わたらせ渓谷鉄道の旅

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昨日は、『出掛けてください、あなた!』と言う家内に押し出されて、栃木駅から両毛線で桐生駅に行き、桐生駅で「わたらせ渓谷鉄道」に乗り換えて、足尾駅まで出掛けてきました。全線41.1kmの、ジーゼルエンジンの気動車でした。この鉄道事業について、日光市の案内などに、次の様にあります。

『足尾銅山を支えた物流システムは、当初は近世街道を主要経路とし、馬車道や鉄骨橋梁(古河橋)の整備、簡易軌道、馬車鉄道、架空索道、足尾鉄道の開通まで、多様な方法が行われました。地表の軌道や道路のみならず地下や上空も利用して、立体的かつ複雑な物流ネットワークが形成されました。また、足尾銅山は、日本で民間初の私設電話が架設された場所であり、足尾銅山全域と関連施設を対象に独自の電話網が整備されました。

わたらせ渓谷鐵道の前身である足尾鉄道は、足尾銅山の貨物輸送を目的として1911(明治44)年4月15日に下新田~大間々間で開業しました。その後、神土(現・神戸)まで、沢入まで、足尾までと部分開業を重ね、1914(大正3)年8月26日に足尾本山まで全通しました。最初に開業した下新田~大間々間が、まもなく2011(平成23)年4月15日に開業100年目を迎えるのを皮切りに、2014(平成26)年8月26日まで開業100年目ラッシュが続きます。足尾鉄道~国鉄~JR~わたらせ渓谷鐵道と続いた鉄路は、貨物輸送から観光客輸送へと形を変えながら、今なお輝き続けています。・・・平成21年には、足尾駅や通洞駅などが、「国登録有形文化財」に指定されています。』

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単線の鉄道ですので、途中駅で、上下線の待合停車時間が、5分ほどあって、電車の運転手の方に話しかけて、お話を聞かせてもらいました。「わたらせ渓谷鉄道」には、31年の歴史があり、この方が入社した当時、旧国鉄・足尾線時代に運転手をされていた方がいて、この鉄道にまつわる面白い話を聞かされたそうです。

『みなさんには楽な仕事に思われるんですが、神経を大変使って運転しているんです!』、『夜間走行時には、カモシカや日本シカが線路上に出てきて、轢(ひ)いてしまうことが、3週間に一度くらいあるんです!』、それで質問を私がしました。『事故処理は、どうされるんですか?』と、すると、『電車を止めて、線路上に降りて、自分でするんです!』と話されて、その為の道具の入ったカバンを示してくれました。

私の下の息子ほどの年齢の運転手さんで、いききと強い責任感をもって、輸送業務に当たられていて、実に爽やかな方でした。田舎の第三セクターの小規模の鉄道事業に従事されているのですが、JR新幹線の運転手に負けず劣らず、素敵な笑顔と凛々しい男の顔を見せて運転されておいででした。

足尾駅からは、日光市営バスに乗車し、山道を走って、東武鉄道日光駅で下車し、そこから東武日光線で帰ってきました。行きの電車には15人、帰りのバスには、途中で降りたご婦人を含め5人の乗客でした。前日が雨でしたから、緑が映えて、渓谷に流れも豊富で、何よりも空気が美味しかったのです。『あなた!』と言って送り出して家内に感謝した1日でした。家内は、訪ねて来られて友人と女子会でした。

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例幣使街道かみなりに扈従され 平畑静塔

「扈従(こしょう/貴人や主人に従うこと)」とは、難しい言葉を詠み込んだものです。ほとんど毎日、私は、この令和の「例幣使街道」を通ったり、横切ったりしていますが、うやうやしく行き来する、京の都の公家の一行を、この街の人は眺め続けていたんだと思うと、自分も江戸期に引き込まれていきそうです。

そんな行列に、情容赦なく雷光を放ち、雷鳴を轟かせ、雷雨を降らせ、軒や木下に身を避けたんでしょうか。昨晩は、夜空に雷光が走り、天の大太鼓を打ち鳴らし、車軸を流す様な大雨でした。

