” Be gentleman ! “

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甲府第一高校の校庭に、一つの胸像が置かれてあります。この学校(旧制の甲府中学校です)で校長をされた、大島正健のものです。この方が、「クラーク先生」と言う一文を残しています。大島は、「札幌農学校」の第1期生で、アメリカ合衆国から、初代教頭として、文部大臣黒田清隆に招聘されたクラークから、8ヶ月という短期の薫陶を受けた学生で、弱冠17歳でした。

果敢な17歳の目と身体と心で触れたクラークを思い出しながら記したのです。この農学校が開校したのは、1876年8月14日でした。当時札幌の人口は、2、3千人だったそうです。アメリカのマサセッツ州の農学校に模して作られていて、大島は、『校舎は、北一條西一、二丁目より北三條西一、二丁目にいたる全ブロックを占有して整然と建ち並んでいた。』と、学校の敷地の広さや様子を記しています。

開校式の折に、クラークは次のように述べています。『靑年紳士諸子よ、諸子はこの学校に入りたる以上、國家のために重要なる位置と厚き信任とまたそれよりいずるところの名誉を受けるために準備努力しなければならぬ。それがためには常に健康に注意し、食欲をつゝしみ、温順と勤勉との習慣をつけ、習わんとする学術については、できうる限りこれを研究錬磨(ま)すべきである。』とです。

それから150年を経た21世紀の今、同じ札幌の人口は、197万人になり、近代都市が出来上がり、日本のトップリーダーとしての牧農業を、この北海道が誇っています。ここで産する食物で、2017年の春、腱板断裂後の手術を受け、入院中の一ヶ月ほど養われ、クラークのことなどに、私は思いを馳せていました。

第1期生は、17から20歳ほどの13名の選りすぐられた学生で、この札幌農学校が始まっています。多くの学則が持ち込まれた中で、クラークは、ただ一言、

” Be gentleman ! ”

だけで好いとして、他の教師陣に譲りませんでした。『学校は学ぶ所であるから、起床の鐘が鳴ったら、寝床をけって起きなければいけない。食卓へつく時にはあいずをするから、直ちに集まって來なければいかぬ。消燈時刻にはいっせいに燈火を消さなければいかぬ。ところでゼントルマンというものは、定められた規則を嚴重に守るものであるが、それは規則にしばられてやるのではなくて、自己の良心にしたがって行動するのである。故にこの学校にはむずかしい規則は不要だ。』、と語ったのです。
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そんな気風、校風の学校が、ご維新間もない日本、その未開の北海道の札幌にたてられたことに驚きを感じざるを得ません。英語教育の準備の少なかった学生たちに、クラークは通訳なしの英語で教えています。単語一つ正しく聞き取れず、夜になると、『あの単語は、どんな綴りで意味なのか?』と頭を寄せ合って、みんなで調べたのだそうです。

そんな学びを受けた学生たちの中から、第一期生の中からは、北海道帝國大学の生みの親である佐藤昌介、北海道水産界の元老で禁酒運動の大立者であった伊藤一隆、支那古韻の研究に一生を費やした大島(幾つかの中学の校長も歴任)、ならびに北海道開拓の恩人である内田瀞(きよし)、第一期生を通じて間接に先生の感化を受けた第二期生の中からは、新渡戸稻造・内村鑑三らの英才が雲のごとくわき起っています。

このクラークは、契約期間を終えて、8ヶ月で退任しアメリカに帰国するのですが、その別れを大島は次のように、書き残しています。

『札幌の南六里、千歳に近い島松駅に着するや、先生はうまをとめて駅逓の家に休憩したが、先生を囲んで別れがたなの物語にふけっている敎え子の顔をのぞきこんで、ひとりひとり力強い握手をかわし、「どうか一枚のはがきでもよいから時おり消息を聞かせてほしい。ではいよいよお別れじゃ。元氣で常に祈ることを忘れないように。」と力強い口調で別辞を述べ、ひらりとうまにまたがると同時に、

 ” Boys, be ambitious! ”

と叱(しっ)呼して長鞭をうちふるい、振り返り振り返り、雪泥(でい)をけ立てて疎林のかなたにその姿をかき消された。』とです。

日本が確立して行く過程で、ここ札幌でなされたクラークの教育の貢献というのは、実に大きかったことになります。その札幌の病院を退院してから、一年後に、家内と一緒に札幌を訪ね、その病院で術後一年の診察を受けました。その折、北海道大学を訪ね、キャンパス内の喫茶店でコーヒーを飲むと、家内は、『孫たちをこの学校で学ばせたいわ!』と、すっかり気に入ってしまったのです。

