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落語の醍醐味は、「間」にあるのではないかと思っています。話の間に、短い沈黙を置くのです。『次はなんて言うのか?」』を考えているのでも、次の言葉に期待を持たすためでもなさそうです。なんともいえない、潤滑油のような「間」なのです。

結構、長い話をするのですから、たまには〈ど忘れ〉だってありそうです。話が詰まってしまうのです。それを、「間」にして、上手にやり過ごしています。

噺家(はなしか)で名人と言われた六代目の三遊亭円生は、6才の時に、20ほどの演目を持って、高座に上がるほどだったそうです。通常、真打は、30~40年の間に努力して100席ほどが普通なのだそうです。ところが円生師匠は、何と300席を、いつでも、どこでも自在に演じることが出来た方だったそうです。『え~一席、ばかばかしいお話を・・』と、よどみなく話し出す落語なのですが、それだけ、たゆまぬ研鑽を積まれた円生師匠に敬意を覚えさせられたのです。

この円生師匠でも、噺を〈噛む〉ことが、ままあったのです。でも上手に、次に続けてしまうのです。それも噺家の手連れ(てだれ)の技なのでしょうか。それでも、落語家のみなさんが、決して言わない言葉(?)があります。聞きづらい『えー』、『あのー』です。その代わりに、「間」があるのかも知れません。

〈間抜け〉と言われたことが、私にもあります。これを、“ 笑える国語辞典 “ では、『間抜けとは、おろかで要領が悪いこと、また、そういう人をいう。「間」とは、物と物や音と音に挟まれた「抜けている」部分を意味し、「抜けているところ(間)」が「抜けて」いるとは、「抜けているところがさらに何かが抜けている」のか、「抜けているところがちゃんと抜けていない」のか、いまいちよくわからない言葉だが、要は「抜くべきところ(間)」の抜き方が悪くて、物と物や音と音の間隔がアンバランスになっていることをいうらしい。もっとも、語源についてあれこれ考えなくても、間抜けなやつというのはふたことみこと言葉をかわせばすぐ判別できる(自分が間抜けだったら、わからないかもしれないが)。』とありました。

人生にも、この「間」があります。今回の騒動で、強制的な「間」を、私たちは持たされたのですが、それを、〈与えられた間〉と理解したいのです。次が輝いたり、落ち着いたり、楽しくしてくれる「間(余裕)」になります様に!

("pitarest"の裂け目(間)に生える雑草です)

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生かされたこと

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人の願いのうちには、後世に、〈自分がいたことの証〉を残しておきたいと言う願望があるのだそうです。そういえば、一国の大統領や首相を務めた方は、将来の叙勲の前とは別に、在任中の国家への貢献を形で残したいと願う様です。

名を残すだけではなく、例えば、条約の批准、公社民営化、憲法改正など、『あの領導は、こんなに偉大な事業を成し遂げられたのです!』という称賛を、自分と家族、そして一族が受けることを切望するのです。

秀吉は、聚楽第や大阪城の造営や、朝鮮出兵で国土の拡張、豊臣一族の繁栄と栄華を求めましたが、六十年の生涯を終え、『難波のことも夢のまた夢!』と思い返して、何一つ持つことなく、棺が彼を納めたのです。あの栄誉や奢りはどこに行ってしまったのでしょうか。関白職を受け継いだ姉の子・秀次は切腹させられ、秀頼は自害、豊臣は露の様に失せたのです。

次いで天下を収めた徳川家康は、百家争鳴の戦国の世を平定して、長期政権の基礎を据えましたが、七十五歳で亡くなり、久能山と日光に、亡骸は葬られました。家督を息子や姻戚に譲らねばなりませんでした。まさに栄枯盛衰、人の命は、かくも短いものなのです。富と地位を得ても、王も将軍も大統領も首相も、寿命には勝てませんでした。

『虎は死んで皮を留める!』のだそうですが、いったい、自分は何を残すのか、考えてみましたが、何一つ見当たりませんでした。内村鑑三は、『金を残せ!』そうできなかったら『事業を残せ!』、それもできなかったら、『思想(書)を残せ!』と言いました。歴史を見て、そうできた人は、ほんのわずかでした。そして、もう一つ、これなら誰にもできることを上げたのです。『勇ましく高尚な生涯を生きよ!』とです。