昔から、雷嫌いの人が、この時期は蚊帳の中に隠れ込んだりして、けっこう多いのだそうですが、私は、煌めきも、大音も、大雨も大好きなのです。アルバイト中に、突然の雷雨を避けて、雨宿りした木に、そこを私たちが立ち退いた後に、落雷があって、木の下に避難した人が、打たれて亡くなったことがありました。それなのにです。

大陸の雷を、昨晩は思い出して、窓を開けて、閃光の走る夜空を、しばらく見上げていました。あれに比べると、昨夜のは、まだ〈丁稚ドン〉、まだ未熟な雷さまでした。中国大陸の空が広いからでしょうか、大太鼓を打ち鳴らしている様な、憂さを大払いする様な、遠慮の綱を切り捨てた様な、轟わたる雷鳴を、腹の底に感じて、わだかまりがみんな飛び出ていく様でした。

その雷雨の雨脚も半端ではありませんでした。瞬く間に道路を溢れさせてしまい、河のような流れを作ってしまいます。車軸を流すなんて半端なことではありません。何でもかんでも押し流していくほどです。鳴り止み、降り止むと、何もなかったように平然としてしまうのがいいのです。

お陰で、昨夜は、よく眠れました。峠を越したのでしょう、遠雷を子守唄のように聞いているうちに、眠りについたのです。

下野の梅雨の雷住まいおり
雷にさあねんねしなと子守唄

今朝は、もう夏の日が照り始めてきています。雷一下、酷暑の季節の到来です。また家内の手をとって、大陸に轟わたる雷鳴を聞きに戻りたいと願う梅雨の晴れ間です。

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このところ一ヶ月ほど、〈虫〉が騒ぎ続けて、止むに止まれず、先週、市内バスに飛び乗って出掛けてしまいました。何の〈虫〉かと言いますと、「カツ丼虫」でして、仕切りに食べたくなってしまったわけです。

在華の折にも、時々、この〈虫〉が騒ぎ始めて、困ったことがありました。バスに乗って出掛けても、煮ても(?)似つかない〈カツ丼もどき〉では、〈虫〉が収まらないのです。子どもの頃に、父が食べさせてくれた記憶が、ムズムズと騒ぎ出したからなのでしょう。

東京オリンピックが開催された年、1964年に開店した「食堂」を、ネットで見付けたのです。ここの市内バスは、利用者が少なくて、行きも帰りも私ひとりの貸切でした。昼前に着く、ちょうどの便があって、それに乗ったのです。勇んで入店し、『カツ丼ーン!』と注文したのです。市の北の外れで、過疎化も進み、コロナ禍もあり、一組の客と私と、しばらくしてやってきた男性客だけでした。

ご多分に洩れず、近づかない距離に席をとって、座っていました。切り盛りが上手なのでしょうか、ものの五分もたたずの『おまちどうさま!』でした。農村地域にあって、隣町への幹線道路沿いで、トラックの運転手さんが常連なのでしょう。体を使う人の濃いめの味で、爺さんの私には、ちょっと濃いめでした。が、やはり人気店とあって、美味しかったのです。開業以来のたれに、55年も継ぎ足しているとかで自慢の味に偽りはありませんでした。

また6月1日、『身の回りの世話をしてくれるので、休ませて上げたい!』と家内が言って、この正月に家族会をした施設に、二泊三日のお泊り遠足に行ったのです。コロナ緊急事態宣言明けで、営業を再開した初日で、私たちの他には、どなたもいませんでした。借り切り状態で、二人っきりでも、好い賄いもしてくださって、好い時を持てたのです。

その余韻と甘えでの「カツ丼」でした。『たまに出掛けて!』と言われて、その気になっています。家内が、長らく飲んできました、痛み止めも、だいぶ前から4mm錠から2mm錠に減り、毎日が二日に一回の服用薬になってきています。その他の薬も様子待ちで、休む様になったりして、何となく安心がやってきているのです。発病以来、一年半が過ぎ様としています。みなさんの応援と、お支えに感謝しております。ところで、このカツ丼は、今のところ家内には、味が濃過ぎて一緒には無理の様です。いつか一緒できるでしょうか。

