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雪の降った日、ベランダの手すりに、一羽の小鳥の訪問がありました。しばらくの間、毛づくろいをしていたのです。よく巴波川の川面をすれすれに飛んでいるのを見かけていました。ベランダにも春の到来です。
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昔の小学校は、尋常小学校と高等小学校とからなっていて、尋常小学校は義務教育で、1886年に四年修業で始まり、1907年に六年修業になっています。義務教育を終えると、ほとんどの子どもが社会に出たり、家業を手伝ったりしていた時代です。
その後、四年修業の高等小学校(後に二年制)に行く人と、男子は中学校(五年制)、女子は高等女学校(五年制)に進む人もいました。男子が中学校に進学するのは10から20%、女子の高等女学校への進学は5%(1925年頃には10%)ほどだったそうです。
豊かではなかった養父母に、義務教育を終えた母は、進学を持ち出すことができなかったのでしょう。色がすこし黒くても《今市小町》と言われた勝気な母は、グンゼの女子工員になったのです。そんな生活の中で、母の一生涯に、強い影響を与えるカナダ人家族との出会いをします。その両親と娘たちの家族を眩しく眺めていて、その優しい交わりに、時には招かれたのでしょう。
この写真は、上は島根県の県花の「牡丹」、下は母が育った町内にあった高等女学校の写真です。母の年代に撮られたもので、学びたくても学ぶことのできなかった母は、女学生たちの生活振りや袴姿を、どんな思いで眺めていたのでしょうか。高校生の私が、いつも難漢字を教えてもらった母は、高等女学校生に負けたくない思いで独学した様です。
結婚して父の4人の子を産んで、育てて、みんなが大きく成長して行く様子を見て、どう感じたのでしょうか。大学に行き、運動部で活躍し、一部上場の企業に就職し、将来を嘱望された最初の息子に、何を感じていたのでしょうか。“ ミスター・シェイクハンド "と呼ばれた次男、教師になった三男と四男、母にとっては、自分には叶えられなかった夢を、叶えている子たちを眺めて、この上もない慰めを覚えていたに違いありません。
人の一生とは、何か計り知れない意図や計画があって、それを早く認められた人には、生きる意味や価値や目的が理解できるのでしょう。出雲訪問の折に、日御碕(ひのみさき)に連れて行ってもらったことがあります。日本海の押し寄せてくる波頭が、刃の様に鋭かったのが、印象的でした。冬は寒く、曇り日の多い山陰地方で生まれ育った母でしたが、自分の生まれや現実を、そのままに受け入れることができ、満ち足りて、天に凱旋(がいせん)した母です。
母なくば 子も孫もなき 桜花
今日、3月31日は、「垂乳根(たらちね)」と枕詞をつける母の103年誕生記念日です。確かに、夏の夕方には、いつも布団を引いて、蚊に刺されない様に、青い「蚊帳(かや)」を吊ってくれ、冬には綿入れを着せてくれ、やむと粥を炊いてくれた母でした。
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1918年に、世界大に流行したのが、全世界で、5000万人もの死者を出した「スペイン風邪」でした。第一次世界大戦が終結した翌年のことで、この大戦での1600万の戦死者、戦争が原因で病んで亡くなったのが200万人、行くへ不明者が600万人と言われていますから、その二倍以上の死者を出した、最悪の疫病でした。
どこから始まったかについて、カナダのウィルフリッド・ ローリエ大学の歴史学者マーク・ハンフリーズ教授が、次の様に研究結果を報告しています。『西部戦線で英軍とフランス軍の後方支援を行うために、9万6000人の労働者を中国から動員したことが、パンデミックの原因になった可能性がある!』と言っています。
中国北部の万里の長城付近に住む中国人の〈苦力/クーリー〉9万6000人を、アメリカ大陸のバンクーバーに船で運び、列車で東海岸に輸送し、そこから船で、英国南部とフランスに送られ、戦線の後方に運んだことがあったそうです。その中に、肺炎の症状をみせた人たちがいて、瞬く間に蔓延して行ったのが、〈スペイン風邪〉だっただろうと報告しています。
カナダで検疫が行われたそうですが、倦怠感を見せる病者に対して、『怠惰でそうなってる!』という検査結果を出して、治療など施さなかった様です。戦線の後方では、多勢の中国人労働者が病死しています。スペイン風邪が流行する頃には、中国人の感染者は、みられなくなっていたそうです。
