この狭い列島に住み続けて、どのくらいになるのでしょうか。経験や学習によって、様々な知恵や判断を身につけ、どう振る舞うかを自分たちのものにしたわけです。石の上に柱を置き、土で壁を塗り込み、藁や茅で屋根をふき、紙の障子や襖で間仕切りをし、竃(かまど)に薪をくべ、沢水や井戸の水で、粟や稗(ひえ)や大根や菜葉を煮炊きをし、ちゃぶ台を囲んで、子どもたちは文句なしで感謝しながら膳に着いて、生きてきたのです。

落ち着いて生きていた父や母を見ながら、様々に学んで今の私があります。けっきょく「和」なのでしょう。聖徳太子が、「和をもって貴しと為し」と言っています。

『一に曰く、和をもって貴しとし、忤(さから)うことなきを宗とせよ。
 人みな党あり。また達れる者少なし。
 ここをもって、あるいは君父にしたが順わず。また隣里に違う。
 しかれども、上和らぎ、下睦びて、事を、論うに諧うときは、
 事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」

1500年も前に、その様に言った決め事を、私たちの先人は、生活の中で具現化してきたことになります。日本人が、もし優れているとしたら、「和睦」を尊んできたことなのかも知れません。それは、単に「仲良し集団」を作り上げて行くことではなく、他者を気遣いながら生きていく術を身につけたことなのでしょう、

先日、同じ階の方が、『山形の友人が送ってきましたので!』と、桜桃(さくらんぼ)を持ってきてくれました。甘くて美味しかったのです。散歩中の家内が、ご婦人に声をかけ、花をほめたら、薔薇の花を手折っていただいて帰ってきました。路上で行き合った老婦人に、遊びにくる様に招かれたりです。シャッターを上げようとしていた、怪我をされた店主に手を貸そうとしたり、住み始めた街の隣人たちと、好い交わりができています。助けられたり、助けたりできるのが、この「和睦」なのでしょうか。

.

ショパン

.

.
私は、どうも〈悔い〉が多いのです。もっと早く音楽に関心を持ちたかったというのが第一の悔いです。子どもの頃、小学校の入学式を欠席したのが初めで、病んで学校に行けない日が多かったので、家にいて、母がかけてくれるラジオを聞いて、日がな布団の中で寝ていたのです。天井を見上げると、微熱のせいで、板の節がクルクルと周り始めて、ウツラウツラするのを繰り返していました。

 あの頃、「名演奏家の時間」という番組があって、クラシック音楽が聞こえて来たり、昼過ぎになると、「昼のいこい」の小関裕而作曲のテーマ音楽が聞こえて来たり、農事通信員のお知らせが読まれたり、レコード音楽が聞こえて来ました。けっこう音楽を聞く時間が多かったのですから、音楽の道を選んだらよかったのですが、病欠の弱い男の子の私は、強くなりたくて、軟弱な音楽を嫌う様になっていきました。

 それで毎日の様に聞いたクラシック音楽は、目の回る様な微熱や咳の中で聞いたので、病欠と結びついていて、大きくなって聞きたくなくなったのかも知れません。そんな中で、大人になって、映画の中で聞いたある音楽に魅せられてしまったのです。その映画が、「戦場のピアニスト」で、その中で奏でられていたのが《ショパン》の作品でした。

 ドイツ軍の砲撃の中、ワルシャワのラジオ局で、建物が崩れ落ちる中で演奏されていた曲(「ノクターン第20番嬰ハ短調」)と、戦争末期、砲弾を受けて瓦礫となった建物の静寂な中で、響き渡っていた曲(「バラード第一番」)が、私の心を打ったのです。主人公のスピルマンが演奏していたショパンの作品でした。戦争や砲弾、廃墟の瓦礫の中での美しい旋律の音楽の対比がよかったからでもあります。

 すっかり音楽に目覚めてしまったわけです。後になって、DVDを借りて何度か、映画を見直したこともあり、カンヌ映画祭でも、アメリカのアカデミー賞でも賞を得た秀逸の作品でした。その中のショパンでした。

 もう20年も前になるでしょうか、当時住んでいた街の隣街の図書館で、講演会があって、家内と一人の高校生と一緒に聞きに行きました。この映画の主人公、スピルマンの息子さんがお話をされたのです。子スピルマンは1951年生まれのポーランド国籍(現在はイギリス国籍を取得)で、父39才の時の子でした。当時は、九州産業大学や拓殖大学で客員教授をされて、「日本史」を研究されておられたのです。日本人女性と結婚されていました。

 その講演では、ユダヤ人の民族的背景を持っている彼が、自分の父を客観的な目で語っておられました。「ホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)」で、父や母や親族や友人を失った父スピルマンは、生き残ったことの罪責感に苦しんで、戦後を生きたそうです。父から戦時下の体験をまったく聞いたことのなかった彼は、父が1945年に著わした「戦場のピアニスト」という本を、12才の時に見つけて読みます。そういった父の著書を通して、間接的に、父の体験を知ったのだそうです。

.