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八仙花

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外出を控える日々ですが、たまに買い物や通院での外出時、道端の庭の植木に、「紫陽花(あじさい)」が綺麗だと思ったら、案の定、北関東も梅雨入りとなりました。

どうして、だれも読めない様な漢字をあてて、「あじさい」を表記したのかなと思うのです。“季節の花300”に次の様にあります。

『開花時期は、 6/ 1 ~ 7/15頃。ちょうど梅雨時期と重なる。紫陽花は日当たりが苦手らしい。

名前は、「あづさい」が変化したものらしい。「あづ」は「あつ」(集)、「さい」は「さあい」(真藍)で、青い花が集まって咲くさまを表した。「集真藍」「味狭藍」「安治佐為」 いろいろある♪

日本原産。本来の「紫陽花」とは、唐の詩人の白居易さんが命名した、別の紫の花のことで、平安時代の学者、源順(みなもとのしたごう)が今のあじさいにこの漢字をあてたため誤用がひろまったらしい。(でも、いい雰囲気の漢字)中国では「八仙花bāxiānhuā」または「綉球花」と呼ぶ。 

色がついているのは「萼(がく)」で、花はその中の小さな点のような部分。しかしやはり萼(がく)が目立つ。「萼(がく)紫陽花」の
 ”萼”は ”額”と表記することもある。

花色は、紫、ピンク、青、白などいろいろあり。花の色は、土が酸性かアルカリ性かによっても変わるらしい。酸性土壌→ 青色っぽくなる、アルカリ性土壌→ 赤色っぽくなる。

また、花の色は、土によるのではなく遺伝的に決まっている、という説もあり、また、定点観測していると、青 → 紫 → ピンク、とゆるやかに変化していくものもあるので、決定的な法則はないのではないか、と思います。

江戸時代に、オランダ商館の医師として、日本に滞在したシーボルトは、この花に魅せられ、愛人の「お滝さん」の名前にちなんで、学名の一部に、「オタクサ」otaksa の名前を入れたとのこと。(でも実際には、それより前に既に学名がつけられていたため、シーボルトがつけた「お滝さん」の学名は、採用されなかったらしい)』

紫陽花やはなだにかはるきのふけふ

これは、正岡子規が詠んだ句ですが、「はなだ」とは聞きなれない語です。紫陽花の花の色を、そう言うのだそうで、「薄い藍色」のことです。「灰色がかっている青」を、そんな色の名を決めた、昔の人の観察眼には、驚かされてしまいます。色が微妙に変化するのを、子規は詠んだわけです。明治人の国語力にも驚かされます。

梅雨入りと紫陽花は、一対の様です。私たちが住んでいた華南の街の北の山間部に、清の時代のおわりごろからでしょうか、外国人が華南の街にも住み始めて、避暑地として利用した小高い山の部落があって、そこに紫陽花が綺麗に咲いていました。今頃は、日本と同様に、最盛期でしょうか。子規の「昨日今日」を、「きのふけふ」と記すのもいいですね。

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代返

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私の学んだ学校に「百番教室」がありました。その教室で、「法学」の授業が開講されていたのです。一般教養の必修科目で、受講学生も多かったのですが、この担当教授が、名前を呼んで出席をとったことがありました。

大分県別府から入学してきた「古村潤(仮名)」を、教授が呼んだ時、ちょっと間をおいて、『はい!』と返事がありました。彼は出席していなかったのです。今もあるのでしょうか、〈ダイヘン(代理返事)〉だったのです。家を行き来する学友だった彼の〈ダイヘン〉は、なんと女子でした。教授は二度呼んで、二度答えた彼女に、なぜか『本当に君は古村潤なんだね?』と言って聞き、また彼女は『はい!』を答えたではありませんか。それで出席簿に記入したのです。