これ以前の、「ペスト大流行」や、この「スペイン風邪」の起こった歴史的な事実から、また今回の「新コロナウイルス性肺炎」から学ばないと、今後、どの様な疫病が世界的に拡大して行くか分かりませんので、WHOを中心に、研究や対策を急ぐ必要があります。2011年に、研究チームは、1918年にスペイン風邪で亡くなった32人の遺体から、〈インフルエンザウイルスのサンプル〉を採取して、病液状の検査や実験が行われている様です。
私の母が、1917年生まれですが、当時の日本の様子を次の様に伝えています。
『日本でスペイン風邪が確認されたのは、1918年、当時日本が統治中であった台湾に巡業した力士団のうち3人の力士が肺炎等によって死亡した事が契機である。そののち、同年5月になると、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生し、横須賀市内、横浜市へと広がった(速水融)。当時、日本の報道でのスペイン風邪の俗称は「流行性感冒」である。
速水によれば、日本に於けるスペイン風邪流行は「前流行」と「後流行」の二波に別れるという。「前流行」は1918年の感染拡大。「後流行」は1919年の感染拡大である。どちらも同じH1N1型のウイルスが原因であったが、現在の研究では「後流行」の方が致死率が高く、この二つの流行の間にウイルスに変異が生じた可能性もあるという。
ともあれ、このスペイン風邪によって、最終的に当時の日本内地の総人口約5600万人のうち、0.8%強に当たる45万人が死亡した。当時、日本は台湾と朝鮮等を統治していたので、日本統治下全体での死者は0.96%という(速水,426.以下、図表参照)。1945年、東京大空襲による犠牲者は10万人。日露戦争による戦死者約9万人を考えるとき、この数字が如何に巨大なものかが分かるだろう。単純にこの死亡率を現在の日本に当てはめると、120万人が死ぬ計算になる。これは大阪市の人口の約半分にあたる(“ yahoo ニュース”より)。』
私たちの県でも、昨日現在、11人の方の感染が報告されています。私の愛読書に、「わざわいは、あなたにふりかからず、えやみ(疫病)も、あなたの天幕に近づかない。」との約束があります。これを握って、いつもの平常の生活に努め、それに注意を加えながら生活をしております。
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昭和の時代を駆け抜け、平成の世を助走、令和を終走した人たちが、最近何人も亡くなられました。閉塞感が満ちていた時代に、心をスカッとさせてくれた “ アクションスター ” や、夢を与えてくれた人や、自分にも可能性があるんだと思わせてくれた人たちです。
脚本を演じただけの人でも、生きる強さを見せてくれたのです。自分の人生に天職を得て、それをやり遂げて、『あなたもできますよ!』と道を示してくれた人、繁栄の国からやって来て、道を説き、病を得て異国の地で召された人、様々に生きた人がいて、今の自分があります。直接間接に関わった人たちのことです。
1955年に、作詞が宮川哲夫、作曲が利根一郎の「ガード下の靴磨き」と言う歌が、ラジオから流れてきました。
1 紅い夕日が ガードを染めて
ビルの向こうに 沈んだら
街にゃネオンの 花が咲く
おいら貧しい 靴みがき
ああ 夜になっても 帰れない
(セリフ)
「ネ、小父さん、みがかせておくれよ、
ホラ、まだ、これっぽちさ、
てんでしけてんだ。
エ、お父さん? 死んじゃった……
お母さん、病気なんだ……」
2 墨に汚れた ポケットのぞきゃ
今日も小さな お札だけ
風の寒さや ひもじさにゃ
馴れているから 泣かないが
ああ 夢のない身が 辛いのさ
3 誰も買っては くれない花を
抱いてあの娘(こ)が 泣いてゆく
可哀想だよ お月さん
なんでこの世の 幸福(しあわせ)は
ああ みんなそっぽを 向くんだ
戦争孤児が、敗戦後の社会を健気に生きている孤児を歌い上げた、この歌を歌ったのが、肢体不自由な子どもたちのお世話を、掛川市でし続けて、先日亡くなられた宮城まり子でした。新宿の東側と西側を連絡するガードの下や、上野の駅周辺には、親と死に別れた多くの浮浪児がたむろしていました。ある中学教師が次に様な手記を残しています。
『 ……焼け野原に、ポツンと残っていた銀行の大金庫を、ねぐらにした。15、6歳の仲間が4、5人。一番小さかった少年は、みんなの後ろをついて走った。