(北大のキャンパスの春と秋の様子です)

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コンドル

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この写真の木の上に止まっているのは、「禿鷹(ハゲタカ)」でだと言って送られてきました。孫息子が、ツーリングの途中に撮影して、送ってくれたものです。実はハゲタカというのは俗称だそうで、鷹の種族で、「コンドル (英語: condors) 」呼ばれる様です。

若い頃、「コンドルは飛んで行く」と言う歌が、アメリカのフォークロック・デュオ、“ サイモン&ガーファンクル ” が歌っていました。その歌詞には、コンドルが出てこなかったのですが、原曲はペルーのアンデス地方で歌われていた民謡で、歌詞は次のようなものだったそうです。

Oh majestuoso Cóndor de los Andes,
llévame a mi hogar, en los Andes,
Oh Cóndor.
Quiero volver a mi tierra querida y vivir
Con mis hermanos Incas, que es lo que más adoro
Oh Cóndor.

En el Cusco, en la plaza principal,
Espérame
Para que a Machu Picchu y Huayna Picchu
Vayamos a pasear.

おお、堂々たるアンデスのコンドルよ
アンデスの我が家へ連れていっておくれ
おお、コンドルよ
最愛の土地へ戻って暮らしたい
大好きなインカの兄弟たちとともに
おお、コンドルよ

クスコの中央広場で
待っていてくれ
マチュピチュとウアイナピチュへ行くためさ
さあ出かけようぜ

これは故郷回帰の切々たる歌詞ですね。私の生まれ故郷には、もう生まれ住んだ家も、そこに住んでいた人々もいなくなってしまいました。育ててくださった父も母も、他界しましたが、二人の兄と一人の弟は健在です。八十になった兄が、先週、両親を懐かしんで便りをくれました。拳骨を飛ばした父を、優しかったことだけが、兄には思い出される様です。

先週末、子育てをした街、住んだ隣家のご夫婦から和菓子が届きました。早速、渋茶を入れて、家内と、懐かしくその味を楽しんだのです。様々に思い出されることが多く、上の子たちにとっては、うら覚えの記憶しかないかも知れませんが、新米が親業に励んだ街です。そんなことを思い出したのです。

孫息子も、ツーリングで駆け巡った野原も、家族と一緒に分け登った山も、渡った川々も、きっと懐かしく思い出す日がくることでしょう。

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私の杵

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「日本昔ばなし」に次の様な話があります。

『昔ある村に、直吉という一人暮らしの漁師がいました。月のない暗い夜に、かがり火をたきながらシラウオ漁をしていると、沖の方から沢山の人の掛け声が聞こえてきました。
 きっと何か重いものを運んでいると思った直吉は、手伝うために着物を脱いで海に飛び込みました。そして声のする方へ泳いでいくと、大勢の人たちが泳ぎながら大きな流木を押し運んでいました。
 きっと難破した船の人たちだろう、と思った直吉は、さっそく流木を押して島まで押し上げてあげました。岸に上がった直吉が、あらためて人々の顔を見ると、それは男か女か人間か化け物かわからない、真っ黒い疫病神が立っていました。
 「この島に熱病を運んできた」と言う厄病神は、流木運びを手伝ってくれた直吉に「夜鳥が鳴いたら杵(きね)で臼(うす)を叩きなさい、その音がする家には熱病を持って行かないから」と言い残し、すぅっと消えていきました。
 これを聞いた直吉は、大急ぎで村の総代の家に村人たちを集めて、今までの事を全部話しました。そして村人たちは、夜鳥が鳴くとどこの家でも杵で臼をたたき、厄病神が家に来るのを阻止しました。結局、疫病神たちはどこの家にも熱病を持って行けず、やがて夜明けとともに大慌てで海の向こうへ逃げていきました。
 この事で村人たちから感謝された直吉は、あちこちから良い縁談が舞い込んで、めでたく所帯を持つことができました。(「厄病神」〜日本昔ばなし〜)』

この疫病神は、《杵で臼を叩くこと》によって退散してしまうのですが、21世紀の「新型コロナウイルス」は、「杵」ではなく、科学的な方法で終息するでしょうか。この渦中にある私は、次の様に、古の書に記されるところに、騒ぐ心を置くことにしています。

『あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。
また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。
千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。
わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。』

この臼(約束)を、私は自分の杵で打ちたいのです。「私の天幕」、つまり《私の住む家》、《私の家族》に近付かない様に願っています。古代イスラエル民族が、エジプトに寄留していた時に、「滅びの使い」が、全エジプト中の家の「長子」を打ち滅ぼしたことがありました。人も家畜もでした。ところが、家の門柱と鴨居に、羊の血が塗られた家々は例外でした。「滅びの使い」は、入ることができませんでした。この出来事の様に、今日日の「えやみ(疫病み)」から免れる様にと、家長である私は、願うのです。