私の恩師は、書を残し、弟子を残しました。私の書庫には、その本がきちんと納められていて、時々紐解きます。ところが私は、一冊の本も著すことがありませんでした。また一人として弟子を持つこともありませんでした。さりとて、勇ましくも、高尚でもなく、凡凡たる生を積んできただけです。

この凡庸とした生を、どう言ったらよいのでしょうか。自分で、自分の生を肯定でき、感謝でき、満足を覚えるなら、それでよいに違いありません。欠点の多い私を、多くの方たちの忍耐や激励や諭しが与えられて、『生きよ!』と声を掛けてくださり、他方面にわたって助けてくださいました。

一人の妻の夫であったこと、四人の子の父であったこと、幾らかの学生の教師であったこと、そう生きられたことを感謝しています。100まで生きたいのですが、こればかりは自分では決められません。ただ定められた来た道を、さらに前に向かって、一歩一歩と行くのです。生きたこと、いえ《生かされたこと》で満ち足りたいのです。

(「アマナイメージズ」の張子の虎です)

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社会的距離

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最も密集している場所を考えてみると、ラグビーの「スクラム」ではないかなと思うのです。私が学んだ高校の体操の時間、冬場には、そのラグビーをやりました。スクラムを組んで、肩や頭や耳の密着度は、半端ではないのです。男同士で、あんなに密着が許されている競技は、他にありません。

汗臭い男の匂いを放つスクラムの中にいると、変な趣味のない私でも、一体感や仲間意識の強さに、圧倒されるほどいい気分になったのを思い出します。自分のチームの確保するボールを、一歩でも前に進めるための闘いは、今思い出すだけでも、『またやってみたい!』と思わせられ、醍醐味にあふれていたものでした。

バスケットボール、ハンドボール、テニスボールをやってきましたが、授業でのラグビーをした経験が、なんとも一番懐かしさを感じさせられています。

「社会的距離(なんですか、最近のコロナ禍の中で英語では"ソシアル・ディスタンス“ と言ってますが)」という言葉が、社会学の中にあります。親子の距離、友人間の距離、師弟の距離、恋人の距離、夫婦の距離などがあって、それぞれの密着度が違います。” タッチング/touching “ と言う学問用語があって、他者の入り込めない距離があるのです。

私には、母のおんぶや抱っこ、父の抱きすくめ、兄からのパンチ、友人との肩組み、好きになった女の子のそばに寄りたい願望、恋人願望、そして結婚関係、様々な人との距離があって、自分とまわりにいる人たちとの距離を測りながら生きてきています。

サンパウロの地下鉄の駅近で、日本人のお年寄りが、寄り集まっていた光景が、印象的だったのです。しかも、無言で、ある一定の距離の中に集団化していたのです。異様には感じませんでしたが、同国人、同郷人の間の〈その距離〉が興味深かったのです。寂しさを埋め合わせる様な接近が見られたからです。

中国でのしばらくの生活の中でも、父子、母子、戦友、友人の間の「肩組み」の中に、その社会的距離を、私はよく見かけたのです。自分では、もうしなくなった「肩組み」を、ちょくちょく街中で、見かけたのです。中国での男性間の心理的な、また肉体的な密着度の高い関係で、一番近いものは何かというと、《戦友間》なのだそうです。軍隊に行くことの多い国柄、国防に励んだ者同士の距離が、最も近いのだと聞きました。

中国で、国語教師をしている間、一度だけですが、女子学生から、『先生ハグしてください!』と言われたことがありました。ちょっと驚きましたが、けっこう積極的な国民性も分かっていましたから、躊躇なく、肩を合わせるハグを、みんなの見守る中で交わしたのです。彼女は、『ありがとうございました!』と言って教室から出て行きました。その年度の最終授業の後でした。私の授業への感謝もあったのでしょうか。