ガード下の闇市で、店先のまんじゅうをくすね、少し離れた場所で新聞紙の上に並べると、あっという間に売れた。幼い子供の手からイモを取り上げて、食べた。
秋になった。日一日と寒くなっていく。金庫では眠ることができなかった。他人が住んでいたバラックの板をはがして、たき火をした。米軍のジープがやってきた。カマボコ兵舎に連れていかれた。チョコレートと毛布をもらった。駅で寝ることにした。ホームに入り込んで、列車に乗ったら、暖かくてぐっすり眠ることができた。夜は列車に乗った。舞鶴、和歌山、下関へ。客は復員兵が多かった。車内は混雑していたが「こっちへきて寝ろ」と場所をあけてくれた。食料もくれた。みんな親切だった。ある朝、目を覚ますと東京駅に着いていた。
上野、浅草、神田、新橋。ねぐらは毎晩、変わった。靴磨きや新聞売りをした。ヤミ市には、物資や人があふれていた。人ごみの中から手を伸ばして、おにぎりや大福もちを取って逃げても、誰も怒りはしなかった。大人も子供も、みんなボロボロの服を着て、地下道に寝ていた。
「狩り込み」にあった。警官や都の職員が逃げまわる子供たちを「一匹、二匹」と数えてトラックにほうり込んだ。子供たちに、番号がつけられた(「それぞれの昭和」掲載記事)。』
この少年は、養護施設に収容されて、戦後を生きますが、定時制の高校に通い、大学にも学び、中学校の教師になった方です。様々な人生があって、昭和がありました。身を持ち崩してしまった人もいましたし、この方の様に、好い人との出会いと、導きがあって、教育者の道を生き抜いた人もいたのです。そして今の令和です。
私たち四人兄弟だって、戦前、戦時中、父が奉天(現・瀋陽)や京城(ソウル)にいましたから、何かのきっかけがあったら、残留孤児になっていたり、軍需工場の任務がなかったら、父は応召して戦死だって考えられますので、戦争孤児の可能性だってあり得ました。そんなこんなの戦後を駆け抜けて、今があります。いつでも教え、さとし、戒めてくれた方たちがいたのを思い出して感謝している、コロナ旋風下の今です。
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また、家内が、和菓子屋さんのおバアちゃんから頂いてきた、「鈴蘭水仙」です。家籠りを強いられるご時世、小さな花に慰められております。間もなく、チューリップが咲くことでしょう。窓辺の花々が、春とともに、代替わりになりそうです。以前住んでいた家の水仙やホットリプは、今どうでしょうか。ちょっと気になる春先です。
鈴蘭は、入笠山の湿原に、綺麗に咲いていました。もう少し暖かくなると、いっせいに咲き出すのでしょうか。家に籠れと言われると、反逆児の私は、中央本線の信濃境で降りて、山歩きをしたくなってしまいます。足尾の方に行く「わたらせ渓谷鉄道」があって、それに乗って山歩きでもしたくなってきました。ミイちゃんならずも、外歩きがしたい旋風下です。
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必ず、新宿の高島屋で、「向島 志”満ん草餅(よもぎ餅)」を買って、新宿からJRと東武日光線を結ぶ特急電車に乗って、2週に一度の週末の土曜日に、次男が、家内を見舞ってくれます。多くを話さない息子ですが、母思いなのです。姉たちが遠くにいて、その分も含めての来訪なのです。
この「よもぎ餅」は、段違いで美味しいのです。近所でも作って売っていますが、生き馬の目を抜くほどの大東京の下町で、老舗の暖簾を守り続ける和菓子店の名品です。母親の病状に良いことを知って、入院中から続いているのです。「よもぎ(蓬)」は、ノーベル賞に輝いた屠女史の研究で、化学的に証明されているのです。
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ヨモギから見つけ、抗マラリア薬として開発した中国人研究者屠氏が、2015年のノーベル医学生理学賞を受賞されたということ。屠氏はキク科ヨモギ属の一年草であるクソニンジンからマラリアの特効薬となる「アルテミシニン」を抽出し、1990年代以降、マラリアの治療に大きく貢献した功績が認められ、 ノーベル医学生理学賞の受賞が決まった。
中国国営の新華社通信は、「この薬のおかげで100万人以上の命を救うことができた」と報じた。
http://www.independent.co.uk/news/science/nobel-prize-in-medicine-ancient-chinese-mystic-led-youyou-tu-to-develop-prizewinning-anti-malaria-a6680471.html