ところがこの教授は、卒業後の数年後にあった、古村の結婚式の媒酌人をしていたのです。彼と教授が、そんなに親しい関係だったのを、その時、初めて知って、驚いたのです。その教授は、体が不自由でしたので、足を引き摺りながら、教室に入って来て、教壇に上っていました。

聞いたことはなかったのですが、この先生は、彼の父君の部下だったのだろうと推察した私でした。大陸で、敗戦後の残留軍の指揮をとって、多くの部下を戦死させた悔いを、父君は感じていたそうです。内乱が落ち着いて、生き残りの部下を日本に帰還させる見返りに、自死して責任を取ったのが、彼の父君でした。部下の兵士と共に、帰国することもできたのにです。

ところが父君の上官は、部下を騙して残留させて、秘密裡に、初期に、日本に帰国していたのです。それが日本の旧軍の隠し持っていた弱さだったに違いありません。それに引き換え、彼の父君は「真正の武人」だったのです。

〈ダイヘン〉を断行し、押し通した女子も、なんと言う〈度胸女子〉だったことでしょう。遠くにいて、だれかを確かめられないままで終わりました。さらに、そう言って押し通した〈ダイヘン〉を見逃すことのできた教授も、事実を知っていたのに、実に心の寛い人だったのには驚かされたのです。これも青春の日々の面白い一コマであります。

(綺麗な別府湾の風景です)

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大陸のこと

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『人を見たらドロボーと思え!』とは、ずいぶん猜疑心の強い、〈人間観〉ですが、昨今は、『人を見たらコロナと思え!』と言い換えていて、敬遠、いえ忌避が普通になってしまい、人との関係が希薄、疎遠になってしまい、つまらない時代を迎えてしまいました。

先日、近くの公園で、ベンチに座ろうとしたら、すでに座っていた方が、家内が、日向に座らないでいい様に、自分の座っていた席を譲ってくれたのです。いたく感謝した家内と私と、この方と3人で会話が始まりました。

私より4歳ほど若く、長くダンプを転がして生きてきたそうで、昨年暮れに奥様を病で亡くされたそうです。闘病生活、病院談義、読んでいた本、自分は料理ができないで、出来合いを食べ繋いでいること、子どもがいないことなど、なにかと内輪話をされたのです。

孤寂(こじゃく)をかこつ、独りぼっちを語っておいででした。厳(いか)つい男性の様ではなく、事務系の仕事をして来た様にしか見えないのです。いくつかの公園に行っては、日光浴をしたり、相席の方と談笑して、食事時になると、スーパーで弁当を買いに行く日を重ねているとのことでした。

〈老い〉と〈孤独〉、これがわれわれ年配者の心なのでしょうか。それに、コロナ騒動で、人との距離が遠くなってしまっているわけです。家内は、携帯していたバッグの中にある小冊子を、この方に差し上げていました。亡くなられた奥様は、本が好きでいらっしゃったそうで、この方も感謝して受け取られました。

ヘミングウエイの「老人と海」の話を、英語の教科書で学んだことありました。キューバ人の老漁師とカジキマグロとの死闘を描いていました。その文中に、ライオンが、夢の中で登場します。若い頃の彼の姿を投影しているのでしょうか。力や若さを象徴しているのかなと、今になって思わされています。

そういえば、自分も、若かった頃の失敗や成功を思い出すことが多くなってきています。老いたからでしょうか。恥ずかしい過去の方が、はるかに多いのですが、それも皆ひっくるめて、自分そのものなのでしょう。『若者は幻を見る!』、しかし『老人は夢を見る!』と言われますが、家内は、よく夢を見ては、朝食の時に、その夢を話してくれます。

〈夢幻の如き人の一生〉と、人の世の儚さを言うのですが、様々に人と出会い、別れ、また再会したり、結構楽しい年月だったのが、私たちの共通することです。『難波のことは夢の夢!』と秀吉が言ったそうですが、《大陸のこと》は、思い出すたびに、実に祝福の時と出来事だったのです。そこに素敵な出会いがあり、自己発見も、国家間の過去の禍根の和解もありました。