〈社会的な距離を取る様に〉との現代の社会現象の中で、人間関係の希薄化が、ちょっと心配になっています。必要以上の距離の中に、人への拒否、それによる孤独化の傾向が、少々心配です。接近拒否、接近躊躇は、人間本来の性向に反するからです。群れようとする集団化は、基本的な願望です。所属と接近の要求が、誰にでもあるからです。

ここの川の鯉は、群れています。それに引き換え、白鷺は孤高を楽しんでいる様に見えても、時々、目の前の屋根に群れて止まっているのを見受けます。生物の基本的な願望が阻止されない様に、父や母とのこと、兄や弟との喧嘩、友だちとの取っ組み合い、知人との握手、初めての口づけなど、遠い日が昨日の様に思い出されます。

(「音楽の手帳」からスクラムです)

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創造的休暇

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「引力」を小学校で学んだのですが、丼やコップを落して、割ってしまうのは、不注意だからとばかり思っていたら、「引力」が原因で落ちるのだと分かって、自分のオッチョコチョイのせいにしないで、安心したのが昨日のことの様です。T大学に落ちたのも、引力が原因だったのかも知れません。

それは、「万有引力の法則」で、太陽系や宇宙の中にも働いているという法則で、アイザック・ニュートンが発見したものでした。アイザックは未熟児で生まれたそうで、誰も長生きするとは思いませんでしたが、84歳の長寿だったそうです。彼の誕生前に、お父さんを亡くし、おばあさんに育てられた内向的な性格でしたが、薬学に関心を向けて育ったそうです。

アイザックについてこんな話を見つけました。

『アイザック・ニュートンは万有引力の法則だけでなく微分積分学や光学の研究などでも優れた研究成果をあげました。
 1643年に英国で生まれて1661年にケンブリッジ大学に入りました。その学生時代にロンドンでペストが流行し、ケンブリッジ大学が休校に追い込まれました。ニュートンはペストを避けて1655年から1656年の間、故郷のウールスソープに戻りました。ここでの18カ月は研究するための時間として十分でした。
 彼がリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則に気付いた、という有名な伝説は、ここで生まれました。ニュートンの三大業績はすべてこの時期にになされたと言われています。そのため故郷に戻っていたこの期間は「ニュートンの創造的休暇」と言われるようになったのです。ニュートンは近世を中世から切り離した画期的な研究者、という評価を生みました。
 17世紀はヨーロッパの各地で ペストの流行が頻発した世紀でした。アムステルダムでは 1622年から1628年にかけて3万5000人程が死亡し、パリでは 1612年から1668年にかけて流行が何度かありました。ロンドンでも何度もペストが流行し、1665年の流行をダニエル・デフォーがルポルタージュの形で本にしました。(「独立メディア塾」の記事から)』
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今日も、世界中に甚大な結果をもたらせている「新型コロナウイルス騒動」の最中ですが、世界中で、「21世紀のニュートン」が誕生しているかも知れませんね。昨晩、華南の街の大学の先生から、FaceTimeがあって、『大学の再開は、九月以降にずれ込むかも知れません!』と言ってきたのです。アメリカに留学中の若い友人夫妻、私たちの住んだ家の持ち主ですが、間もなく卒業ですが、帰国がままならないと言っていました。

こう言った、〈ペストによる休校がニュートンの創造的休暇を生んだ〉事例に倣って、様々な法則が発見されているかも知れません。まさに「災い転じて福となす」になるに違いありません。今回の強制的な外出禁止で、不自由を味わったのですが、研究室や机の上では、驚くことが起こっているかも知れません。

今日日、最強のコロナ治療薬が、世界中で研究されています。私も、机に向かって見たい気持ちにされております。「一つの主題」について、教えられたこと、学んだことを思い返しています。家内も、友人の著した本や、図書館の貸し出しなどで借りた本を、一生懸命に読んでいます。もしかしたら「ユリの法則」が発見されるでしょうか。

(東京の小石川にあるリンゴの木です)

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魯迅

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仙台市の郊外に、耳鼻咽喉科があって、そこに入院し、手術を受けたことがありました。東京近辺にも上手な鼓膜再生手術をす医師がいるのですが、知人からの『仙台に名医がいます!』との紹介があって、身の回りの持ち物を鞄に詰めて、北に向かって東京駅から新幹線に乗りました。

