太宰治と父

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栃木の人は「男体山」、盛岡の人は「岩手山」、弘前の人は「岩木山」、熊本の人は「阿蘇山」、人はふるさとの山に、強い愛着を持っている様です。アメリカの西海岸のオレゴン州のポートランドにも、“ Mount Hood ” という山があって、この地に移民した日本人は、母国の富士山に似た、この山の形状に、心惹かれるものがあったそうです。

山梨県下の御坂峠に、「天下茶屋」という蕎麦屋、甲州名物の「ほうとう」食べさせてくれる店があります。今では、御坂の新道ができましたので、旧道にあるのですが、以前は、泊まることができたそうで、太宰治は、ここに逗留したことから、昭和13年の出来事を、「富嶽百景」に著しています。その作中に、次の様にあります。

「・・・ 私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見てゐた。富士は、のつそり黙つて立つてゐた。偉いなあ、と思つた。
『いいねえ。富士は、やつぱり、いいとこあるねえ。よくやつてるなあ。』富士には、かなはないと思つた。念々と動く自分の愛憎が恥づかしく、富士は、やつぱり偉い、と思つた。よくやつてる、と思つた・・・ ねるまへに、部屋のカーテンをそつとあけて硝子窓越しに富士を見る。月の在る夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立つてゐる。私は溜息をつく。ああ、富士が見える。星が大きい・・・のつそり突つ立つてゐる富士山、そのときの富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲然(がうぜん)とかまへてゐる大親分のやうにさへ見えたのである・・・あしたは、お天気だな、とそれだけが、幽(かす)かに生きてゐる喜びで、さうしてまた、そつとカーテンをしめて、そのまま寝るのであるが、あした、天気だからとて、別段この身には、なんといふこともないのに、と思へば、をかしく、ひとりで蒲団の中で苦笑するのだ・・・」
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太宰は、生まれ育った津軽の山と、この富士とを見比べたのかも知れません。
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「・・・老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、『おや、月見草。』さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。
さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ・・・」

何よりも、「富士には月見草がよく似合う」という箇所が有名なのです。こんな文才がありながら、度重なる自殺や心中の未遂を繰り返す太宰の精神性の弱さに、驚いた日が、私の青年期にありました。上智大学で、教鞭を取られた福島章氏の『愛と性と死―精神分析的作家論』(小学館、1980年)を、暗い気持ちで読んで、納得をしたのです。

私の太宰は、彼が父と同世代だったこともあって、一入気になった作家だったのです。同じ時代の風を身に受けながら、父は、自分の人生を受け止めて、人としての義務を全うして生きました。

( “ Mount Hood ” と「天下茶屋」です)

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