(私たちの住んだ街に咲いていた「ブーゲンビリア」です)

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お父さん

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同じ年の生まれに、実に綺麗なボーイソプラノの歌手がいました。三宅公一という歌手でした。この人の歌ったのが、昭和33年、作詞が野村俊夫、作曲が船村徹で、「逢いに来ましたお父さん」でした。
 
1 母さん作った 日の丸べんとう
  一人たべたべ 汽車の旅
  夢でみていた 東京の町を
  地図をたよりに 九段まで
  逢いに来ました お父さん

2 泣き泣き拝んだ 靖国神社
  合わす両手に 桜散る
  待っていたよの たゞ一言を
  聞いてみたさに はるばると
  逢いに来ました お父さん

3 お別れした時ゃ 乳呑児だった
  丁度あれから 十五年
  つらい淋しい 片親そだち
  故郷(くに)のはなしを お土産に
  逢いに来ました お父さん

小学校の同級生にも、中学、高校、大学の同級生にも、母子家庭の子がいました。父のいる私には、そんな級友の寂しさや、辛さ、切なさなんか分かりませんでした。でも、みんな精一杯に戦後を生きていたのです。お母さんが八百屋の店員をしていた同級生も、後に市長を務めた同級生もいました。

お母さんが、電電公社(今のドコモです)で働きながら、息子を私立の高校に行かせていました。とびっきりの悪戯小僧で、よく気が合って、家に遊びに行ったりしたのです。卒業して、何年も経って、同窓会に出た時に、その頃、私は酒をやめていましたが、彼の行きつけの新宿の飲み屋に寄って、彼の家に泊めてもらったのです。

その客間の長押(なげし)に、軍帽をかぶった軍人の写真が掲げてありました。高校時代に行った時の家は、お母さんの家でしたが、泊めてもらったのは、彼が建て替えた、有名な設計士による家でした。彼のお父上のいない理由を聞いたことがなかったのですが、その時初めて彼の生まれを知ったわけです。

その同窓会がはねた後、飲み屋で、彼が歌っていたのが、「上海帰りのリル(1951年津村謙が歌ったものです)」でした。お父上は、大陸で戦死したのでしょう、亡父の死地を思って、切々と歌っていました。その後、私は、華南の地で生活をしたのですが、私の父も大陸で過ごした年月がありますから、いつかまた会って、いろいろと話をしてみたいと、今思うのです。
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高倉健の映画に誘ってくれ、一緒に観た同級生のお父上も、大陸の太原(たいげん)で亡くなっています。彼は、自分の父親を語ってくれたのです。有名な大将の弟君で、ベルリンオリンピックの馬術競技に、補欠に選ばれ、渡独したほどの名手だったそうです。子どもの頃、お母さんの故郷の九州で育っていて、その家に残された『父の軍帽をかぶって、チャンバラをやって遊んだ!』と言っていたのを思い出します。学校に行っていた頃、この彼を、家に連れて来て、私の父にも会ってくれました。どんな気持ちで、父と話していたのでしょうか。

彼らは、どんな思いで、この「逢いに来ましたお父さん」を聞き、九段の靖国を訪ねて、逢えることなどないのですが、どんな思いで、父を亡くした戦争を思い返したのでしょうか。戦争が終わって後、どんな思いを抱きながら、これまで生きて来たことでしょうか。この8月で終戦75年になります。私たちのそれぞれの戦後であります。

(中国山西省太原の街の古写真、残留日本人を記録した書物です)

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global

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“ グローバル【global】” とは、goo辞書に、次の様にあります。
[形動]世界的な規模であるさま。また、全体を覆うさま。包括的。「グローバルな視点」

どうも習ったことがないと思っていたら、英語辞書の“英辞郎”によると、〈保険業界の用語〉なのだそうです。“globe” という「地球」という語からの用語です。「地球規模の」という意味で、日本語では、「グローバル化」の様に使っているのです。