仙台駅から、地下鉄に乗って、下車駅からタクシーで、目当ての病院に着き、五日間ほど入院し、手術を受けたのです。私の耳の鼓膜は、左右とも再生手術が必要とのことでした。術後の痛さは格別なものがありました。

帰京する日、仙台市内を見物をしようと、市内遊覧バスに乗って、伊達政宗の居城であった青葉城址(仙台城)に行ってみました。病院の周りは住宅街でしたが、駅周辺は綺麗な街でした。幕末の戊辰戦争での消失はなかったのですが、太平洋戦争末期のアメリカ軍の空襲で、城が消失してしまっていました。広瀬川が緩やかに流れていて、静かなたたずまいを見せていたのです。

この街には、戦前、仙台医学専門学校がありました。今の東北大学の医学部に当たります。東北大学のサイトに次の様にあります。

『この建物(仙台医専6号教室)は、「近代中国の父」といわれる文豪魯迅(ろじん)が学んだ場所、「魯迅の階段教室」として広く知られています。 1904年の建築後、改修・移築を経ながらも、今なお彼が留学していた頃の面影を残す歴史的な佇まいを見せています。』
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「狂人日記」や「阿Q正伝」や、この教室で教えを受けた、藤野厳九郎先生を語る「藤野先生」を著しいている魯迅は、1904年に、この医学校で学び始めています。やがて医学から、同国民の啓蒙のために文学に転向していくのですが、その切っ掛けとなったのは藤野先生との出会いと教えでした。その経緯は次の様に伝えられています。

『2年生に進級した魯迅は、細菌学の授業で思いがけないくらいに悲しいものを目にする。当時医学校では講義用に幻灯写真を用いていたのだが、授業時間が余ったときなどは日露戦争の「時局幻灯」を映して学生に見せていた(このころは日露戦争で日本がロシアに勝ったということで日本中がその勝利に浮かれていた)。そこでは、日露戦争のニュースで、ロシア軍スパイを働いた中国人が中国人観衆の見守る中、日本軍兵士によって首を切られる場面が流れており、観衆は万雷の拍手と歓声をあげたのだ(幻灯事件)。文章の中ではこのように書かれている。「いつも歓声はスライド1枚ごとにあるが、私としてはこの時の歓声ほど耳にこたえたものはなかった。のちに中国に帰ってからも、囚人が銃殺されるのをのんびり見物している人々がきまって酔ったように喝采するのを見た―ああ、施す手なし! だがこのときこの場所で私の考えは変わった。」魯迅は、今必要なのは医学ではなく、国民性の改革だと考えを変え、医学を捨てて仙台を離れる決意をしたのだった。』

魯迅は、「中国近代文学の父」と称されるまでの文豪になっていきます。今でも、魯迅は仙台市民に覚えられていて、「魯迅記念広場整備事業」が、仙台市によって進められ、2021年に完成予定だそうです。落ち着いたら、また訪ねたい街であります。

(魯迅の誕生地の「紹興」と学んだ東北大学の教室です)

分からない

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日本語の中には、漢語が溢れています。漢文を素読していたのですが、漢語を和語(日本語)に付け加えて、日本語が形成されてきたわけです。中学の国語の授業で、「漢詩」を学んだ時、「五言絶句」や「七言絶句」に、〈レ〉とか〈一〉とか〈二〉を付記して、日本語で読むのを学んだのです。


この李白の漢詩を、

早に白帝城を発す 李白

朝に辞す白帝彩雲の間
千里の江陵一日にして還る
両岸の猿声啼いて住(や)まざるに
軽舟已に過ぐ万重の山

と読むのです。その歯切れのよさに、私は、いっぺんに心を捉えられてしまって、漢詩の虜にされてしまったのです。外国語を、こんな風に、勝手に読んでしまうというのは、日本人の特技なのでしょうか。

それででしょうか、ヨーロッパ言語が、日本語の中に、独自の翻訳で入り込んできたわけです。幕末から明治初期のことでした。いわゆる「和製漢語」です。同じ時期に、日本で学んだ中国のみなさんが、それを母国に持ち帰って、中国語の中に取り込んだのです。

