今日は、「立夏(りっか)」、二十四節気の一つです。暦の上では、今日から夏と言うことになります。

先週、一人のお父さんが、この秋に、東京の国際学校の中学に入学するための準備をしているお嬢さんを連れて、家内をお見舞いに来られました。私たちの中国滞在を、様々な面で、助け続けてきてくださっている方です。華南の街で、手広くパンの店と、パンの製造機器や原材料を扱う会社を経営されておられる方です。

昨秋、この方は、お母様を病で亡くされ、私たちも告別式と埋葬式に参列したのです。お父様も既に召されておられ、東シナ海を遠望する小山の中腹の墓所に、お母様は埋葬されたのです。大きな墓所で、家内と私に、『まさかの時に、ここに一緒に納骨しましょう!』と、微笑みながら勧めてくれました。それほど好意を示してくださる方です。

病んで闘病されていたお母様を、その村や、この息子さんの家に滞在中に、家内と私は訪ねました。家内は、よく患部をさすって上げたりしていていたのです。ご自分の母親への家内の愛を、彼はとても喜んでおいででした。先日、面会ができる様になった旨、息子さんに連絡をしましたら、来日されて、電車に乗ってやって来てくれたのです。

奥様は、入院当初に、息子さんとお嬢さんとで、家内を見舞いに来てくれましたが、インフルエンザの流行で家内に会うことができませんでした。大きな愛と敬意をお示しくださるご家族なのです。彼は、近くのスーパーにお嬢さんと出かけて、家内の好物のそうめんや果物、お米、お昼の弁当まで買って来てくれました。

お帰りになる時に、家内にハグして、涙を流して泣いて祈ってくれたではありませんか。まるで自分の母親にする様にして、男泣きしてでした。病んで回復途上で元気になっている家内に、『華南の街に帰って来て下さい!』と言ってくれたのです。素敵なお見舞いを受けて、家内はとても喜んでいました。

(この方のふるさとの「百胜村」の海辺です)

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どだい無理でした。四十数年前に建てられた、この家には、各部屋に時計があります。ここには、もう一つの玄関があって、そこに手巻きの柱時計があり、四つの居室や台所には、それぞれに凝った時計が架けられています。住まなくなってから何年になるのでしょうか、電池交換をされていない時計が、その時刻のままです。

『電池交換をしたら動くかも?』と、お見舞いに来られた若き友人に言われて、先週近くのドラッグストアーで、〈単2〉の電池を買って、家に帰ってから、台所兼食堂の壁の時計の電池を交換してみました。淡い期待があったのですが、奇跡は起こらず、ピクリとも動かなかったのです。

2年前に、腱板断裂でしばらく動かさなかった肩は、筋肉がすっかり衰えていました。長いリハビリと、療法士の方に言われる通りの自主トレをして、やっと、回復することができました。あんなちっぽけな電気時計が、十数年も動かなかったのに、急激にエネルギーを注入しても、ウンとも動かないのは当然です。

人間も、一度挫折や失敗をして、心が打撃に見舞われてしまうと、なかなか、やる気を出せなくなってしまう様です。もともと失敗だらけの私は、免疫ができているのか、抵抗力が強かったのか、挫(くじ)けることなく生きて来れました。これって、けっこう父や母譲りなのかも知れません。

『校長室に立たされた!』と、そんな経験を話すと、一度もそんな経験のない人には、羨ましがられるほどです。一人立つには、30cmほどの場所があれば、十分です。自分専用の部屋を欲しがったこともありませんでした。自分の名札のかかった家も欲しいと思ったこともありませんでした。何もないまま年を重ねてしまいましたし、昇進も挫折も左遷も、関係ない人生を歩んで来たんだと思い返しています。

『三十代で自分の家を建てました!』と言う人と何人か会ってきました。『別荘を持っているんです!』と誇らしげに語る人がいましたが、羨ましかったり、妬ましかったらいいのですが、そんな願いのない自分で、『いいのかな?』と思ってるのです。

男五尺の身体を横にするには、畳一畳もあれば十分です。そう言えば、『また畳の上で生活してみたいなあ!』と、華南のコンクリートの硬い石の床の上で生活していた時に、ふと呟いたことがありました。ところが、今、六畳間の畳の上で寝起きする夢が叶えられているのです。家内は14畳もある洋室で寝起きしています。ここは障子も襖も廊下もある和室なのです。

小さな夢が、家内のお蔭で叶えられて、実現したことになります。穏やかで静かで、平和な朝、畳の上で目覚めました。この新しい日に、新しい期待と新しい興奮とをもって生きたいと願っております。

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