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作詞が松村又一、作曲が上原げんと、歌が岡春夫の「国境の春」と言う歌が、昭和14年に発表されました。
遠い故郷は はや春なれど
ここはソ満の 国境(くにざかい)
春と云うても 名のみの春よ
今日も吹雪に 日が暮れて
流れ果なき アムールよ
ペチカ燃やして ウォッカ汲(く)めば
窓に流れる バラライカ
祖国離れて 旅する身には
なぜか心に しみじみと
響くやさしの セレナーデ
たとえ荒野(あれの)に 粉雪降れど
やがて花咲く 春じゃもの
咲けよオゴニカ 真赤に咲けよ
燃ゆる血潮の この胸に
明日の希望の 花よ咲け
中国東北のロシア(かつてのソヴィエト)の国境あたりの情景が、この歌に歌い込まれています。かつて、広大な地に誘われて、多くの青年たちが、狭い日本を抜け出して、出掛けて行きました。私の父もその一人でした。決して満洲国建設の野望のためではなかったのだろうと思います。あのブラジルに理想を掲げて、多くの移民が出掛けた人たちと、変わらない夢を果たそうとして出掛けたのでしょう。
その満洲の北端に、幻の花とでも言えそうな、《アゴニカ(別名オゴニカ)》が咲いていました。どんな花だったのでしょうか。雪の中を咲きだす、雪割草や雪中花(水仙)の様な、淡い色ではなく、『真っ赤に咲けよ』と歌われるのですから、実に綺麗だったのでしょう。ネットで探すのですが、どこにも見当たりません。
『男命の捨て所!』、こんな歌詞で、誘われ、煽られて、きっと父は海を渡って、満洲の荒野を駆け巡ったのかも知れません。鉱山学を納めた父でしたから、満洲の鉱山開発や試掘のために、朝鮮半島や満州に呼ばれた様です。あの時代に生きようとした若者の選択肢の一つが、「満洲行」だったに違いありません。
父は、その頃のことは、あまり語りませんでした。きっと封じて置きたかったのかも知れません。家にいる時は、炬燵にあたったり、横になって、じっと目をつむりながら、何かを思い出している様な姿を覚えています。父も、《明日に希望をつないで生きる若者》だったのでしょう。この「国境の春」が歌われ始めた年に、兄が生まれ、「満」と父に名付けられています。
(満洲開拓期の幼子の写真です)
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