てんでに

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クラス担任が、『てんでに持ち物を持って、外に出なさい!』と言われて、私たちは、手に手に鞄を持って、教室から出た覚えがあります。この「てんでに」は、標準日本語なのでしょうか。「手に手に」が促音していて、一人一人が各自で、何かを持ったり、行動することを、そう言うのです。「平家物語」にも出てくる言葉ですから、標準語なのでしょう。

小学校入学以来、号令一下、『走れ、止まれ、右にならい、気を付け、休め!』で、団体行動をしてきましたので、従うことはできても、自分で考えて、自分で決断して、自分で一番良い行動を採るというのは、日本人の私たちには、だいぶ難しいことなのです。

『ヒロタさん!』、私の娘のところで、真っ直ぐな列が乱れていて、先生に注意されるのが、いつも私の娘でした。また、もう保育が始まっているのに、一人だけが、園庭の遊具に、のんびりと私の娘が乗って遊んでいるのです。平気なのです。それで、叱られて、不承不承、口をとんがらせてクラスルームに入ってくるのです。

そういう行動を、家内が、娘に聞くと、『おやすみ時間に、あたしが遊具に乗ると、ほかの人が乗れないので、私は、使っていない時に、遊具に乗るの!』と答えるのです。親の欲目ですが、娘には一理あります。奥手の友だちは、待っていても乗れないので、自分の番を譲って、自分は時間外に行動する、こう言った行動形式で、私の下の幼い娘は生きていたのです。

団体行動の得意でない、彼女は〈てんでに生きる〉特異な日本人で、けっこう珍しい珍奇種だったのでしょう。規則通りにやりたくないのは、よく注意され、叱られ、立たされた父親譲りで、その遺伝質のせいで、〈はみ出し者〉だったのでしょう。

ところが、最近、そう言った〈別行動形式人間〉が、新しく評価されているのだそうです。災害時に、団体行動に人を駆り立ててしまうよりも、〈てんでに〉に、ある人は右に、ある人は左に、ある人は高い所pに、ある人は物陰に、各自の確信と選び取りで行動する様に勧められているのだそうです。何も持たず、物を教室や家に、取りに戻らないで、空手で逃げるべきです。

でも、指導者に好都合な団体行動しかできない人には、決断能力が養われていませんので、とっさに、そんな行動は、かえって不安と恐れに苛まれてしまうのです。みんなと同じ色や形状のものを持つことで、持たない不安から救われるのです。休みの日にどうするか、『Aちゃん、Bちゃんはどうしてるんだろうか?』を見て、自分がどうするかを決める行動形式をとるのが、私たち日本人です。

大陸で13年過ごしました私は、大陸人も、日本人に似た面がある様を感じます。東アジアに共通する行動形式かも知れません。この娘が、アメリカ西海岸の街で、二人の子育て中です。ちゃんと信念を持ちながら育てていて、学校制度の枠の中に入れないで、“ Home school ” で教育を受けさせているのです。画一な教育ではなく、各自が選び取れ、親や本人の意思を入れられる教育です。昨年末に、ビデオが送られてきました。

それは、1783年12月23日に、ジョージ・ワシントンが、陸軍最高司令官の辞任のおりのスピーチを、高一の男孫が全て暗記し、同じ様な教育を受けてる子たちの合同授業のおりに、発表している様子です。日本では、吉田茂内閣総理大臣の演説を暗記させる様な教育は行なっていないと思われます。
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〈てんでに〉決められる能力、採れる行動規範、価値観、人生観、生命観を培っているのです。それは自分の責任で生きていくためです。私も、あまり人が選ばない様な生き方をしてきました。功績も、誉も、家だってありませんが、これでよかったと、関東平野の北のアパートで、今を感謝して、家内と過ごしております。

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