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例幣使街道かみなりに扈従され 平畑静塔

「扈従(こしょう/貴人や主人に従うこと)」とは、難しい言葉を詠み込んだものです。ほとんど毎日、私は、この令和の「例幣使街道」を通ったり、横切ったりしていますが、うやうやしく行き来する、京の都の公家の一行を、この街の人は眺め続けていたんだと思うと、自分も江戸期に引き込まれていきそうです。

そんな行列に、情容赦なく雷光を放ち、雷鳴を轟かせ、雷雨を降らせ、軒や木下に身を避けたんでしょうか。昨晩は、夜空に雷光が走り、天の大太鼓を打ち鳴らし、車軸を流す様な大雨でした。

昔から、雷嫌いの人が、この時期は蚊帳の中に隠れ込んだりして、けっこう多いのだそうですが、私は、煌めきも、大音も、大雨も大好きなのです。アルバイト中に、突然の雷雨を避けて、雨宿りした木に、そこを私たちが立ち退いた後に、落雷があって、木の下に避難した人が、打たれて亡くなったことがありました。それなのにです。

大陸の雷を、昨晩は思い出して、窓を開けて、閃光の走る夜空を、しばらく見上げていました。あれに比べると、昨夜のは、まだ〈丁稚ドン〉、まだ未熟な雷さまでした。中国大陸の空が広いからでしょうか、大太鼓を打ち鳴らしている様な、憂さを大払いする様な、遠慮の綱を切り捨てた様な、轟わたる雷鳴を、腹の底に感じて、わだかまりがみんな飛び出ていく様でした。

その雷雨の雨脚も半端ではありませんでした。瞬く間に道路を溢れさせてしまい、河のような流れを作ってしまいます。車軸を流すなんて半端なことではありません。何でもかんでも押し流していくほどです。鳴り止み、降り止むと、何もなかったように平然としてしまうのがいいのです。

お陰で、昨夜は、よく眠れました。峠を越したのでしょう、遠雷を子守唄のように聞いているうちに、眠りについたのです。

下野の梅雨の雷住まいおり
雷にさあねんねしなと子守唄

今朝は、もう夏の日が照り始めてきています。雷一下、酷暑の季節の到来です。また家内の手をとって、大陸に轟わたる雷鳴を聞きに戻りたいと願う梅雨の晴れ間です。

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このところ一ヶ月ほど、〈虫〉が騒ぎ続けて、止むに止まれず、先週、市内バスに飛び乗って出掛けてしまいました。何の〈虫〉かと言いますと、「カツ丼虫」でして、仕切りに食べたくなってしまったわけです。

在華の折にも、時々、この〈虫〉が騒ぎ始めて、困ったことがありました。バスに乗って出掛けても、煮ても(?)似つかない〈カツ丼もどき〉では、〈虫〉が収まらないのです。子どもの頃に、父が食べさせてくれた記憶が、ムズムズと騒ぎ出したからなのでしょう。

東京オリンピックが開催された年、1964年に開店した「食堂」を、ネットで見付けたのです。ここの市内バスは、利用者が少なくて、行きも帰りも私ひとりの貸切でした。昼前に着く、ちょうどの便があって、それに乗ったのです。勇んで入店し、『カツ丼ーン!』と注文したのです。市の北の外れで、過疎化も進み、コロナ禍もあり、一組の客と私と、しばらくしてやってきた男性客だけでした。

ご多分に洩れず、近づかない距離に席をとって、座っていました。切り盛りが上手なのでしょうか、ものの五分もたたずの『おまちどうさま!』でした。農村地域にあって、隣町への幹線道路沿いで、トラックの運転手さんが常連なのでしょう。体を使う人の濃いめの味で、爺さんの私には、ちょっと濃いめでした。が、やはり人気店とあって、美味しかったのです。開業以来のたれに、55年も継ぎ足しているとかで自慢の味に偽りはありませんでした。

また6月1日、『身の回りの世話をしてくれるので、休ませて上げたい!』と家内が言って、この正月に家族会をした施設に、二泊三日のお泊り遠足に行ったのです。コロナ緊急事態宣言明けで、営業を再開した初日で、私たちの他には、どなたもいませんでした。借り切り状態で、二人っきりでも、好い賄いもしてくださって、好い時を持てたのです。

その余韻と甘えでの「カツ丼」でした。『たまに出掛けて!』と言われて、その気になっています。家内が、長らく飲んできました、痛み止めも、だいぶ前から4mm錠から2mm錠に減り、毎日が二日に一回の服用薬になってきています。その他の薬も様子待ちで、休む様になったりして、何となく安心がやってきているのです。発病以来、一年半が過ぎ様としています。みなさんの応援と、お支えに感謝しております。ところで、このカツ丼は、今のところ家内には、味が濃過ぎて一緒には無理の様です。いつか一緒できるでしょうか。

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