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黄昏れる

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いつのことでしたか、壁に寄り掛かって、何を考えるでもなく、遠くに視線を送っていましたら、『何をタソガレているんですか?』と、あるご婦人から話しかけられたことがありました。夕方ではなく、昼過ぎだったでしょうか、「黄昏れる」という言葉を初めて聞いたのです。

物思いに耽っている様に、あるいは放心している様に見えたのでしょうか。また、人生の「黄昏期」に差し掛かって、初老を感じさせていたからかも知れません。『あまり、活動的に見えないよ!元気を出して!』とでも言いたかったのかも知れません。

「黄昏」は、「誰(た)そ彼」と言う古語から生まれた言葉で、夕闇で誰れだか分からないので、そう問い掛けて言ったのだそうです。それを、漢字で、そう表記する様になったのです。私が、<漢字検索>で使う「漢典」という中国語サイトには、「黄昏 huánghūn[evenfall;dusk]∶日落以后至天还没有完全黑的这段时间」とありました。日没後、まだ空が暗くなる前の時間帯のことを言う様です。

唐の時代、李商隱が詠んだ「樂遊原詩」に、「夕陽無限好,只是近黃昏。」とありますし、「三國演義」にも、「時至黃昏,風雨暴至,兩下各自收軍。」とありますので、ずいぶん昔からある言葉だとい言うわけです。

夕方を、「燈点し頃(ひともしごろ)」と言ったりしますが、冬にはもう真っ暗な時間帯なのに、さすが夏至の頃には、まだ外が明るいのです。アメリカの西海岸のオレゴンを訪ねた時に、夜の9時、10時になっても、まだ空が明るかったのには驚かされてしまいました。その時、『「白夜」とは、こう言った感じなんだろうか?』と、感じ入ってしまいました。
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日本には、「◯◯百選」と言われるものが多くあるのですが、「夕日百選」と呼ばれるものがあります。私の母の故郷の島根県に、宍道湖(しんじこ)があり、その湖岸に、「島根県立美術館」があります。その湖に沈んでいく夕陽の景観が素晴らしいのだそうです。全面ガラス張りの建物から、その夕日が眺められるる様な作りになっています。3〜9月までは、閉館時間が、日没30分後にされていて、参観者が夕日を見られる様に配慮されているのです。

3年前の春、入院手術のために帰国中、こちらに戻る前の一週間、弟の家に泊めてもらったのです。彼との話しの中で、今度、私が帰国したら、母の故郷に、母の親しい知人を、兄弟で訪ねる計画が提案されたのです。みんな人生の「黄昏期」に入って、時間を工面できますので、表敬訪問したついでに、宍道湖の「シジミ」の味噌汁を飲無のを楽しみにしてていたのですが、帰国後の今も実現できていません。

母もその知人も、もはやこの地上にはいません。それでも、コロナ禍が収まったら、この美術館で夕日を眺めて、黄昏れてみたいものです。それを楽しみに、今を過ごしましょう。

(島根県立美術館の夜景です)

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お笑い

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 落語家の「立川らく朝」師匠が次の様に言っています。

『医学的な研究データによってわかっている笑いの効能は、大きく分けて3つあります。
 まず1つは、落ちている免疫機能を正常化するという効果です。ある医学実験では、笑うことによってがん細胞やウィルスをやっつける「ナチュラルキラー細胞(NK細胞)」が活性化することが証明されています。つまり、笑いはインフルエンザなどの感染症やがんの予防にもなるということです。

 2つ目は、血圧を下げる効果です。自律神経には交感神経と副交感神経があり、常にどちらかが優位になるというバランスをとっています。交感神経は興奮したりストレスがかかると優位になり、血圧や脈拍を上げます。逆に、副交感神経は就寝前などのリラックス状態のときに優位に働き、血圧を下げます。
いまの時代はストレス過多なので、交感神経が優位になりがちで、血圧が高めの人が多いわけですが、笑うことによって副交感神経優位の状態になって血圧が下がることがわかっています。どっと笑った瞬間は交感神経が優位になりますが、その後、副交感神経が優位になって身体をリラックスモードに変えてくれるのです。

 3つ目は、血糖値を下げる効果です。笑うとインスリンを分泌する遺伝子の作用で血糖値上昇を抑えるようです。つまり、笑うことで糖尿病が改善するということです。大阪の糖尿病の専門病院では患者さんに漫才のDVDを貸し出しており、実際に血糖値が下がっているそうです(養命酒「元気通信」2013年1月号)。