電気/電話/電車/自転車/病院/弁当/手帳/野球/雑誌/美術/組合/警察/出版/倫理/哲学/文化/原子/時間/空間/速度/温度/概念/理念/教養/義務/経験/会話/関係/理論/申請/演出/活躍/基準/主観/否定/接吻/失恋/目的/健康/常識/現金/工業/輸出/不動産/領土/投資/市場/企業/国際/経済/指数/債権/政治/革命/解決/社会/主義/法律/共産党/左翼/幹部/指導/議会/協定/市長/人権/批評/特権 他(OTONA LIFE | オトナライフから)

10年近く、中国の学校で、日本語を教える機会があったのですが、学生さんたちに、日本由来の中国語のあることを伝えた時に、みなさんには衝撃的だったのを覚えています。『まさか!』と思ったのかも知れません。

わが家では、テレビがない代わりに、“らじる?らじる” という、インターネットで放送されるNHKのニュースを、家内と二人で聞くことで、その日の社会の動きを知らされています。夕方6時50分頃になると、『ニュースを聞こう!』と言っては聞き始めるのです。

ラジオでニュースを聞いていて、家内と私の共通した思いは、十数年留守をしている間に、『カタカナ語が多くなって分からない!』、なのです。《美しい日本語》を持つ国なのに、必要以上にカタカナ語が濫用されているのではないでしょうか。ここまでの文章にだって、インターネット、テレビ、ニュース、ラジオと、カタカナ語を使ってしまっています。

でも最近、とみにカタカナ語が氾濫しているのではないでしょうか。都知事も、官房長官も、解説をする大学の先生たちも、必要以上に使い過ぎているに違いありません。それでニュースの全体が、伝わってきていないのです。それで、『ぜひ、用語の説明をしてほしい!』と思うことしきりです。

曜日感覚

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昨年の帰国以来、生活の仕方が、大きく変わってきているのです。それまでは、週に二日、学校に通い、日曜日の倶楽部活動に関わり、週の半ばには友人宅で交わりをすると言った、大体決まった型で、華南の街での生活がなされていました。家内も、小中学生に、週末に日本語を教えたり、外国語学校の先生たちの研修会や婦人たちの交流会で奉仕したり、人を訪問したりの、ほぼ決まった生活リズムがありましたが、病気をしてから一変しました。

昨年の四月の退院以降は、通院日が、週一、そして3週に一度の月曜日になり、今では、4週に一度の通院に変わってきて、〈曜日感覚〉が変わったのが一番大きいのです。ことさらコロナ旋風が吹き荒れてからは、その感覚が増し加わって、ゴミ捨ての日が大切な日になってしまったり、生活に変化が出てきています。

それでつい、『今日は何曜日?』と家内に聞いてしまいます。やはり単調な日が繰り返されていて、多忙で急な近代人の生活から、本来の人間らしい生活のリズムに戻ってきた様に感じています。

ハワイのカメハメハ王は、日の出と同時に起きて、日の入りに従って床に着くと言った生活をしていたのだそうで、次の様な歌までできています。

南の島の大王は
その名も偉大なハメハメハ
ロマンチックな王様で
風のすべてが彼の歌
星のすべてが彼の夢
ハメハメハ ハメハメハ
ハメハメハメハメハ

南の島の大王は
女王の名前もハメハメハ
とてもやさしい奥さんで
朝日の後に起きてきて
夕日の前に寝てしまう
ハメハメハ ハメハメハ
ハメハメハメハメハ

南の島の大王は
子どもの名前もハメハメハ
学校ぎらいの子どもらで
風がふいたら遅刻して
雨がふったらお休みで
ハメハメハ ハメハメハ
ハメハメハメハメハ

南の島に住む人は
誰でも名前がハメハメハ
おぼえやすいがややこしい
会う人会う人ハメハメハ
誰でも誰でもハメハメハ
ハメハメハ ハメハメハ
ハメハメハメハメハ
ハメハメハ ハメハメハ
ハメハメハメハメハ

この人は、性格が明るかったそうですが、ハワイを統一した人で、その名前の意味は、「静かな人」、「孤独な人」なのだそうです。私の息子の同級生で、同僚は、サモアの酋長の息子で、酋長を兄弟に譲ってしまったそうです。アロハシャツが似合って、ウクレレの演奏も上手です。

