マーガレット

 

 

駅から我が家までの道端に咲く花を、先週末のやって来た次男が撮った写真です。この花の名前の“Marguerite”は、次女の娘婿の父方のおばあちゃんと同じ名前です。私の母と同じで、4人の男の子のお母さんで、女手一つで育て上げたのだと聞きました。

《女は弱し母は強し》、いずれの国のお母さんも、同じで、その手で作ってくれた食べ物を食べて、洗ってくれた着物を着て、掃除をしてくれた部屋で休み、その笑顔とことばに送り出されて、子は成長するのです。

このマーガレットの原産国は、アフリカ大陸の西岸にあるカナリヤ諸島だそうで、明治の末期に、わが国に伝わっています。そうしますと、この道端の花は、長い旅をしてやって来て、そこで花開かせて、行く人を楽しませてくれていることになります。

そういえば、マーガレットを訪ねた時に、美味しいお茶をご馳走になったことがありました。

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出自

 

 

この絵は、「かやぶきの里」と言う題の絵で、出雲出身の絵師・堀江夕聲(ほりえゆうせい)が描いたものです。子どもたちが、嬉々として遊ぶ様子を描写したものです。この夕聲を、次の様に紹介しています。

「出雲国大東(現在の雲南市大東町)に森山勇兵衛為春の第四子として生まれ、後に母方の堀江家を継ぐ。幼名は善三郎豊信、青年期に雲峯・盛伯と号し、京都で海北家の養子となった折に名を海北斎宮介精一、字を友聲とした。ほかに斧巖・豈楽斎・遷喬などと号す。

 幼少より絵を描くことを好み、文化十四年(1817)に京都で山本探淵に師事。また四条派の柴田義董に私淑した。二十代で伯耆、備後、美濃など諸国を遊歴し、萩の毛利家で多くの作品を描く。天保元年(1930)、海北友徳の懇請を受けて海北家の養子となり、宮中・社寺の御用を勤めるが、翌年、養子縁組を解消され、出雲へ帰国した。天保七年(1836)からの数年を丹後国宮津で過ごし、宮津藩お抱えの話が挙がるほど当地で高い評価を得ている。嘉永五年(1852)に広瀬藩九代藩主・松平直諒の下で御用絵師となり、以降はl広瀬を中心に活動した。

 友聲は近世島根における数少ない職業画家であり、様々な筆法を駆使して多種多様な画題を手がけた。中でも膨大な数の写生を基にした、緻密な描写と鮮麗な色彩による花鳥画が名高い。横山雲南(後の黄仲祥)・上代 英彦ら多くの門人を指導し、堀江家からは養子の友節(二代)以降も有聲(三代)・和聲(四代)と画家を輩出した。」

この夕聲の出身地である「大東」に、私は行ったことがあります。母の親族が住んでいて、鳥取に出張した折に、出雲市と、この大東とを訪ねたのです。その大東の親戚の家で、石川五右衛門の様な〈釜の風呂〉に入れてもらったのです。大きな鍋の中に木製の簀(すのこ)を入れて浮かせ、それに載って湯に体を浸すのです。木の風呂桶しか知らない私にとって、異文化、異習慣の体験でした。

こんな田舎が、母の由縁の地であることを知って、以外だったり、驚きであったのを思い出します。日本の神話のふるさとである「出雲国」と母、そして自分との繋がりもまた、意外に感じてなりません。この街からは、長崎に落とされた原子爆弾で被爆した、長崎大学医学部の永井隆医師が住んでいたことがあったそうです。

こう言った名のない土地との繋がりがあって、自分がある方が、けっこう多いのでしょう。もっと昔は弥生人や縄文人だったわけで、もっと昔はシベリヤ、さらに昔には、どこに繋がるのでしょうか。チグリスやユーフラテスの流れの源辺りに、私たちの出自(しゅつじ)をたどれるのでしょうか。

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