 このらく朝師匠は、「1954年、杏林大学医学部卒。慶応大学病院健康相談センター医長を経て、内科クリニック院長に。2000年に立川志らく門下に入門、2004年に立川談志に認められ二つ目昇進。プロの落語家で医師という立場を生かし、健康教育と落語をミックスした「健康落語」「健康一人芝居」などの新ジャンルを開拓。『笑えば治る 立川らく朝の健康ひとり語り』(毎日新聞社)、『一笑健康』(春陽堂書店)など笑いと健康をテーマにした著作や連載も多数。』と言う背景の方です。

 コロナ禍で、人の思いが否定的になっていたり、恐れや不安に苛まれているかも知れません。これまでお会いした方の中で、医者は、『そうではありません!』と言ってるのに、『わたしは癌にかかっているんです!』と言っては、それでも医者通いに余念のなかった方が、一人だけいました。その反対に、ガンでも、『生きられるだけ生きます!』と生きるのに前向き方がいます。この《笑の効用》を、落語家とお医者さんとからお聞きになられたら、そう、“ 笑わにや損、損!” でしょう!

新宿の末廣亭も、コロナ禍で休演だそうです。もう何年も行かないのですが、話すことを仕事にしていた関係で、話芸の達人たちに学ぼうとした時期が、私にもありました。それで出掛けたりしました。でも、私の仕事は、人を笑わせたり、心を温めたりすることではなく、生き死にの問題でしたから、ただ話す技術を身につけても、真摯(しんし)さがなくてはならないと思っていました。でも、子どもの頃から聞いた、志ん生や小さんや圓生、志ん朝、馬生などの名人芸には、驚かされたり、感心させられたり、笑わせられました。このご時世、もう少し笑えたらいいですね。

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“ Happy birthday to you ”

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私たちの子どもたち4人が、大変お世話になった方が、誕生日を迎えた時、この方の友人たちと誕生パーティーをする予定でした。ところが、コロナ禍で外出や集会禁止で、取り止めになったそうです。それで友人たちが、車を連ねて、この方の家の前を、サインを掲げながら通過することになって、娘の家族もそれに加わったのです。孫娘は、チェロを習っていて、“ Happy birthday to you ” を車中演奏したそうです。

この方が、大きな声を上げて、とても喜んでいました。誕生パーティーができないで、諦めないで、ほかの方法でお祝いを考え出したのは、実に素敵ですね。こんな交わりの中に、娘たち家族がいるので、とても安心です。コロナ旋風が吹き荒れなかったら、こんな喜び表現はできなかったことでしょう。今朝、最新のニュースです。

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あきらめない

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小学校の授業で、ジェンナー(Edward Jenner/1749〜1823年/イギリスの医学者)のことを聞きました。

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天然痘と人間の闘いの歴史

天然痘の歴史はとても古く、およそ1万2000年前からあったと言われ、これまでに数え切れないほどの多くの死者をだしてきました。 
中には王様などのエライ人もたくさんふくまれていたため、天然痘がなければ、もしかしたら歴史はかわっていたかもしれません。

「種痘」って、どんな予防法なの?

人間の体が持つ「免疫力」を利用した予防法

体には、ウイルスが入ってくると、「抗体」という物質をつくり出して追い出そうとする力があります。このしくみを免疫 と言い、一度抗体ができれば同じ病気にかからなくなります。ジェンナーは、この力を利用した「種痘」という予防法を考えました。それは、天然痘ほど危険ではない「牛痘(ウシがかかる天然痘)」にかかった人のウミを、まだ天然痘にかかっていない人にわざと注射して、天然痘の抗体をつくるという方法です。こうして、みんな本物の天然痘にかからずにすむようになりました。

ウシの乳しぼりをする人との会話が研究のヒントに ある日、ジェンナーはウシの乳しぼりをしている人から、「牛痘にかかった人は、天然痘(てんねんとう)にはかからない」という話を聞きました。この話をヒントにして、ジェンナーは天然痘の研究に取り組み、ウシやブタで実験をくり返しおこないました。そしてついに「種痘」を完成させ、仮説が正しいことを証明したのです。

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自分の子で人体実験をしたと聞きましたが、実際は、孤児院の子に、牛痘を植え込んで実験していた様です。その実話を聞いて、とてもがっかりしましたが、結果的には、「種痘」を通して、天然痘が絶滅したのですから、それは素晴らしいことだったのでしょう。