『何時か、さんさんと太陽の陽が降り注ぐ、常夏のハワイに行けたらいいなあ!』と願いながら、行動規制が引かれ、活動範囲が狭められた今を、そんな願いで過ごしている最中です。専門医や研究者によりますと、秋口、寒い冬になるまでは、十二分に自重した生活を送る必要があるそうです。

そんな私たちの生活は、4週に一度、息子の送迎で、通院する日が、唯一変化の日なのです。前回は、おにぎりを握って、病院の近くの川辺の東雲公園で、それを頬張ったのですが、家内は、大きめを二つも完食していました。次回も、『おにぎりが食べたい!」』のだそうです。

また、今年も、新しく住み始めた家のベランダで、朝顔の苗が伸び始めています。華南の街の家のベランダに咲いた朝顔の種を持ち帰ろうと準備していたのですが、急な引き上げで、どこかに入り込んでしまって、見当たらなかったので、近くのドラッグストアーの種売りの棚から買ったものが蒔かれて、芽を出しています。咲き出す日を楽しみにしております。

(壬生町の「東雲公園」です)

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国難

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江戸幕府が、長崎の「出島」で、中国とオランダとの通商だけを許して(朝鮮王朝と琉球王朝とは外交はありました)、海外との交流を禁止した、「鎖国令」が出されたのが、1639年でした(実際には、1633年に第一次鎖国令が出され、1639年には、第五次鎖国令が出されたのです)。そんな鎖国が終わるのが、1854年の「日米和親条約」ですから、215年もの間、西欧諸国との文化や物のや人の交流はなかったわけです。

その鎖国下に、独特の日本文化が育ったことになります。武士だけではなく、町人でも、農民でも、文字の読み書きができ、お金の計算・算術ができ、武士たちの生き方の影響が庶民の間に、歌舞伎などの演芸や書物を通して、及んでいたのです。知的水準は、ヨーロッパ諸国よりも高かったのです。それは幕末の日本にやって来た、欧米人が驚いたことでした。

鎖国が終わろうとしていた1853年7月8日午後5時に、ペリーの率いるアメリカ艦隊が、三浦半島の浦賀沖にやって来たのです。いわゆる「黒船」です。国を挙げての一大事、まさに「国難」でした。江戸幕府の役人以外で、最も早い時期に、浦賀に駆けつけたのが、佐久間象山でした。自分の目でアメリカ艦隊を観察したのです。その時、彼が携行したのが、<望遠鏡>でした。象山は、ただの烏合の衆ではありませんでした。すぐさま象山は、浦賀の港を見下ろせる山に登るのです。そこからアメリカ艦隊の様子を見て、大砲の数や、その威力までも記録します。

幕府の船も、野菜や水を売ろうとする船も、木っ端の様な木造船、一方、アメリカ艦隊の戦艦は、蒸気で動く黒い鉄の船で、大きさは比べられないほどでした。これを観察検分した象山は、「攘夷(じょうい/西欧からの外敵を追い払おうとする考え)」から「開国」に、いち早く考えを転換してしまうのです。「精神論」や「伝統」に拘らないで<時を読む>ことに早い人であったことになります。

そう言った広く、遠くを見渡せる人材が、幕末には育っていたわけです。<新しいものの考え方>をする人がいたので、日本は、西欧諸国との遅れを短期間で挽回することができ、先進の西欧諸国と肩を並べられたのです。力関係を保つために、軍事力の増強で、「富国強兵」が叫ばれて、結局は、軍事優先がもたらしたのが、太平洋戦争での敗戦、無条件降伏受諾に至ったわけです。

象山が、浦賀に駆けつけたのは、彼が、1811年生まれですから、42才でした。この年齢くらいの人材が、政治行政の責任者に就いたら好いのではないでしょうか。新しさと古さの間で、双方を知った賢明な判断や決断が、その年齢くらいが、最も冴えているのかも知れません。現在も、若い世代に任せ切ったら、昏迷の中から国も自治体も会社も学校も、抜け出られそうです。ただ、象山の<玉に瑕(きず)>は、自信過剰で傲慢な人だったそうですから、年齢はともかく、そうでない人柄が相応しいのです。

