global

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“ グローバル【global】” とは、goo辞書に、次の様にあります。
[形動]世界的な規模であるさま。また、全体を覆うさま。包括的。「グローバルな視点」

どうも習ったことがないと思っていたら、英語辞書の“英辞郎”によると、〈保険業界の用語〉なのだそうです。“globe” という「地球」という語からの用語です。「地球規模の」という意味で、日本語では、「グローバル化」の様に使っているのです。

現下のコロナウイルス騒動が、どこから始まったにしろ、地球規模の問題になっています。こんなに、国家間、人間と人間との間が、地理的に近くなったことは、かつてありませんでした。家内の兄は、1950年代に、ブラジルのサントスの港まで、延々と長い船旅で出掛けたのですが、十数年前、私が、南米に出かけたのは、カナダのトロント経由で1日強でしたから、考えられないほど地理的にも時間的にも近くなったわけです。

ところが、その反面で、人と人との〈心理的な距離〉が、なかなか取れなくなっている時代がきているのではないでしょうか。人種や言語の問題だけではなく、違った背景やモノの考え方の違いを越えられなかったりで、人との関係を避ける傾向が大きいのではないでしょうか。

この月曜日は、家内の通院日で、大学病院に、息子の運転、その息子、私たちの孫の同乗で出掛けましたが、検査士、主治医、看護師の他には会話がありません。廊下を歩いても、どなたも接近を避けようとして、距離を取られるのです。会釈の機会もなくなってしまっているのです。

コロナのせいばかりではなく、人間関係の煩雑さが大きくなっていっても、平気な時代になりつつあるのが、実に寂しいのです。そう、先日のホームセンターでの、『クソジジイ!』と叫んだあの婦人の様に、一方通行の言葉を、矢の様に放った言葉だけになってきているのです。

中学の担任が、『廣田君。おじさんたちに話しかけて、いろいろなことを聞いてみたらいい!』と言われて、それを実行したことがありました。なるほど、親以外に、いろいろなことを教えられたのです。それをしないで、数本の指でキーを打って、思いを文字化はするのですが、言葉で話をしない方が、今は良くなっでいる時代なのでしょうか。

家内は、散歩中に、向こうから来るチベットなどからやって来ている留学生のみなさんに、声をかけて、困ってることはないかとか聞いたり、激励したりしているのです。ベンチに座ってるご老人たちにも、何くれとなく語りかけています。庭で植木をいじっている方には、花を褒め、育て方を聞いたりしています。《人が人である》のは、会話による交流や関係があるからなのでしょう。

これ以上、人と人とが疎遠にならない様に、心から願う、梅雨突入の六月の半ばです。

(“GAHAG”による地球です)

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