人類を繰り返し襲う、ウイルス性の流行病に対して、今はなす術がない様です。そんな渦中だからこそ、21世紀のジェンナー(ただし孤児で人体実験しない人)、コッホ、パスツール、北里柴三郎が出現してくるのを願ってやみません。多くの研究室で懸命に研究実験がなされていることでしょう。これまで度々襲う壊滅的な状況下を、人類は、潜り抜けて生きてきました。それは偶然ではなく、憐みで篤くもえておられるお方の慈しみと、このお方に激励された人の献身によるに違いありません。だから決して諦めないでおります。

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もう少し

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金浦空港に降り立った時に、独特な匂いがありました。会議やセミナーがあって、4〜5度出掛けたことがあったのですが、いつも同じ〈韓国の匂い〉がしていました。また中国華南の街の郊外、海岸にある空港に降り立った時も、上海の波止場についた時も、それを何回となく到着を繰り返しても、そこには独特な〈中国の匂い〉を感じて来ました。

恩師が、アメリカに帰国して、羽田や成田に降り立った時に、『〈日本独特な匂い〉がする!』と言っていました。上の娘が十年ほど滞在して、仕事をしていましたので、何度も訪問したシンガポールにも、華南の街出身の人たちが多く住んでいるからでしょうか、それと同じ〈中華民族の匂い〉がしていましたし、ホノルル空港に降り立った時も、『アッ、〈ハワイの匂い〉だ!』と思ったこともありました。

独特に〈国の匂い〉や〈民族の匂い〉や〈街の匂い〉がある様です。今朝も東側の窓を開けましたら、〈栃木の匂い〉がしてきました。それは親しく好意的に思う思いの中から感じ取れるものなのかも知れません。そう言えば、友人や知人や兄弟たちの家に行くと、〈家の匂い〉もあります。

それって〈生活の匂い〉なのでしょうか。かすかにしか感じられないことが多いのですが、日本に一番近い韓国に行った時のものは、キムチの〈大蒜(ニンニク)の匂い〉がしていたのです。もう何年も前からソウルの国際空港が、仁川空港となったそうですが、まだ一度も利用したことがありませんが、五十年も前に感じたのと、そこも〈同じ匂いが〉がするのでしょうか。
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きっと自分は、鼻が効くのかも知れません。嗅ぎ分ける能力があるのかも知れませんね。今の日本に、〈時の匂い〉があります。〈好くない匂い〉がしているのです。不正直で、秘密めいた、人間不信の〈暗闇の陰湿な匂い〉が立ち込めています。不健全な社会が持っていて、それが放つ〈憎しみの匂い〉で、拭うことができないほど染み込んでしまっています。それで、ますます社会が孤立化している様に感じてならないのです。

人と関わる面倒さを避けるのが、人嫌いになり、そして孤立を生むのかも知れません。いつも自分中心にしか、物事を捉えられなくなってしまい、我慢や待つことや遠回りすることができません。そんな時代の申し子の様な人の犯罪が目立っていないでしょうか。たぶん、恥をかきたくないのかなって思うのです。もし、ありのまんまの自分を受け入れ、愛せたら、そんな闇から、自分の〈匂い〉、〈雰囲気〉と言い換えてもいいでしょう、それを嫌わずに、轍(わだち)の中から抜け出ることができるのですが。そうすれば、こんな時だからこそ、もう少し明るく、芳しくなるのではないかと思っております。

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前兆

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古代の書で、次の様に言われています。

“民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。”

これは、今の時代を言い当てているような言葉です。民族対立も国家間の対立も、20世紀以降、世界中で見られます。大地震も頻発し、今日の新型コロナウイルスの蔓延もあります。もっと激動の驚天動地の事態が惹き起こされる可能性もあります。また、次の様にも言われています。

“そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、
人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。”

「気を失う様な事態」を惹起させると言うのです。人類の歴史に未曾有な出来事が、地の上に起こるとの啓示です。それは、人を恐れさせるためではありません。「備え」をするためです。

“まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。”

何が起こるかに、「気をつけていなさい」と言っています。例外なくすべての人が見舞われる事態に、衛生上の防衛対策も、地震対策も必要ですが、先ず、心を備えておく必要があるのではないでしょうか。この事態から免れ方法があるからです。私は、『恐れるな!』と言う、《天来の声》を聞いて、安心しています。

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花水木

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この花は、「花水木(はなみずき)」で、アメリカ原産です。オレゴンの街中に咲いて、娘が送ってくれました。子育てをした街に、街路樹として、この時期に、この花が咲き誇っていたのです。日本から、送られた桜の木のお返しに、日本に送られたのが、この花水木でした。コロナの猛禍で、先が見通せないアメリカの街中に、綺麗に咲いて、アメリカ市民を慰めているかの様です。

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