不如帰

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体が元気な時には、そんな思いにはならないのですが、病む人の多くは、母を呼ぶのだそうです。献身的に私たちに仕える様にして、育ててくれた母がいて、誰もの今があるのです。弱さを覚える時に、母を思い出しては、とくに男子は、そうなのです。

正岡子規(本名は〈常規、幼名は升〉だそうです)は、短い34年の生涯の後半の7年程は、結核に冒されて、闘病生活を送っています。喀血を発病した1889年5月に、升は「子規(しき)」と称する様になっています。この「子規」は、「ほととぎす」と読むのです。他に、「杜鵑」、「不如帰」、「時鳥」と漢字を当てて表記することがあります。どうして、彼が「子規」と名乗ったのかの経緯は、次の様です。

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「杜鵑の吐血」という中国の故事が由来です。「蜀」は古代中国、長江流域(四川省)で栄えたとされる国だ。蜀といえば「三国志」の蜀が有名だが(3世紀、日本なら卑弥呼の時代)、それよりも千年以上も前に蜀という国があったという(それに関係したらしい三星堆遺跡が1986年に発掘され、多くの金器や青銅器などを出土、黄河流域中原文化とは別の、中国特異な文化遺跡として大きな注目を集めた)。

 その蜀が荒れ果てていた時、杜宇という男が現れ、農耕を指導、蜀を再興した。彼は帝王となり、望帝と称した。望帝杜宇は長江の氾濫に悩まされたが、それを治める男が出現、彼は宰相(帝王、補佐)に抜てきされた。やがて望帝から帝位を譲られ、叢帝となり、望帝は山中に隠棲した。実は、望帝が叢帝の妻と親密になったのがばれたので望帝は隠棲したともいわれる。

 望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身した。そして、杜宇が得意とした農耕を始める季節゜(春~初夏)が来ると、そのことを民に告げるため、杜宇の魂化身ホトトギスは鋭く鳴くようになったという。月日は流れて、蜀は秦(中国初の古代統一国家。始皇帝が建国)に攻め滅ぼされた。それを知った杜宇ホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。帰ることが出来ない。)と鳴きながら血を吐いた。ホトトギスの口が赤いのはそのためだ。
 以上がホトトギスを不如帰、杜宇、杜鵑、蜀魂、蜀鳥、杜魄、蜀魄などと表記するゆえんだ。

ホトトギスは実際血を吐くことはないのですが、口の中が真っ赤であることと、その時の泣き声がとても鋭く甲高い声なので、血を吐いてもおかしくない様子から、先の故事とホトトギスの姿を重ねて見ていたのだと思われます。(“ 教えてgoo ”から)

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病んだ子規は、母親を思い出してもいたのでしょうけど、故郷の「伊予国温泉郡藤原新町(現松山市花園町)」を思い出して、次の様に、短歌を詠んでいます。
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足なへの病いゆとふ伊豫の湯に 飛びても行かな鷺(さぎ)にあらませば
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ここで子規は、「ほととぎす」ではなく、『鷺でもあるかの様に!』と詠んでいるのです。水漏れ箇所の工事のために、同じアパートの二階に引越しを余儀無くされた私たちは、引越し前日に、「日光オリーブの里」に宿をとって、二泊いたしました。そこは、この正月に、家族14人で宿泊して、交わりを持った宿泊施設で、肺炎騒動でキャンセルがあって、「貸し切り」で、投宿客は私たちだけでした。

そこには、「伊豫の湯」と同じ様に自噴温泉があって、闘病中の家内のために、『ご一緒にどうぞ!』と、フロントの方の、優しい計らいで、一緒に温泉に入ることができました。家内の背中を流し、頭髪洗いの助けをすることができたのです。まだ彼女が元気な頃に、娘が宿をとってくれて、京都の「大原の湯」に入って以来の、家内の温泉浴でした。

時三月、間もなく、不如帰の鳴き声も、染井吉野の桜も楽しめそうです。今の切なる願いは、コロナ騒動が終息し、平常な生活が戻ってくることです。

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