現下のコロナウイルス騒動が、どこから始まったにしろ、地球規模の問題になっています。こんなに、国家間、人間と人間との間が、地理的に近くなったことは、かつてありませんでした。家内の兄は、1950年代に、ブラジルのサントスの港まで、延々と長い船旅で出掛けたのですが、十数年前、私が、南米に出かけたのは、カナダのトロント経由で1日強でしたから、考えられないほど地理的にも時間的にも近くなったわけです。

ところが、その反面で、人と人との〈心理的な距離〉が、なかなか取れなくなっている時代がきているのではないでしょうか。人種や言語の問題だけではなく、違った背景やモノの考え方の違いを越えられなかったりで、人との関係を避ける傾向が大きいのではないでしょうか。

この月曜日は、家内の通院日で、大学病院に、息子の運転、その息子、私たちの孫の同乗で出掛けましたが、検査士、主治医、看護師の他には会話がありません。廊下を歩いても、どなたも接近を避けようとして、距離を取られるのです。会釈の機会もなくなってしまっているのです。

コロナのせいばかりではなく、人間関係の煩雑さが大きくなっていっても、平気な時代になりつつあるのが、実に寂しいのです。そう、先日のホームセンターでの、『クソジジイ!』と叫んだあの婦人の様に、一方通行の言葉を、矢の様に放った言葉だけになってきているのです。

中学の担任が、『廣田君。おじさんたちに話しかけて、いろいろなことを聞いてみたらいい!』と言われて、それを実行したことがありました。なるほど、親以外に、いろいろなことを教えられたのです。それをしないで、数本の指でキーを打って、思いを文字化はするのですが、言葉で話をしない方が、今は良くなっでいる時代なのでしょうか。

家内は、散歩中に、向こうから来るチベットなどからやって来ている留学生のみなさんに、声をかけて、困ってることはないかとか聞いたり、激励したりしているのです。ベンチに座ってるご老人たちにも、何くれとなく語りかけています。庭で植木をいじっている方には、花を褒め、育て方を聞いたりしています。《人が人である》のは、会話による交流や関係があるからなのでしょう。

これ以上、人と人とが疎遠にならない様に、心から願う、梅雨突入の六月の半ばです。

(“GAHAG”による地球です)

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事実

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第一次世界大戦は、ボスニア系セルビア人の民族主義者によって、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、暗殺されると言った事件(サラエボ事件)が契機となって、ヨーロッパ中、いや世界中を巻き込んだものでした。一人の十代の青年の暴挙が、原因となったわけです。

この青年の心を捉えた「ナショナリズム(民族主義)」ほど、厄介なものはないのです。優秀な男子が、「大セルビア主義」に心酔し、間違った愛国主義によって、世界を震撼とさせてしまったわけです。結果的には、犯人は死刑を求刑され、入獄中に病気で亡くなり、セルビヤ王国は滅亡し、新しい「ナショナリズム」である、戦争責任を問われ、多額の賠償を課せられたドイツに、「ナショナリズム」の象徴たる「ナチス」を台頭させるに至りました。

ナチスは、容姿にも人間的にも優秀な「アーリア人」の支配で、世界を治めようとしたのです。その「第三帝国」も、ナチスの結党後、12年で終わるのです。日本でも「大日本主義」による、東亜五族の支配を目指して戦争に突入しました。しかし、敗戦によって、それは霧散してしまったではありませんか。

しかし今、また民族主義が起こりつつあります。緻密で機敏、工夫や改善によって、世界に冠たる物造り国になって久しい日本が、敗戦の荒廃の中から、不死鳥のように生き返ったのは、この民族の「優秀性」や「優越性」であったと、必要以上に誇示しようとしています。

