魯迅

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仙台市の郊外に、耳鼻咽喉科があって、そこに入院し、手術を受けたことがありました。東京近辺にも上手な鼓膜再生手術をす医師がいるのですが、知人からの『仙台に名医がいます!』との紹介があって、身の回りの持ち物を鞄に詰めて、北に向かって東京駅から新幹線に乗りました。

仙台駅から、地下鉄に乗って、下車駅からタクシーで、目当ての病院に着き、五日間ほど入院し、手術を受けたのです。私の耳の鼓膜は、左右とも再生手術が必要とのことでした。術後の痛さは格別なものがありました。

帰京する日、仙台市内を見物をしようと、市内遊覧バスに乗って、伊達政宗の居城であった青葉城址(仙台城)に行ってみました。病院の周りは住宅街でしたが、駅周辺は綺麗な街でした。幕末の戊辰戦争での消失はなかったのですが、太平洋戦争末期のアメリカ軍の空襲で、城が消失してしまっていました。広瀬川が緩やかに流れていて、静かなたたずまいを見せていたのです。

この街には、戦前、仙台医学専門学校がありました。今の東北大学の医学部に当たります。東北大学のサイトに次の様にあります。

『この建物(仙台医専6号教室)は、「近代中国の父」といわれる文豪魯迅(ろじん)が学んだ場所、「魯迅の階段教室」として広く知られています。 1904年の建築後、改修・移築を経ながらも、今なお彼が留学していた頃の面影を残す歴史的な佇まいを見せています。』
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「狂人日記」や「阿Q正伝」や、この教室で教えを受けた、藤野厳九郎先生を語る「藤野先生」を著しいている魯迅は、1904年に、この医学校で学び始めています。やがて医学から、同国民の啓蒙のために文学に転向していくのですが、その切っ掛けとなったのは藤野先生との出会いと教えでした。その経緯は次の様に伝えられています。

『2年生に進級した魯迅は、細菌学の授業で思いがけないくらいに悲しいものを目にする。当時医学校では講義用に幻灯写真を用いていたのだが、授業時間が余ったときなどは日露戦争の「時局幻灯」を映して学生に見せていた(このころは日露戦争で日本がロシアに勝ったということで日本中がその勝利に浮かれていた)。そこでは、日露戦争のニュースで、ロシア軍スパイを働いた中国人が中国人観衆の見守る中、日本軍兵士によって首を切られる場面が流れており、観衆は万雷の拍手と歓声をあげたのだ(幻灯事件)。文章の中ではこのように書かれている。「いつも歓声はスライド1枚ごとにあるが、私としてはこの時の歓声ほど耳にこたえたものはなかった。のちに中国に帰ってからも、囚人が銃殺されるのをのんびり見物している人々がきまって酔ったように喝采するのを見た―ああ、施す手なし! だがこのときこの場所で私の考えは変わった。」魯迅は、今必要なのは医学ではなく、国民性の改革だと考えを変え、医学を捨てて仙台を離れる決意をしたのだった。』

魯迅は、「中国近代文学の父」と称されるまでの文豪になっていきます。今でも、魯迅は仙台市民に覚えられていて、「魯迅記念広場整備事業」が、仙台市によって進められ、2021年に完成予定だそうです。落ち着いたら、また訪ねたい街であります。

(魯迅の誕生地の「紹興」と学んだ東北大学の教室です)

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