「ヨモギが癌細胞を死滅」 その内容は少し難しいかもしれませんが、 アルテミシニン 漢方として使われることの多いヨモギから抽出されるものは、癌細胞を破壊する力があり、健康な細胞1つにつき12,000個もの癌細胞を消滅させることができると! (参考は 科学雑誌「Life Sciences, Cancer Letters and Anticancer Drugs」)に発表された研究論文より発表されています。
また、アルテミシニンは 抗がん剤よりも34,000倍も正確に癌細胞だけを狙い、死滅させることができる! 驚きです!腰が抜けます! 世界には色々なヨモギの品種があります。日本の一般的なヨモギだと200g食べなければならないわけです。毎日、200gのヨモギを食べるのは簡単ではないように思います… とはいえ、この量は、既に癌を発症している人に対して薬効が期待できる量です。 まだ癌を発症していない人の癌予防には、これほどの量を毎日摂る必要はありません。
どのヨモギ属においても、アルテミシニンは花に一番多く、次に葉。茎と根にはほとんど無いらしく、日本では花を食べる習慣がないのが現状です。 それでもヨモギ(蓬)は万能薬草。 ハーブの女王です! 食べる(食卓に) 飲む(お茶として) つける(薬草として) 浸かる(お風呂に) 燃やす(お灸) 嗅ぐ(アロマ) ヨモギを食べたから癌が治る? という訳ではありませんが、 防除、安心です、副作用もないですから。
他効能として ほうれん草の3倍もの「食物繊維」や貧血やコレステロールに効く「クロロフィル」、免疫力を高め粘膜や皮膚を作ってくれる「カロチン」、止血効果のある「ビタミンK」などが豊富に含まれています。 食事だけでなく、自分を取り巻く様々なこと(環境、仕事、家族、人間関係など)を考慮してみましょう。 なんだか無性によもぎ餅を欲しませんか? 最後まで読んで頂き、ありがとうございました。 (文・中瀬由香)
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今週、星の遺跡に行きました時に、遺跡の近くの原っぱに、ヨモギが芽を出していました。少しですが摘んで帰ったのです。どこのもう野原や田の畦道にも、ヨモギが出ていることでしょうか。桜よし、ヨモギもよしの三月です。
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「優先順位」、何が一番重要なのかを考慮するため、しなければならないことに順位をつけることを言ってる言葉でしょうか。一月以来、「武漢ウイルス」の新型肺炎の世界的感染拡大の中、〈国の面子〉、〈為政者の業績〉、〈経済利益〉などが前面に出てしまって、《人》の大切さが後回しにされていないか、心配でなりません。
判断と決断に、人や国の思惑が入り込んで、時期を失してしまったのが、一番残念です。《冷徹な決断》こそ、しかも科学的な根拠を持った決断こそ、人や国の損得を考えない、《公平な決断》こそが、今求められています。
政治家の中で、私が好きなのは、日本では斎藤隆夫と広田弘毅、アメリカではアブラハム・リンカーン、アジアではネルー、ヨーロッパではウインストン・チャーチルです。ナチス侵攻の脅威にさらされたイギリスが、国の存亡をかけた重大な決断をします。そして英国民に向かって、“ never give up ” と語りました。このチャーチルの英国首相としての決断の根底にあったのは、徹底した《人道主義》でした。
日本が、〈国家主義〉、いわゆる〈日本精神〉を掲げてアジア支配を目論んだのとは違います。もちろん、イギリスの植民地主義には大きな問題があるのは事実です。
『チャーチルが参加した大西洋憲章以降の連合国の戦後処理構想は、41年12月の太平洋戦争の開始に伴ってアメリカ大統領とのアルカディア会談を行い、翌年1月の連合国共同宣言発表に合意した。これは連合国の結成の第一歩となり、戦後の国際連合結成につながっていく。43年1月にはカサブランカ会談で北アフリカ戦線を形成することに合意し、ドイツ・イタリアを追い込んでいった。43年11月にはカイロ会談でローズヴェルトともに蒋介石と会談、日本に対する無条件降伏を求めることで一致した。続いて12月にテヘラン会談で始めてソ連のスターリンを加えて米英ソ三国の最初の首脳会談を開いた。ここではソ連を警戒するチャーチルは、スターリンの要求する第二戦線の問題やポーランド問題で対立があったが、ファシズムに対する闘いを進める基本線では一致した。10月にはモスクワに飛びスターリンとの間でパーセンテージ協定でバルカン諸国の分割協定を作っている(「世界史の窓」から)』