.
 彼がまったく父の過去を知らなかったのは、話してくれる親族が、ホロコーストで、犠牲になって、だれもいなかったからでした。父スピルマンは、忙しく生きることで、その体験を思い出さないようにしていました。そしてそんな父でしたが、年をとるにつけ、忙しくなくなると、ポツリポツリと、長男である彼に体験談を語ったのだそうです。

 その本が再び日の目を見たのは、ドイツ語訳で、1987年に再版されてからでした。そうしますと話題をさらって、英訳や仏訳が刊行され、すぐに完売してしまいます。それで映画化が決まった翌年の2000年7月5日に、父スピルマンは召されていきます。

 『父は真面目だった!』と、子スピルマンは語っています。1つは音楽に関してです。音楽を〈食べるための道具〉にしなかったのです。どのようなジャンルの音楽にも関心を向けます。ジャズも好きだったようです。そして極限の中で、『自分が発狂することなく自殺からも免れることが出来たのは《音楽》だった!』と語っています。

 もう1つは《人種問題》でした。『人を個人として見るように!』と言い続けたそうです。どの民族にもよい人も悪い人もいること。民族全体が悪いのではない。ドイツ人だって、みんなが悪いのではない。そういった信念の人だったようです。でもユダヤ人の血と言うのでしょうか、アブラハムの末裔といったら言いのでしょうか、信念や生き方は、やはりユダヤ的なのではないかと感じられました。

 映画の中に出てきた、あのドイツ人将校は、カトリックの信者で、ドイツの敗色が強くなったので助かるために父スピルマンに親切にしたのではなく、いつも常に、人道的に親切な人だったようです。『あの時のヒーローは、父ではなく、父を命がけで助けた友人たち、そしてあのドイツ人将校だったのです!』と、ご子息は言っていました。一時間半ほどの講演でしたが、ユダヤ人の1つの足跡に触れることが出来、とても感謝なひと時でした。

 民族の大危機の中にも、愛が動き、愛が示されたのですね。二度とあのような時代がこないように願い、ショパンを聞きたい心境の九州豪雨、コロナ禍の渦中の私です。

(ワルシャワのユダジンゲットーの記念建物です)

.

自然の理

.

.
このところ社会の中に、頻繁に起こっている社会現象ですが、「ごまかす」ことが横行しています。漢字では、「誤魔化す」と書くのですが、この言葉には、二通りの由来があります。一つは、『これは、<弘法大師 >が焚いた、ありがたい<護摩の灰>です!』と、ただの燃えかすの灰を売り歩いて、ご利益のある<ありがたい灰>だと言って、<護摩☞誤魔かし>て、善男善女を騙したのです。それで、この詐欺行為を、「ごまかす」と言ったのだそうです。

もう一つは、江戸時代に売られていた、「胡麻(ごま)菓子」から来ているのだそうです。この菓子の香りは良かったのですが、中身は空っぽだったのだそうで、そう言う騙しごとを、「ごまかす」といったと言うのだそうです。本物に、偽物を加えたり、混ぜたりしていることも多いのです。

そういったことが大手を振って、罷り通ってしまう現代社会に、呆れかえってしまいます。計量も、裁量も、報道も不正が多くみられる時代です。昔、ニューヨークからやって来た方が、こんなことを言っていました。『もし、<裁き>があるなら、最も厳しく裁かれるのは、弁護士でしょう!』とです。アメリカの社会でも、そうなのですから、日本も、何をか言わんやです。裁判所で、時に民事の裁判の時には、双方の弁護士の間で、<裏取引>をするのが通例なのだそうで、どうも、この職業が弱者の味方だとは言えないのかもしれません。

裁判官も、先頃取り沙汰されていた検事も、公正さから逸脱している例がありそうです。政治の世界も、清廉潔白な世界などではないことが、馬脚を表している様です。教育の世界はどうなのでしょうか。期待し過ぎてしまうと、裏切られることがありそうです。結局は、一人一人の生き方なのでしょう。やはり、正直に生きたいなと思うのです。騙されても、人を騙すことはしないで、もう少し生きて行きたいものです。
.


.
朝顔の咲いている様子を、もう何年も観察し続けているのですが、自然界は、《正直な世界》だということが分かります。朝に夕に水やりをして、美しく咲く様を褒めたり感謝したりすると、気持ちが伝わるのでしょうか、精一杯に花を開いてくれます。ただ、こちらに向いてではなく、陽の光に向かって花を開くのです。

華南の街で、二度目に住んだ家には、小さな庭がありました。高い石段の下に岩があって、その端っこで、小さなが花が咲いていました。朝顔もこの小さな花も、「自然の理」に従って生きて、咲いて、見る者を喜ばせ、励ましてくれるのです。そこは、まさに「誤魔化し」のない世界です。

(華南の野花と今朝〈7月7日〉の朝顔です)

.