メル友

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このブログを読まれて、コメントくださった方が、私の《メル友》になってくださています。「合戦場」の記事にコメントしてくださって、この地の地誌や歴史を教えてくださっています。ブログで、名前が分るのでしょうか、ご子息と同じ名前なのだそうで、なんだか近くなった感じで、日に二、三度の交信があります。

私が引っ越して住み始めた家の近くの出身だということが分かって、子どもの頃には、正月に私たちの家族写真を撮ってもらった写真館の庭で遊んでいたり、巴波川周辺が遊び場だったり、山本有三や吉屋信子の生家、山口智子の住んでいた辺りを教えてくださっています。

この街の歴史や地誌に詳しく、色々と教えくださって、栃木理解が深められているこの頃です。今朝のメールではトンカツの下ごしらえの話まであり、料理当番の私に知恵をつけてくれています。同じ自転車乗りで、どこへでも、自転車をこいで行かれる、健康志向に生きておいでの方です。

時代なのでしょうね、電子メール上で、こんな出会いがあり、意思の交換や疎通ができる時代に、驚かされています。弟と同じ、兄上と同じで、同じ時代の空気を吸いながら生きてきたわけです。

ここ栃木は、古いものを残そうとする気風の街で、小山や佐野の方が、新しいものを受け入れて、豹変して行くのに、拘りを持ち続ける《頑なさ》が、家内も私も好きなのです。ここに人がやって来て、疲れた心を癒され、往時を懐かしむのは、私たちの世代には似合っていそうです。

防人(さきもり)を送り出し、清和源氏の八幡太郎義家も、この下野国を訪ねたことがあり、時代が降って、芭蕉も訪れていますし、歌麿も栃木のお大尽に招かれ、萩藩の高杉晋作も、お隣の壬生を訪ねています。

蕎麦が美味しく、干瓢や下駄や湯葉を産し、例幣使や大名が、家康の墓所を詣でを往来した街です。水と空気が美味しく、野菜も果物も美味で、葱などは、下仁田に勝るも劣らない程に、抜群に美味しいのです。父が自分で割り下を作って、霜降りの牛肉に、焼き豆腐、しらたき、春菊、たっぷりの長葱で作っては食べさせてくれた《すき焼き》を思い出して、時々作りますが、この《宮葱》に栃木牛で作ると、極上の味なのです。

北の方には、源氏に追われて、住み着いた平家の部落が残されています。野岩鉄道線に、湯西川温泉駅があって、そこからバスが通じています。ひっそりと何百年も住み続けてきた部落です。朝一で鳴き出す鶏を買うことを、頑なに拒んだと聞きます。まだ行ったことがないのですが、湯西川温泉で、鶏肉の《すき焼き》を食べてみたいな、と思う晴れた三月の朝です。そう言えば、今日は東日本大震災のあった日ですね。

(観光地化した湯西川の河岸の風景です)

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恨みを超えて

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「恨み骨髄に徹する」、人の感情の中で、最も激しく破壊的なのが、「恨み」でしょうか。

父親の寵愛を一身に受ける弟に、十人の兄たちが抱いた感情が、「恨み」だったとあります。これは、イスラエル民族の族長たちの、子どもの頃から青年期に至るまでの出来事なのです。弟だけへの父親の偏愛に業を煮やして、ついには、弟殺しを企んでしまいます。この民族の歴史の中に、そう言った「恨み」が横たわっているわけです。

太平洋戦争中、フィリピンに侵攻した日本軍兵士によって、高地で仕事に従事していたアメリカ人夫妻が、殺害されました。情け容赦のない残忍な処刑でした。その両親の悲報を、お嬢さんが聞きました。「恨み骨髄に入る」のだろうと思われたのですが、彼女は違いました。日本軍の兵士の捕虜収容所に出かけて、ボランティアを始めたのです。父を殺した日本軍の捕虜の戦病兵の傷の世話のためでした。

戦後になって、この女性のことが記された書を読んだ一人の人が、「敵をも赦す」、その思いと行為に甚く感動して、人生が変えられてしまうのです。その体験話ーを、東京の中野で、直接聞いたことがありました。まだ二十代の私でした。この方は、『本十二月八日未明、我が軍は米英と戦闘状態に入れり!』で始まった、太平洋戦争への真珠湾攻撃の攻撃隊長の淵田美津雄でした。

『奇襲攻撃に成功せり!』と打電した《真珠湾の英雄》の淵田美津雄の戦後は、手の裏を返す様な取り扱いを受けて、故郷の奈良の村に蟄居して、畑を耕す日を送ったのです。そんな中での変化でした。彼は、アメリカを横断しながら謝罪の講演の旅をしたのです。
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07 Dec 1941 — Mortally Wounded and Sinking — Image by © Bettmann/CORBIS

恨まれるべき身の自分を、鼓舞して、アメリカ合衆国で公演旅行を繰り広げ、謝罪を訴えたことも、その講演旅行を受け入れたアメリカの社会も、「恨み」を、「赦し」に変えられるものがあったことにも、驚かざるを得ません。ソウルのバスの中で、『あなたのバス代を払わせてください!』と言ってくれた青年の顔が思い出されて仕方がありません。息子の大学進学時に、大金の援助をしてくださった、日本で生まれ在日本の友人もいます。確かに「赦し」は、難しいのは分かります。それが、人を縛り付けている歴史が、確かにあるからです。赦さない限り、赦されない限り、何も生まれてこないからです。

南北に分断された朝鮮半島、すべての韓民族は、南北を平和理に統一したいことでしょう。三島のある家で、一緒に食事をした平壌(ピョンヤン)出身の方が、『何時か、対立と遺恨を超えて、南北統一がなったら、平壌陸上競技場で、大きな集会を開いて、そこでお話をしたい!』と夢を熱く語っておられました。この方は、もう亡くなられたと聞いています。

(その「平壌競技場」、真珠湾攻撃の記念写真です)

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