お父さん

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同じ年の生まれに、実に綺麗なボーイソプラノの歌手がいました。三宅公一という歌手でした。この人の歌ったのが、昭和33年、作詞が野村俊夫、作曲が船村徹で、「逢いに来ましたお父さん」でした。
 
1 母さん作った 日の丸べんとう
  一人たべたべ 汽車の旅
  夢でみていた 東京の町を
  地図をたよりに 九段まで
  逢いに来ました お父さん

2 泣き泣き拝んだ 靖国神社
  合わす両手に 桜散る
  待っていたよの たゞ一言を
  聞いてみたさに はるばると
  逢いに来ました お父さん

3 お別れした時ゃ 乳呑児だった
  丁度あれから 十五年
  つらい淋しい 片親そだち
  故郷(くに)のはなしを お土産に
  逢いに来ました お父さん

小学校の同級生にも、中学、高校、大学の同級生にも、母子家庭の子がいました。父のいる私には、そんな級友の寂しさや、辛さ、切なさなんか分かりませんでした。でも、みんな精一杯に戦後を生きていたのです。お母さんが八百屋の店員をしていた同級生も、後に市長を務めた同級生もいました。

お母さんが、電電公社(今のドコモです)で働きながら、息子を私立の高校に行かせていました。とびっきりの悪戯小僧で、よく気が合って、家に遊びに行ったりしたのです。卒業して、何年も経って、同窓会に出た時に、その頃、私は酒をやめていましたが、彼の行きつけの新宿の飲み屋に寄って、彼の家に泊めてもらったのです。

その客間の長押(なげし)に、軍帽をかぶった軍人の写真が掲げてありました。高校時代に行った時の家は、お母さんの家でしたが、泊めてもらったのは、彼が建て替えた、有名な設計士による家でした。彼のお父上のいない理由を聞いたことがなかったのですが、その時初めて彼の生まれを知ったわけです。

その同窓会がはねた後、飲み屋で、彼が歌っていたのが、「上海帰りのリル(1951年津村謙が歌ったものです)」でした。お父上は、大陸で戦死したのでしょう、亡父の死地を思って、切々と歌っていました。その後、私は、華南の地で生活をしたのですが、私の父も大陸で過ごした年月がありますから、いつかまた会って、いろいろと話をしてみたいと、今思うのです。
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高倉健の映画に誘ってくれ、一緒に観た同級生のお父上も、大陸の太原(たいげん)で亡くなっています。彼は、自分の父親を語ってくれたのです。有名な大将の弟君で、ベルリンオリンピックの馬術競技に、補欠に選ばれ、渡独したほどの名手だったそうです。子どもの頃、お母さんの故郷の九州で育っていて、その家に残された『父の軍帽をかぶって、チャンバラをやって遊んだ!』と言っていたのを思い出します。学校に行っていた頃、この彼を、家に連れて来て、私の父にも会ってくれました。どんな気持ちで、父と話していたのでしょうか。

彼らは、どんな思いで、この「逢いに来ましたお父さん」を聞き、九段の靖国を訪ねて、逢えることなどないのですが、どんな思いで、父を亡くした戦争を思い返したのでしょうか。戦争が終わって後、どんな思いを抱きながら、これまで生きて来たことでしょうか。この8月で終戦75年になります。私たちのそれぞれの戦後であります。

(中国山西省太原の街の古写真、残留日本人を記録した書物です)

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