そう、我々の世代は、一線を二歩も三歩も退いて、<ご隠居>が似合いそうです。そして、象山に倣って、心の望遠鏡で、遠く過去をを眺め、大観の眼を養い、さらには、心の顕微鏡で、今の細かなことにも気を張りができるものでありたい、そう願う五月の下旬です。

(1654年に描かれた「黒船」です)

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バラ

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散歩の帰りに、いただいて帰ってきた、紅白のバラです。ベランダから見えるオタクの庭に咲いているバラを、近くに行って眺めていた家内に、住人に老婦人が分けてくださったのです。華南の街の七階に住んでいた時も、下の階の方が、鉢分けしたバラをいただいたことがありました。華南の真っ青な空の中で、実に綺麗だったのを思い出します。急な帰国で、挨拶せずでした。お嬢さんに、日本語を、家内が教えていました。

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真に危険なこと

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このサイトからの記事(共同通信社)です。
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イタリア北部、ミラノにあるアレッサンドロ・ヴォルタ高校のドメニコ・スキラーチェ校長が書いたメッセージです。

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ヴォルテ高校の皆さんへ

 “保険局が恐れていたことが現実になった。ドイツのアラマン人たちがミラノにペストを持ち込んだのだ。感染はイタリア中に拡大している…”

 これはマンゾーニの「いいなづけ」の31章冒頭、1630年、ミラノを襲ったペストの流行について書かれた一節です。この啓発的で素晴らしい文章を、混乱のさなかにある今、ぜひ読んでみることをお勧めします。この本の中には、外国人を危険だと思い込んだり、当局の間の激しい衝突や最初の感染源は誰か、といういわゆる「ゼロ患者」の捜索、専門家の軽視、感染者狩り、根拠のない噂話やばかげた治療、必需品を買いあさり、医療危機を招く様子が描かれています。ページをめくれば、ルドヴィコ・セッターラ、アレッサンドロ・タディーノ、フェリーチェ・カザーティなど、この高校の周辺で皆さんもよく知る道の名前が多く登場しますが、ここが当時もミラノの検疫の中心地であったことは覚えておきましょう。いずれにせよ、マンゾーニの小説を読んでいるというより、今日の新聞を読んでいるような気にさせられます。

親愛なる生徒の皆さん。私たちの高校は、私たちのリズムと慣習に則って市民の秩序を学ぶ場所です。私は専門家ではないので、この強制的な休校という当局の判断を評価することはできません。ですからこの判断を尊重し、その指示を子細に観察しようと思います。そして皆さんにはこう伝えたい。

 冷静さを保ち、集団のパニックに巻き込まれないこと。そして予防策を講じつつ、いつもの生活を続けて下さい。せっかくの休みですから、散歩したり、良質な本を読んでください。体調に問題がないなら、家に閉じこもる理由はありません。スーパーや薬局に駆けつける必要もないのです。マスクは体調が悪い人たちに必要なものです。

 世界のあちこちにあっという間に広がっているこの感染の速度は、われわれの時代の必然的な結果です。ウイルスを食い止める壁の不存在は、今も昔も同じ。ただその速度が以前は少し遅かっただけなのです。この手の危機に打ち勝つ際の最大のリスクについては、マンゾーニやボッカッチョ(ルネッサンス期の詩人)が教えてくれています。それは社会生活や人間関係の荒廃、市民生活における蛮行です。見えない敵に脅かされた時、人はその敵があちこちに潜んでいるかのように感じてしまい、自分と同じような人々も脅威だと、潜在的な敵だと思い込んでしまう、それこそが危険なのです。

 16世紀や17世紀の時と比べて、私たちには進歩した現代医学があり、それはさらなる進歩を続けており、信頼性もある。合理的な思考で私たちが持つ貴重な財産である人間性と社会とを守っていきましょう。それができなければ、本当に ‘ペスト’が勝利してしまうかもしれません。

 では近いうちに、学校でみなさんを待っています。』

(ミラノの街の様子です)

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