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1918年に、世界大に流行したのが、全世界で、5000万人もの死者を出した「スペイン風邪」でした。第一次世界大戦が終結した翌年のことで、この大戦での1600万の戦死者、戦争が原因で病んで亡くなったのが200万人、行くへ不明者が600万人と言われていますから、その二倍以上の死者を出した、最悪の疫病でした。
どこから始まったかについて、カナダのウィルフリッド・ ローリエ大学の歴史学者マーク・ハンフリーズ教授が、次の様に研究結果を報告しています。『西部戦線で英軍とフランス軍の後方支援を行うために、9万6000人の労働者を中国から動員したことが、パンデミックの原因になった可能性がある!』と言っています。
中国北部の万里の長城付近に住む中国人の〈苦力/クーリー〉9万6000人を、アメリカ大陸のバンクーバーに船で運び、列車で東海岸に輸送し、そこから船で、英国南部とフランスに送られ、戦線の後方に運んだことがあったそうです。その中に、肺炎の症状をみせた人たちがいて、瞬く間に蔓延して行ったのが、〈スペイン風邪〉だっただろうと報告しています。
カナダで検疫が行われたそうですが、倦怠感を見せる病者に対して、『怠惰でそうなってる!』という検査結果を出して、治療など施さなかった様です。戦線の後方では、多勢の中国人労働者が病死しています。スペイン風邪が流行する頃には、中国人の感染者は、みられなくなっていたそうです。
これ以前の、「ペスト大流行」や、この「スペイン風邪」の起こった歴史的な事実から、また今回の「新コロナウイルス性肺炎」から学ばないと、今後、どの様な疫病が世界的に拡大して行くか分かりませんので、WHOを中心に、研究や対策を急ぐ必要があります。2011年に、研究チームは、1918年にスペイン風邪で亡くなった32人の遺体から、〈インフルエンザウイルスのサンプル〉を採取して、病液状の検査や実験が行われている様です。
私の母が、1917年生まれですが、当時の日本の様子を次の様に伝えています。
『日本でスペイン風邪が確認されたのは、1918年、当時日本が統治中であった台湾に巡業した力士団のうち3人の力士が肺炎等によって死亡した事が契機である。そののち、同年5月になると、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生し、横須賀市内、横浜市へと広がった(速水融)。当時、日本の報道でのスペイン風邪の俗称は「流行性感冒」である。
速水によれば、日本に於けるスペイン風邪流行は「前流行」と「後流行」の二波に別れるという。「前流行」は1918年の感染拡大。「後流行」は1919年の感染拡大である。どちらも同じH1N1型のウイルスが原因であったが、現在の研究では「後流行」の方が致死率が高く、この二つの流行の間にウイルスに変異が生じた可能性もあるという。
ともあれ、このスペイン風邪によって、最終的に当時の日本内地の総人口約5600万人のうち、0.8%強に当たる45万人が死亡した。当時、日本は台湾と朝鮮等を統治していたので、日本統治下全体での死者は0.96%という(速水,426.以下、図表参照)。1945年、東京大空襲による犠牲者は10万人。日露戦争による戦死者約9万人を考えるとき、この数字が如何に巨大なものかが分かるだろう。単純にこの死亡率を現在の日本に当てはめると、120万人が死ぬ計算になる。これは大阪市の人口の約半分にあたる(“ yahoo ニュース”より)。』
私たちの県でも、昨日現在、11人の方の感染が報告されています。私の愛読書に、「わざわいは、あなたにふりかからず、えやみ(疫病)も、あなたの天幕に近づかない。」との約束があります。これを握って、いつもの平常の生活に努め、それに注意を加えながら生活をしております。
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