人類の敵の蠢動(しゅんどう)に対して、チャーチルが果敢に戦いを挑んだのは見事でした。セント・ジョージ・スクールに学んだ小学生の頃のチャーチルは、『・・・いわゆる「落ちこぼれ生徒」だった。成績は全教科で最下位、体力もなく、遊びも得意なわけではなく、クラスメイトからも嫌われているという問題児だった。校長からもよく鞭打ちに処され、チャーチル自身もこの学校には良い思い出がなく、悲惨な生活をさせられたと回顧している(「回顧録」から)』、だったそうです。
第二次世界大戦(ヨーロッパ線線)に終了後、ドイツ将校の処分について、ソ連のスターリンが5万人、アメリカのルーズベルトが4万9千人の銃殺を主張した時、『そんな大量処刑は英国議会も国民も黙ってはいない。そんな非道を許して私と我が国の名誉を汚すぐらいなら、私は今この場で庭に引きずり出されて銃殺された方がマシだ。』と、大英帝国のチャーチルは、「テヘラン会議」で言っています。
《最も大切なこと》が、好き嫌いの様な個人的な思いで決められないで、地球よりも重いと言われるの人の命、人の尊厳を大事にして、正しく決断がなされる様に、今日日の突きつけられた課題に、最善の決断が下される様にと願う三月末です。
(ウインストン・チャーチルです)
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巴波川を挟んで南側の対岸に、駅からの道の脇に旅館があって、かつては、商人宿として、商いや営業のために、来栃したみなさんが利用したことでしょう。聞くところによると、後継者がなくて休業されて、後に廃業したのだそうです。けっこう部屋数が多いのですが、先週から来解体工事が始められていて、起重機や破砕重機などで、コンクリートの建物が壊されています。
最近の解体工事は、コンクリートの破砕粉が飛んで、近所に迷惑にならない様に、散水しながら作業を続けています。ここ4階から、職人さんたちの無事故を願いながら、時折手際よい作業を眺めております。きっかり5時で、その日の作業を終えて、現場を片付けて、帰って行かれた様です。
この様な作業を、アルバイトでしたことがありますので、ちょっと懐かしくなって、つい手が出そうになってしまう自分を抑えているこの頃です。朝、8時前に作業員のみなさんが来られるのです。子どもの頃に、次の様な歌を歌っていたのです。
♯ 朝の4時半だ、
べんと箱下げて、
家を出て行く土方の大将 ♭
昔は、作業が朝の5時か6時には始まっていたのでしょう。まだ真っ暗な中を、奥さんに作ってもらった〈ドカベン〉に、一升飯を詰めて、昆布かイカの佃煮かメザシ、そして梅干しにたくあんが相場が決まっていたようです。腰には手拭いを下げて、組の名の入った半纏でニッカズボンを着て、地下足袋(じかたび)の出立でした。
そんな姿のおじさんたちを期待していたのですが、今では自動車に乗って、肩から鞄を下げ、頑丈な作業靴に、きれいに洗濯された小綺麗な作業服に身を固めているのです。時間通りに始まって終わる、会社員なのでしょうね。お昼も、出前弁当でしょうか、配達の車が仮駐車場に止まっていました。
こう言った現場で働く人のことを、昔は、〈ニコヨン〉と呼んでいました。〈日当240円〉との賃金が相場だった時代です。更地になったら、アパートとかマンションが建つと聞いています。
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「ふれあいバス(市営)」の栃木駅北口発で、「星野遺跡」で下車して、石器時代と縄文時代にわたる住居跡の遺跡(東北大学の発掘)を見学に行きました。若い友人がお嬢さんと、歯医者の治療を終えてから、追いかけて来てくださって、一緒に食事をしたり、フルーツを食べたりして、遊んだのです。そして乗って来られた車で、家まで送ってもらうことができました。
一足早い、今春二度目の「遠足」でした。武漢ウイルスの影響が騒がれ、『老人は外出するな!』と言われているのですが、人のいない遺跡は、影響外でしょうか。帰りしな一組の親子連れがいただけでした。3月21日から、「後期高齢者」は、どの路線も、どこまでも、「100円」でバスに乗車できると改定されていて、助かりました。好い一日でした。
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