確かに勤勉で、諦めないものを私たちは、父母や祖父母から受け継いでいます。でもマイナス面も、私たちの国民にはあることも知っておく必要があります。

これまで地下鉄やJRの運転遅延に、何度か遭遇したり、乗り換えの路線変更のアナウンスを何度も聞いてきました。そのほとんどは「人身事故」だったのです。走って来る電車の前に、身を投げ出す事故が、止みません。また鬱病の発症率も高くなり、その予備軍は信じられないほどの数だと言われています。

本当に、私たちが優秀な民族であるなら、どんな人生の重圧をも、跳ね除けて、耐えられるに違いありません。そうできない民族の弱点が露呈されていることは確かです。

自分の生まれた国を愛し、感謝し、そして同胞と共に、さらに素晴らしい国を造ることは素晴らしいことです。困っている国には、いつでも援助の手を延べ、近隣の国とは、友好関係を育てていくことです。過去については、しっかり謝罪をし、二度と過ちを犯さないことを確約するのです。それは、必ず努力すれば可能です。

孫たちには、必要以上に愛国心を煽らないようにしています。しかし、しっかり歴史を学んで欲しいのです。《偏向した歴史観》ではなく、「過去の事実」を知って、自分の国の未来を考えられる人になって欲しいと思っています。そして、自分の幸せの実現ためだけではなく、いつも《他者(他国や他民族を含めて)》を考えられる人になって欲しいのです。大小さまざまな社会問題の中から、自分たちだけを意識した「ナショナリズム」の叫びが、世界中から聞こえてくる只中で、そんな思いにされています。

(ボスニアの一風景です)

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卵売り

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作詞が佐伯孝夫、作曲が利根一郎の「ミネソタの卵売り」と言う歌が、ラジオから流れて聞こえて来たのは、1951年2月のことでした。

ココココ コケッコ
ココココ コケッコ
私はミネソタの卵売り
町中で一番の人気者
つやつや生みたて 買わないか
卵に黄味と白味がなけりゃ
お代は要らない
ココココ コケッコ

ココココ コケッコ
ココココ コケッコ
私はミネソタの卵売り
町中で一番ののど自慢
私のにわとり素敵です
卵を生んだり お歌のけいこ
ドレミ ファ ソラシド
ココココ コケッコ

ココココ コケッコ
ココココ コケッコ
私はミネソタの卵売り
町中で一番の美人です
皆さん卵を喰べなさい
美人になるよ いい声出るよ
朝から晩まで
ココココ コケッコ

実は、ミネソタにも、ロサンゼルスにも、シカゴにも、「卵売り」はいなかったそうですし、今もいない様です。実は、「◯◯の◯◯売り」と言う歌のシリーズが、1950年頃からあって、「リオのポポ売り」、「チロルのミルク売り」というレコードが、日本で売り出されて、その三部作の最後が、この「ミネソタの卵売り」だった様です。

戦争に負けた日本に、アメリカの朝食、「目玉焼きとハム」、「スクランブルエッグとソーセージ」が、憧れの朝食の様に流行って行く時代の歌でした。それはアメリカ食文化の象徴の様な食事でした。

この歌で歌われた、「ミネソタ」は、カナダと国境を接した中西部の州で、州都はセントポールです。その大きな街ミネアポリスで、アフリカ系アメリカ市民が、複数の警官の過剰な確保によって亡くなり、その行為に抗議する運動が起こって、全米に飛び火していて、まだ収まりません。

アメリカ社会には、深い「人種差別問題」があります。リンカーンは、そう言った問題のさなかで、暗殺されています。日本でも、「部落のみなさん」が根強い差別を喫して来ています。同じ血、同じ文化の中にいながら、江戸時代の「逃散」などによって、山中や町外れの一郭に住み着いたみなさんを、部落に閉じ込めて発生しています。

民族的にも、経済的にも、文化的にも〈優位に立ちたい心理〉が、そういった差別や虐待を生んできています。学校で見られる、〈いじめ〉も同じ根を持つ社会問題です。みんなが譲り合って、美味しい卵料理が食べられるような、平和な市民生活がなされる、大きな転換の事件にして行きたいものです。

(「ミネアポリス」の写真〈ウイキペディアから〉です)

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