国難

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江戸幕府が、長崎の「出島」で、中国とオランダとの通商だけを許して(朝鮮王朝と琉球王朝とは外交はありました)、海外との交流を禁止した、「鎖国令」が出されたのが、1639年でした(実際には、1633年に第一次鎖国令が出され、1639年には、第五次鎖国令が出されたのです)。そんな鎖国が終わるのが、1854年の「日米和親条約」ですから、215年もの間、西欧諸国との文化や物のや人の交流はなかったわけです。

その鎖国下に、独特の日本文化が育ったことになります。武士だけではなく、町人でも、農民でも、文字の読み書きができ、お金の計算・算術ができ、武士たちの生き方の影響が庶民の間に、歌舞伎などの演芸や書物を通して、及んでいたのです。知的水準は、ヨーロッパ諸国よりも高かったのです。それは幕末の日本にやって来た、欧米人が驚いたことでした。

鎖国が終わろうとしていた1853年7月8日午後5時に、ペリーの率いるアメリカ艦隊が、三浦半島の浦賀沖にやって来たのです。いわゆる「黒船」です。国を挙げての一大事、まさに「国難」でした。江戸幕府の役人以外で、最も早い時期に、浦賀に駆けつけたのが、佐久間象山でした。自分の目でアメリカ艦隊を観察したのです。その時、彼が携行したのが、<望遠鏡>でした。象山は、ただの烏合の衆ではありませんでした。すぐさま象山は、浦賀の港を見下ろせる山に登るのです。そこからアメリカ艦隊の様子を見て、大砲の数や、その威力までも記録します。

幕府の船も、野菜や水を売ろうとする船も、木っ端の様な木造船、一方、アメリカ艦隊の戦艦は、蒸気で動く黒い鉄の船で、大きさは比べられないほどでした。これを観察検分した象山は、「攘夷(じょうい/西欧からの外敵を追い払おうとする考え)」から「開国」に、いち早く考えを転換してしまうのです。「精神論」や「伝統」に拘らないで<時を読む>ことに早い人であったことになります。

そう言った広く、遠くを見渡せる人材が、幕末には育っていたわけです。<新しいものの考え方>をする人がいたので、日本は、西欧諸国との遅れを短期間で挽回することができ、先進の西欧諸国と肩を並べられたのです。力関係を保つために、軍事力の増強で、「富国強兵」が叫ばれて、結局は、軍事優先がもたらしたのが、太平洋戦争での敗戦、無条件降伏受諾に至ったわけです。

象山が、浦賀に駆けつけたのは、彼が、1811年生まれですから、42才でした。この年齢くらいの人材が、政治行政の責任者に就いたら好いのではないでしょうか。新しさと古さの間で、双方を知った賢明な判断や決断が、その年齢くらいが、最も冴えているのかも知れません。現在も、若い世代に任せ切ったら、昏迷の中から国も自治体も会社も学校も、抜け出られそうです。ただ、象山の<玉に瑕(きず)>は、自信過剰で傲慢な人だったそうですから、年齢はともかく、そうでない人柄が相応しいのです。

そう、我々の世代は、一線を二歩も三歩も退いて、<ご隠居>が似合いそうです。そして、象山に倣って、心の望遠鏡で、遠く過去をを眺め、大観の眼を養い、さらには、心の顕微鏡で、今の細かなことにも気を張りができるものでありたい、そう願う五月の下旬です。

(1654年に描かれた「黒船」です)

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