110年

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今日、3月23日は、父の生誕110年の誕生日です。61歳で召されて、半世紀が経とうとしています。この年の1月、逗子開成中学校の13人の学生が、ボート転覆の水難事故に遭って亡くなり、そのことを歌った「真白き富士の嶺(ね)/作詞が三角錫子、作曲がジェレマイア・インガルスー)」が作られました。

真白き富士の嶺、緑の江の島
仰ぎ見るも、今は涙
歸らぬ十二の雄々しきみたまに
捧げまつる、胸と心

ボートは沈みぬ、千尋(ちひろ)の海原(うなばら)
風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に
力も尽き果て、呼ぶ名は父母
恨みは深し、七里ヶ浜辺

み雪は咽びぬ、風さえ騒ぎて
月も星も、影を潜め
みたまよ何処に迷いておわすか
歸れ早く、母の胸に

みそらにかがやく、朝日のみ光
暗(やみ)に沈む、親の心
黄金(こがね)も宝も、何にし集めん
神よ早く、我も召せよ。

雲間に昇りし、昨日の月影
今は見えぬ、人の姿
悲しさあまりて、寝られぬ枕に
響く波の、音も高し

帰らぬ浪路に、友呼ぶ千鳥に
我も恋し、失(う)せし人よ
尽きせぬ恨みに、泣くねは共々
今日も明日も、かくてとわに

父は横須賀に生まれていますから、ほど遠くない逗子の海岸で、この事故が起こったのです。この年の8月には、「日韓併合」がなされ、悲しい民族対立の始まりになり、今だにその尾を引いています。また、11月には、江ノ島電鉄が藤沢駅から鎌倉間が開業しています。

「公郷町(くごうちょう)」、これが父の生まれた街の名で、日本海軍の横須賀基地に勤務する技官の家に生まれています。横須賀中学で学び、「教育勅語」を、入学試験で暗唱したとかで、それを褒められて入学許可が降りたと、父が言っていました。

四年ほど前に、下の兄と弟の三人で、父の生家を訪問したことがありました。叔母といとこが住んでいて、久し振りの訪問で、軍港を見下ろす小高い丘の上の家でした。私たちの父母が結婚した時、父は、母の姓を戸籍に登録したのです。その生家に、父の本来の姓の表札がかかっていて、ちょっと驚いたのです。

明治が150年、私たちの下の子が今年、40になりますから、父が生まれた年から40年前は、江戸時代だったことになり、何か数字のマジックにあった様な、不思議な時への思いもして参ります。

(横須賀市の市花の「浜木綿(はまゆう)」です)
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転嫁せず

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Windmill, mill or bakery. Vintage hand-drawn illustration

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「責任転嫁」、自分が負わなければならない責任を、他人の所為にして、何食わぬ顔でいることです。どうして嫁を転ばすのでしょうか。漢和辞典によりますと、「嫁」という字が漢語で「よめ」の意味の他に、「嫁に行く」から転じて「売りつける、なすりつける」の意味も持っているのだそうです。それで、「嫁禍(かか)」、自分の災難を他人に押し付けることを、表すことばとして用います。

ちなみに、「嫁」の旁(つくり)の「家」は、家の意味を表すのではなく「か」という音を表すもので、「穫り入れる」との意味の「稼(かせ)ぐ」ことを言うそうす。そこから、「迎え入れた新婦」のことを、そう言う様です。さらに「稼」の偏の「禾」は穀物の稲を意味しています。それで、「家」が「佳(か)/よい」と同じ音を表すもので、穀物を植え、実らせ、農作業を行い、そう言った仕事に励むこと、稼ぐと言った意味を持っているそうです。

広田弘毅は、福岡県の出身で、元外交官、斎藤、岡田、近衛内閣時の外務大臣でしたが、南京事変の時点で、総理大臣の職にありました。その責を問われて、極東裁判で、A級戦犯で死刑判決を受け、処刑されています。広田は、公判中に沈黙を貫きました。『このままあなたが黙っていると危ないですよ。あなたが無罪を主張し、本当の事を言えば重い刑になることはないんですから』と勧められ、無罪を主張するよう促されても、それを拒んだのです。天皇や自分と関わった周囲の人が、不利になることを避けたからだと言われます。

同時期に、A級戦犯で訴追された被告たちのほとんどが、責任を自分で果さない中、『高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては、喜んで全責任を負うつもりです!』と、広田は言って、責任転嫁などしませんでした。石屋の息子で、苦学して東京帝国大学を卒業した人でした。そんな出自の彼の方が、真実な心意気を宿した《気骨の人》でした。

『東條に唆(そそのか)されて仕方なく!』とか『時の巡り合わせが良くなかったから!』とかの言い訳や、責任転嫁をまったくしなかった、潔い人でした。広田の静子夫人については、次の様に記されています。

『広田の妻・静子は、東京裁判開廷前の1946年(昭和21年)5月18日に鵠沼の別邸で服毒自殺している。自殺の理由として、国粋団体の幹部を親に持つ自分の存在が夫の裁判に影響を与えると考えていたためとされている。死因は初め狭心症と発表されており、自殺であったことは1953年(昭和28年)の広田の追悼記念会で公にされた(ウイキペディア)』とです。

(オランダ公使の折、『風車、風が吹くまで昼寝かな』と詠んだ広田弘毅です)

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